私の好きな歴史上の人物ということで、先日は藤原道長を紹介させていただきました。他にも好きな人物はたくさんいますが、今日は紫式部についてお話ししますね。
某歴史サイトのチャットに参加したとき、「ハンドルネームのあとに、歴史上の人物で一番好きな人の名前を書いて参加して下さい。」と言われました。そこで私はちょっと迷った末「えりか@紫式部」で参加したことがあります。そのくらい、紫式部に対する思い入れは強いです。
紫式部は、『源氏物語』の作者と言われる女性です。
天延元年(973)頃誕生しました。父は藤原為時、母は藤原為信女。長徳二年(996)、越前守に任じられた父とともに越前に下向。約1年間を越前で過ごしました。父を越前に残して一人で帰京後藤原宣孝と結婚し、娘の賢子(のちの後冷泉天皇乳母、大弐三位)をもうけますが、宣孝とは結婚後約3年で死別します。
その後、『源氏物語』を少しずつ書き始め、寛弘二年(1005)頃、一条天皇中宮彰子の許に出仕しています。「源氏物語」は寛弘7年(1010)頃完成したと推定されます。没年は不明。寛仁三年(1019)正月五日の藤原実資の日記「小右記」の記事に、紫式部と推定される女房との会話が記述されているため、その頃まで彰子中宮の許に仕えており、「没年はそれ以降」という説が、現在では有力になっているようです。しかし、はっきりしたことはわかりません。
さて、私と紫式部との最初の出会いは小学6年の時で、百科事典に載っていた簡単な略伝を読んだことでした。道長のことは最初は嫌いでしたが、紫式部のことはなぜか最初から好きでした。特に、紫式部が清少納言や同僚女房の悪口を日記に書いていたというところに、興味をひかれました。実は私も、友達や先生についてのあれこれをこっそり日記に書いていたような所がありましたので、単純に「自分に似てる!!」と思ってしまったのです。そこで、紫式部の伝記を図書館で借りて読んだのが中学1年生の時でした。その時受けた印象は、「かなり内向的で暗い人だったのね。」でした。
その後私は、長い間紫式部のことを忘れていました。再び彼女に興味を持ったのは、平安時代に本格的に興味を持ち始めた、二十代前半の時でした。
歴史小説に夢中になっていた私は、「紫式部を主人公にした小説はないかしら…。」と思っていました。そんな頃出版されたのが、杉本苑子さんの『散華 ー紫式部の生涯ー』でした。
この小説は、当時の時代背景や源氏物語の成立過程にも触れられていて、とても面白かったです。でも紫式部の印象は、中学生の時に読んだ伝記でのイメージとほとんど変わりませんでした。宣孝とは気が進まないまま結婚し、宮仕えにもなじめず、引っ込み思案で人とつき合うのがあまり好きではない人……。そうなのです、私は紫式部に関してはずっと「暗い人」と思っていたのです。
ところが、最近私は徐々に紫式部に対する印象が変わってきました。多分『紫式部日記』を通して読んだからだと思うのですが…。そして彼女のことが、以前よりもっと好きになってきたのです。
まず、紫式部は決して内向的な人ではないと思いました。というのも、彼女には女友達がとても多いのです。
例えば、百人一首にも収められている、「めぐり逢ひて 見しはそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」という有名な歌は、久しぶりに会った女友達に向けられて詠まれた歌です。
そして『紫式部日記』を読むと、彼女には親しくしていた同僚女房が多かったのがよくわかります。宰相の君(藤原道綱の娘・道長の姪)、大納言の君(源扶義の娘・道長の妻倫子の姪)、小少将の君(源時通の娘・道長の妻倫子の姪)といったところでしょうか。(但し、大納言の君が源時通の娘で、小少将の君が源扶義の娘という説もあるようです。)また、日記にはあまり登場しませんが、伊勢大輔(百人一首61番の歌の作者)とも親しかったようです。例の清少納言や、その他の女房についてのあれこれを書いた部分を読んでみても、決して悪口ばかりが書かれているわけではないのです。
ただ、人の好き嫌いは激しかったようです。気の合わない同僚女房と同じ車に乗らなければならなくなったときなど、不快感をあらわにしています。でも、気の合わない人って誰にでもいるのではないでしょうか?気の合わない人がいる分、気の合う仲の良い人もたくさんいたのが紫式部だと、私は思っています。
それから、紫式部は意外に華やかな雰囲気が好きだったようです。彼女は、選子内親王サロンや、定子中宮サロンの華やかな雰囲気がうらやましくてならなかったのではないかと思うのです。なので、中将の君や清少納言にコンプレックスを感じていたのではないでしょうか。
そのようなこともあって、ふだん地味な彰子中宮の宮廷が華やいだ時……、彰子中宮に皇子が誕生したときの華やかな行事の一つ一つを、力を込めて日記に書きつづったのだと思います。
宣孝との結婚についても、気が進まないまま結婚したのでは決してないと、今では思っています。紫式部と宣孝の歌のやりとりを見ると、紫式部がすねているのを、宣孝が「よしよし」となだめているという雰囲気なのです。紫式部は、口では反抗していたとしても、心の中では宣孝を頼りにし、甘えていたのだと思うのです。また、宣孝から聞いた宮中の色々な事情が、のちに『源氏物語』を書く上での参考になったような気がします。
以上は、私が『紫式部日記』やその他色々な本を読んで最近感じた紫式部像です。
早く言えば、「紫式部って、本当はすごく明るい人だったのではないかしら。」ということでしょうか。華やかな雰囲気と、女友達と話したり騒いだりするのが大好き。でも、根がまじめで理想を追い求めてしまうところがあるので、心から楽しむことがあまりできないといった二面性を持っていたようにも思えます。複雑な性格の人なのかもしれませんね。
紫式部についてはまだまだ知りたいことも多いので、これからも色々な本を読んで研
究してみようと思っています。
最後にもう一つ、紫式部の最高の功績は『源氏物語』を書いたことですよね。あの意外性のあるストーリーと、登場人物一人一人の個性的な性格を書き上げたというのは、素晴らしいと思います。尊敬してしまいます。
私はやっぱり、紫式部が大好きです!!
某歴史サイトのチャットに参加したとき、「ハンドルネームのあとに、歴史上の人物で一番好きな人の名前を書いて参加して下さい。」と言われました。そこで私はちょっと迷った末「えりか@紫式部」で参加したことがあります。そのくらい、紫式部に対する思い入れは強いです。
紫式部は、『源氏物語』の作者と言われる女性です。
天延元年(973)頃誕生しました。父は藤原為時、母は藤原為信女。長徳二年(996)、越前守に任じられた父とともに越前に下向。約1年間を越前で過ごしました。父を越前に残して一人で帰京後藤原宣孝と結婚し、娘の賢子(のちの後冷泉天皇乳母、大弐三位)をもうけますが、宣孝とは結婚後約3年で死別します。
その後、『源氏物語』を少しずつ書き始め、寛弘二年(1005)頃、一条天皇中宮彰子の許に出仕しています。「源氏物語」は寛弘7年(1010)頃完成したと推定されます。没年は不明。寛仁三年(1019)正月五日の藤原実資の日記「小右記」の記事に、紫式部と推定される女房との会話が記述されているため、その頃まで彰子中宮の許に仕えており、「没年はそれ以降」という説が、現在では有力になっているようです。しかし、はっきりしたことはわかりません。
さて、私と紫式部との最初の出会いは小学6年の時で、百科事典に載っていた簡単な略伝を読んだことでした。道長のことは最初は嫌いでしたが、紫式部のことはなぜか最初から好きでした。特に、紫式部が清少納言や同僚女房の悪口を日記に書いていたというところに、興味をひかれました。実は私も、友達や先生についてのあれこれをこっそり日記に書いていたような所がありましたので、単純に「自分に似てる!!」と思ってしまったのです。そこで、紫式部の伝記を図書館で借りて読んだのが中学1年生の時でした。その時受けた印象は、「かなり内向的で暗い人だったのね。」でした。
その後私は、長い間紫式部のことを忘れていました。再び彼女に興味を持ったのは、平安時代に本格的に興味を持ち始めた、二十代前半の時でした。
歴史小説に夢中になっていた私は、「紫式部を主人公にした小説はないかしら…。」と思っていました。そんな頃出版されたのが、杉本苑子さんの『散華 ー紫式部の生涯ー』でした。
この小説は、当時の時代背景や源氏物語の成立過程にも触れられていて、とても面白かったです。でも紫式部の印象は、中学生の時に読んだ伝記でのイメージとほとんど変わりませんでした。宣孝とは気が進まないまま結婚し、宮仕えにもなじめず、引っ込み思案で人とつき合うのがあまり好きではない人……。そうなのです、私は紫式部に関してはずっと「暗い人」と思っていたのです。
ところが、最近私は徐々に紫式部に対する印象が変わってきました。多分『紫式部日記』を通して読んだからだと思うのですが…。そして彼女のことが、以前よりもっと好きになってきたのです。
まず、紫式部は決して内向的な人ではないと思いました。というのも、彼女には女友達がとても多いのです。
例えば、百人一首にも収められている、「めぐり逢ひて 見しはそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」という有名な歌は、久しぶりに会った女友達に向けられて詠まれた歌です。
そして『紫式部日記』を読むと、彼女には親しくしていた同僚女房が多かったのがよくわかります。宰相の君(藤原道綱の娘・道長の姪)、大納言の君(源扶義の娘・道長の妻倫子の姪)、小少将の君(源時通の娘・道長の妻倫子の姪)といったところでしょうか。(但し、大納言の君が源時通の娘で、小少将の君が源扶義の娘という説もあるようです。)また、日記にはあまり登場しませんが、伊勢大輔(百人一首61番の歌の作者)とも親しかったようです。例の清少納言や、その他の女房についてのあれこれを書いた部分を読んでみても、決して悪口ばかりが書かれているわけではないのです。
ただ、人の好き嫌いは激しかったようです。気の合わない同僚女房と同じ車に乗らなければならなくなったときなど、不快感をあらわにしています。でも、気の合わない人って誰にでもいるのではないでしょうか?気の合わない人がいる分、気の合う仲の良い人もたくさんいたのが紫式部だと、私は思っています。
それから、紫式部は意外に華やかな雰囲気が好きだったようです。彼女は、選子内親王サロンや、定子中宮サロンの華やかな雰囲気がうらやましくてならなかったのではないかと思うのです。なので、中将の君や清少納言にコンプレックスを感じていたのではないでしょうか。
そのようなこともあって、ふだん地味な彰子中宮の宮廷が華やいだ時……、彰子中宮に皇子が誕生したときの華やかな行事の一つ一つを、力を込めて日記に書きつづったのだと思います。
宣孝との結婚についても、気が進まないまま結婚したのでは決してないと、今では思っています。紫式部と宣孝の歌のやりとりを見ると、紫式部がすねているのを、宣孝が「よしよし」となだめているという雰囲気なのです。紫式部は、口では反抗していたとしても、心の中では宣孝を頼りにし、甘えていたのだと思うのです。また、宣孝から聞いた宮中の色々な事情が、のちに『源氏物語』を書く上での参考になったような気がします。
以上は、私が『紫式部日記』やその他色々な本を読んで最近感じた紫式部像です。
早く言えば、「紫式部って、本当はすごく明るい人だったのではないかしら。」ということでしょうか。華やかな雰囲気と、女友達と話したり騒いだりするのが大好き。でも、根がまじめで理想を追い求めてしまうところがあるので、心から楽しむことがあまりできないといった二面性を持っていたようにも思えます。複雑な性格の人なのかもしれませんね。
紫式部についてはまだまだ知りたいことも多いので、これからも色々な本を読んで研
究してみようと思っています。
最後にもう一つ、紫式部の最高の功績は『源氏物語』を書いたことですよね。あの意外性のあるストーリーと、登場人物一人一人の個性的な性格を書き上げたというのは、素晴らしいと思います。尊敬してしまいます。
私はやっぱり、紫式部が大好きです!!