大河ドラマ「義経」第22回の感想です。
今週は平家のみなさまの登場が多かったので、平家ファンの私としては嬉しい限りでした。
そして、その平家のみなさまの中で特に光っていたのが知盛さんですよね♪
宗盛をいさめているところを観ていると、「この人が平家の棟梁ならまた違った展開になっていたのに……」と、どうしても思ってしまいます。それから、奥様の治部卿局との会話が良かったです。知盛の言葉は、何か遺言みたいで哀しかったですけれど…。でも、それを落ち着いた態度で聞いている治部卿局も大したものです。
彼女はドラマの中では今までほとんど目立たない存在でしたけれど、これから注目かもしれませんね。
その治部卿局ですが、本名ははっきりわからないようです。ドラマでは「明子」という名前になっていますが、これはドラマのために独自につけられた名前だと思います。それから、知盛の口から唐突に出た「守貞親王をお守りするように…」と言われた本人の守貞親王とは、安徳天皇の異母弟に当たる人ですよね。知盛の妻治部卿局はこの守貞親王の乳母でした。このように平家は、高倉天皇が徳子以外の女性に生ませた皇子も、しっかり自分たちの翼の下に抱え込んでいたのです。
平家の棟梁宗盛さんについても少し書いておきますね。無視すると「なぜ私を無視するのだ?!」とひがまれてしまいそうですから(笑い)…。
大敗して逃げ帰ってきた維盛と、戦わないで帰ってきた知盛の両者を湯気を出しているように怒っているのを観ていると、「この人、戦のことがわかってない!!」と考えざるを得ませんでした。それから、平家伝来の鎧を維盛から奪った上、息子の清宗と二人で喜んでいるところや、恨みの屏風を焼こうとして、突然起こった突風により思わず後ずさりをした後、屏風に当たり散らしているところを観ていると、平家の棟梁としての器が全く感じられません。でも一方では、こんな描かれ方をされてしまった宗盛が、ちょっとお気の毒にもなってしまいました。このドラマでは、清盛や頼朝を立派に描こうとして、宗盛をこのような無能な人物に描いたのでしょうけれど、実際の彼はどのような人物だったのか、気になるところです。私個人の考えとしては、もっと不器用な、人の良いお坊ちゃん気質の人だと思うのですが…。
さて、主人公の義経に目を向けてみますね。
「義仲どのとは戦いたくない。」とつぶやく……義経くん。それでは少し困るのではないですか?義仲が都に入った以上、戦わなければならない運命にあると思いますし、頼朝もそれを望んでいるはずです。
あげくの果てに「知盛どのや重衡どのとは幼いときに一緒に過ごした。平家とは戦いたくない……」。ちょっとちょっと…、義経くん。あなたは平家との戦いを始めたお兄さんの頼朝と共に戦いたくて、「しばし待て」と言う秀衡の反対を押し切って、奥州からはせ参じたのではなかったですか?
「今さら何行ってるの!……」と思わず叫んでしまいました。
毎度のことながら相変わらず甘ちゃんで女々しい義経に、ほとほとあきれてしまいました。これで一ノ谷や屋島の奇襲戦ができるのかと心配です。もしかして、義仲と戦うことによって義経の考え方が変わるのかもしれませんけれど、そのような設定にするのもちょっと疑問に思えます。
実際の義経は、「義仲や平家と戦う!!」と意気揚々と、上洛していたのではないかと思います。
さて、比叡山をいとも簡単に味方につけた義仲さん、都は目前というところまでやってきましたね。
第12回の感想で書いたのですが、義仲がこのように早く上洛できた原因の一つは、主従の絆の固さということが挙げられると思います。今井四郎兼平、樋口次郎兼光などの木曽四天王については、オープニングの解説で紹介されていましたよね。
でも本来、義仲のそばにはその解説でも無視され、ドラマでも当然無視されているとても重要な人物がいたのです。そして、その人の力が義仲の上洛に大きな役割を果たしていたのでした。
その人の名は、『大夫房覚明……』。都出身で興福寺の僧となり、後に義仲の祐筆となって重要な活躍をした人物です。そして、この人自身の生涯もなかなかドラマチックなのです。そこで今回は、大夫房覚明について書かせていただきます。
大夫房覚明 (生没年不詳)
最初は蔵人道広と呼ばれ、藤原氏の学問所である勧学院に出仕していました。そして、近衛天皇の御代に出家し、興福寺の僧となります。名前も「最乗房信救」と改めました。
治承四年(1180)、以仁王と源頼政が平家に反旗をひるがえします。しかし、挙兵は平家の知るところとなり、以仁王は園城寺に逃げ込みました。園城寺は、延暦寺と興福寺に味方になるように書状を送るのですが、興福寺に送られた書状の返書を書いたのがこの信救です。
しかしその返書の中には「清盛は平氏のかす。武家のちり。」と書かれており、やがてそれは清盛の知るところとなります。清盛は激怒し、「信救を処刑してしまえ。」と言ったといいます。
そこで信救は顔に漆を塗り、変装をして興福寺を逃げ出したのでした。逃亡の途中で偶然行家と行き会い、彼に伴われて義仲の許に転がり込んだというわけです。その時に名前も「大夫房覚明」と改めました。
木曽の田舎育ちの武将ばかりだった義仲の陣営にあって、都の事情に通じ学才もある覚明は貴重な存在でした。彼はたちまち義仲に重要視され、義仲の軍師兼祐筆になったと思われます。
さてドラマの中では、倶利伽羅峠で平家に大勝した義仲が、いよいよ上洛の夢が現実になろうとしていたところまで来ている時、行家に「延暦寺を味方につけてはどうか。」と言われていましたよね。しかし史実では「延暦寺を味方につける」という戦略を考え出したのは、行家ではなく覚明なのです。そしてその時覚明が「源氏に味方をするように。」と延暦寺に書き送ったのが「木曾山門牒状」です。
ドラマの中では、延暦寺はいとも簡単に義仲に味方したように描かれていたのですが、源氏に味方をするか平家に味方をするかで、かなりの議論が重ねられたようです。何よりも延暦寺は、以前から平家よりの寺でした。なので平家は、延暦寺を自分たちの氏寺にしようと画策したこともあったようです。つまり平家からも「味方になって欲しい。」とその頃働きかけがあったと考えられます。
しかし延暦寺は結局「命運が尽き果てた平家は見捨てて、これから運が開けるであろう源氏に味方すべきだ。」という結論に達したようです。
こうなった背景には、覚明によって延暦寺の僧徒たちへの諜略が行われていたということがあったのではないかとも言われています。
比叡山延暦寺を味方につけたということは、義仲にとっては大きいことでした。
これによって義仲は、簡単に都に入ることができたのですから…。また後白河法皇も平家によって西国に連れ出される前に、比叡山に登ってしまいました。つまり源氏方にかくまってもらうという形を取ったわけです。その頃政治の最高実権を持っていたのは、何と言っても後白河法皇でしたから、法皇を抱え込むことによって義仲は賊軍になるのをかろうじて逃れることができたと言ってもいいわけです。平家は、三種の神器と安徳天皇を西国に連れ出すことには成功しましたが、後白河法皇を西国に連れ出すことには失敗したことで運が尽き果ててしまったのかもしれませんね。
こう考えると、延暦寺を味方につけることに人力を尽くした覚明の功績は、非常に大きいのではないかと思います。
しかし覚明は、いつの間にか義仲の許から姿を消すこととなります。義仲が上洛してからわずか3ヶ月後に起こった法住寺合戦の時には、覚明はすでに義仲のそばにいなかったと言われています。(『平家物語』では法住寺合戦時、覚明は義仲のそばにいたことになっていますが、種々の貴族の日記には、覚明の名前が全く出てこないのだそうです。)都の事情に通じ、義仲の参謀役であった覚明がいなくなったことで、義仲はその後一直線に衰運に向かっていった……と言っても過言ではないような気がします。
では、覚明はなぜ義仲の許から姿を消したのでしょうか?
やはり、都の貴族たちから評判が悪くなる一方の義仲に失望したということもあったと思います。しかしそれよりも、覚明の目的は平家を都から追い出すことにあったのではなかったでしょうか?平家と敵対する興福寺の僧であり、しかも清盛から追われる形で出奔せざるを得なかった覚明は、平家に対する恨みの気持ちでいっぱいだったと考えられます。なので義仲に協力して平家を都から追い出すことに成功した今、覚明の目的は充分達成されていたわけです。なので覚明は、これ以上義仲のそばにいる必要はなかったのではないかと私は考えています。
では、義仲の許からいなくなった覚明はその後どうなったのでしょうか?
建久元年(1190)、藤原能保室(頼朝の姉妹)が亡くなり、その追善供養の導師をつとめていたのが、名前を以前の「信救」に戻した覚明でした。その後彼は箱根山に住み、頼朝や他の武士のための願文を書いたりしていたようです。つまり信救は前歴を隠し、頼朝に近づいていたわけです。
ところが建久六年(1195)彼は前歴がばれてしまいます。ふすまに手をかけたとたん、「覚明」と昔の名前を呼ばれ、思わず「ははあ!」と返事をしてしまいました。そして「ついに正体を現したな、覚明。」と言われる……、まるで時代劇「大岡越前」の世界のようですね。まあ、そのような会話は実際にはなかったと思いますが、義仲のそばにいた覚明であることがばれてしまった信救は、箱根山から外に出ることを禁止されてしまいました。多くの文献では、その後の彼の消息は不明だそうです。
なお、吉川英治さんの小説「親鸞」では、覚明はその後親鸞の弟子になった……ということになっていますが、これはおそらく吉川さんの創作ではないかと思います。
こうして覚明の生涯を追ってみると、彼は彼なりに乱世を精一杯生きたのだなという気がします。特に、義仲に接近することによって自分の才能を思いっきり発揮できたということには、満足していたのではないでしょうか。
さて来週は、どうやら義経は頼朝の許可なく都に入り、義仲と対面するようですね。確か頼朝から「絶対に都に入ってはならない。」と言う厳命を鎌倉で受けていたはずなのに、「そんなことをやって大丈夫なのかな?」という気がしますが…。
また、平家の都落ちは今週ではなく来週だったようですね。
来週もつっこみながら楽しみに観ます。
今週は平家のみなさまの登場が多かったので、平家ファンの私としては嬉しい限りでした。
そして、その平家のみなさまの中で特に光っていたのが知盛さんですよね♪
宗盛をいさめているところを観ていると、「この人が平家の棟梁ならまた違った展開になっていたのに……」と、どうしても思ってしまいます。それから、奥様の治部卿局との会話が良かったです。知盛の言葉は、何か遺言みたいで哀しかったですけれど…。でも、それを落ち着いた態度で聞いている治部卿局も大したものです。
彼女はドラマの中では今までほとんど目立たない存在でしたけれど、これから注目かもしれませんね。
その治部卿局ですが、本名ははっきりわからないようです。ドラマでは「明子」という名前になっていますが、これはドラマのために独自につけられた名前だと思います。それから、知盛の口から唐突に出た「守貞親王をお守りするように…」と言われた本人の守貞親王とは、安徳天皇の異母弟に当たる人ですよね。知盛の妻治部卿局はこの守貞親王の乳母でした。このように平家は、高倉天皇が徳子以外の女性に生ませた皇子も、しっかり自分たちの翼の下に抱え込んでいたのです。
平家の棟梁宗盛さんについても少し書いておきますね。無視すると「なぜ私を無視するのだ?!」とひがまれてしまいそうですから(笑い)…。
大敗して逃げ帰ってきた維盛と、戦わないで帰ってきた知盛の両者を湯気を出しているように怒っているのを観ていると、「この人、戦のことがわかってない!!」と考えざるを得ませんでした。それから、平家伝来の鎧を維盛から奪った上、息子の清宗と二人で喜んでいるところや、恨みの屏風を焼こうとして、突然起こった突風により思わず後ずさりをした後、屏風に当たり散らしているところを観ていると、平家の棟梁としての器が全く感じられません。でも一方では、こんな描かれ方をされてしまった宗盛が、ちょっとお気の毒にもなってしまいました。このドラマでは、清盛や頼朝を立派に描こうとして、宗盛をこのような無能な人物に描いたのでしょうけれど、実際の彼はどのような人物だったのか、気になるところです。私個人の考えとしては、もっと不器用な、人の良いお坊ちゃん気質の人だと思うのですが…。
さて、主人公の義経に目を向けてみますね。
「義仲どのとは戦いたくない。」とつぶやく……義経くん。それでは少し困るのではないですか?義仲が都に入った以上、戦わなければならない運命にあると思いますし、頼朝もそれを望んでいるはずです。
あげくの果てに「知盛どのや重衡どのとは幼いときに一緒に過ごした。平家とは戦いたくない……」。ちょっとちょっと…、義経くん。あなたは平家との戦いを始めたお兄さんの頼朝と共に戦いたくて、「しばし待て」と言う秀衡の反対を押し切って、奥州からはせ参じたのではなかったですか?
「今さら何行ってるの!……」と思わず叫んでしまいました。
毎度のことながら相変わらず甘ちゃんで女々しい義経に、ほとほとあきれてしまいました。これで一ノ谷や屋島の奇襲戦ができるのかと心配です。もしかして、義仲と戦うことによって義経の考え方が変わるのかもしれませんけれど、そのような設定にするのもちょっと疑問に思えます。
実際の義経は、「義仲や平家と戦う!!」と意気揚々と、上洛していたのではないかと思います。
さて、比叡山をいとも簡単に味方につけた義仲さん、都は目前というところまでやってきましたね。
第12回の感想で書いたのですが、義仲がこのように早く上洛できた原因の一つは、主従の絆の固さということが挙げられると思います。今井四郎兼平、樋口次郎兼光などの木曽四天王については、オープニングの解説で紹介されていましたよね。
でも本来、義仲のそばにはその解説でも無視され、ドラマでも当然無視されているとても重要な人物がいたのです。そして、その人の力が義仲の上洛に大きな役割を果たしていたのでした。
その人の名は、『大夫房覚明……』。都出身で興福寺の僧となり、後に義仲の祐筆となって重要な活躍をした人物です。そして、この人自身の生涯もなかなかドラマチックなのです。そこで今回は、大夫房覚明について書かせていただきます。
大夫房覚明 (生没年不詳)
最初は蔵人道広と呼ばれ、藤原氏の学問所である勧学院に出仕していました。そして、近衛天皇の御代に出家し、興福寺の僧となります。名前も「最乗房信救」と改めました。
治承四年(1180)、以仁王と源頼政が平家に反旗をひるがえします。しかし、挙兵は平家の知るところとなり、以仁王は園城寺に逃げ込みました。園城寺は、延暦寺と興福寺に味方になるように書状を送るのですが、興福寺に送られた書状の返書を書いたのがこの信救です。
しかしその返書の中には「清盛は平氏のかす。武家のちり。」と書かれており、やがてそれは清盛の知るところとなります。清盛は激怒し、「信救を処刑してしまえ。」と言ったといいます。
そこで信救は顔に漆を塗り、変装をして興福寺を逃げ出したのでした。逃亡の途中で偶然行家と行き会い、彼に伴われて義仲の許に転がり込んだというわけです。その時に名前も「大夫房覚明」と改めました。
木曽の田舎育ちの武将ばかりだった義仲の陣営にあって、都の事情に通じ学才もある覚明は貴重な存在でした。彼はたちまち義仲に重要視され、義仲の軍師兼祐筆になったと思われます。
さてドラマの中では、倶利伽羅峠で平家に大勝した義仲が、いよいよ上洛の夢が現実になろうとしていたところまで来ている時、行家に「延暦寺を味方につけてはどうか。」と言われていましたよね。しかし史実では「延暦寺を味方につける」という戦略を考え出したのは、行家ではなく覚明なのです。そしてその時覚明が「源氏に味方をするように。」と延暦寺に書き送ったのが「木曾山門牒状」です。
ドラマの中では、延暦寺はいとも簡単に義仲に味方したように描かれていたのですが、源氏に味方をするか平家に味方をするかで、かなりの議論が重ねられたようです。何よりも延暦寺は、以前から平家よりの寺でした。なので平家は、延暦寺を自分たちの氏寺にしようと画策したこともあったようです。つまり平家からも「味方になって欲しい。」とその頃働きかけがあったと考えられます。
しかし延暦寺は結局「命運が尽き果てた平家は見捨てて、これから運が開けるであろう源氏に味方すべきだ。」という結論に達したようです。
こうなった背景には、覚明によって延暦寺の僧徒たちへの諜略が行われていたということがあったのではないかとも言われています。
比叡山延暦寺を味方につけたということは、義仲にとっては大きいことでした。
これによって義仲は、簡単に都に入ることができたのですから…。また後白河法皇も平家によって西国に連れ出される前に、比叡山に登ってしまいました。つまり源氏方にかくまってもらうという形を取ったわけです。その頃政治の最高実権を持っていたのは、何と言っても後白河法皇でしたから、法皇を抱え込むことによって義仲は賊軍になるのをかろうじて逃れることができたと言ってもいいわけです。平家は、三種の神器と安徳天皇を西国に連れ出すことには成功しましたが、後白河法皇を西国に連れ出すことには失敗したことで運が尽き果ててしまったのかもしれませんね。
こう考えると、延暦寺を味方につけることに人力を尽くした覚明の功績は、非常に大きいのではないかと思います。
しかし覚明は、いつの間にか義仲の許から姿を消すこととなります。義仲が上洛してからわずか3ヶ月後に起こった法住寺合戦の時には、覚明はすでに義仲のそばにいなかったと言われています。(『平家物語』では法住寺合戦時、覚明は義仲のそばにいたことになっていますが、種々の貴族の日記には、覚明の名前が全く出てこないのだそうです。)都の事情に通じ、義仲の参謀役であった覚明がいなくなったことで、義仲はその後一直線に衰運に向かっていった……と言っても過言ではないような気がします。
では、覚明はなぜ義仲の許から姿を消したのでしょうか?
やはり、都の貴族たちから評判が悪くなる一方の義仲に失望したということもあったと思います。しかしそれよりも、覚明の目的は平家を都から追い出すことにあったのではなかったでしょうか?平家と敵対する興福寺の僧であり、しかも清盛から追われる形で出奔せざるを得なかった覚明は、平家に対する恨みの気持ちでいっぱいだったと考えられます。なので義仲に協力して平家を都から追い出すことに成功した今、覚明の目的は充分達成されていたわけです。なので覚明は、これ以上義仲のそばにいる必要はなかったのではないかと私は考えています。
では、義仲の許からいなくなった覚明はその後どうなったのでしょうか?
建久元年(1190)、藤原能保室(頼朝の姉妹)が亡くなり、その追善供養の導師をつとめていたのが、名前を以前の「信救」に戻した覚明でした。その後彼は箱根山に住み、頼朝や他の武士のための願文を書いたりしていたようです。つまり信救は前歴を隠し、頼朝に近づいていたわけです。
ところが建久六年(1195)彼は前歴がばれてしまいます。ふすまに手をかけたとたん、「覚明」と昔の名前を呼ばれ、思わず「ははあ!」と返事をしてしまいました。そして「ついに正体を現したな、覚明。」と言われる……、まるで時代劇「大岡越前」の世界のようですね。まあ、そのような会話は実際にはなかったと思いますが、義仲のそばにいた覚明であることがばれてしまった信救は、箱根山から外に出ることを禁止されてしまいました。多くの文献では、その後の彼の消息は不明だそうです。
なお、吉川英治さんの小説「親鸞」では、覚明はその後親鸞の弟子になった……ということになっていますが、これはおそらく吉川さんの創作ではないかと思います。
こうして覚明の生涯を追ってみると、彼は彼なりに乱世を精一杯生きたのだなという気がします。特に、義仲に接近することによって自分の才能を思いっきり発揮できたということには、満足していたのではないでしょうか。
さて来週は、どうやら義経は頼朝の許可なく都に入り、義仲と対面するようですね。確か頼朝から「絶対に都に入ってはならない。」と言う厳命を鎌倉で受けていたはずなのに、「そんなことをやって大丈夫なのかな?」という気がしますが…。
また、平家の都落ちは今週ではなく来週だったようですね。
来週もつっこみながら楽しみに観ます。