平安夢柔話

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宮道列子 ~思いがけない人生

2013-03-23 15:49:17 | 小説風歴史人物伝
 今回は、藤原高藤の妻で醍醐天皇の外祖母に当たる女性、宮道列子さんを紹介いたします。
 そして今回も、ご本人に語っていただくという形式で書いてみました。妄想、推察、フィクションが満載ですので、その点をおくみいただき、お読み下されば幸いです。


 延喜元年の九月のある日、私は山科の古い邸を訪れました。今上帝の祖母君、つまり故内大臣藤原高藤さんの北の方、宮道列子さんのお話を聞くためです。
 もう50代半ばのはずなのに、お会いしてみるとまるで少女のような初々しい御方でした。
「今宵は、私の他愛ないおしゃべりにつき合って下さるとのこと、かんしゃもうしあげます。」
とおっしゃり、静かに語り始めました。


 先ほどまでの雨もやみ、今は東の方向に月が輝いております。
 今年の正月には菅原道真さまが左遷され、2ヶ月ほど前には改元も行われたので、都では何かと騒がしい日が続いているとうかがっております。でも私は、こちらでそれとは無関係の静かな日々を過ごしております。

 そう言えば、あの御方と始めてお会いしたのも、今宵のように雨上がりの月の明るい9月の夜でございました。もう40年ほど前のことですが、あの日のことは昨日のように覚えております。

 私の父は宮道弥益といって、当時は山科の郡司でございました。
 そのため私も、都から少し離れた山科で娘時代を送りました。それでも書や和歌、琴などの貴族一般の娘の教養はしっかり仕込まれました。でも、都の貴族の姫たちに比べると行動も自由で、時々伴の者や女房を連れ、お忍びで近くを散策したり、都に買い物に行ったりもしておりました。思えば幸せな娘時代だったと思います。

 あの時私は16歳、その日も、女房たちと庭で花を積んだりしていたのですが、突然空が暗くなったので、急いで邸に戻りました。私たちが邸に駆け込むと同時に、大粒の雨が降りはじめ、強い風が吹き、雷まで鳴り出しました。

 雨はどのくらい続いたでしょうか。それに、何かがいつもと違うような気がしたのです。邸全体がざわざわしているような…。それで私は、一番仲の良い侍女のあこぎを偵察に行かせたのです。

 間もなくあこぎは、息を切らして戻って参りました。

「大変でございます。どうやら都の身分の高そうな方が鷹狩りの途中で雨に降られて道に迷い、伴を1人連れて、この邸に迷い込んできたのです。もう日も暮れてしまいましたので、今夜はここにお泊めしなければなりません。それで邸じゅうが大騒ぎになっているのです。」
「まあ、面白そうね。どんな方かしら?」
「姫さま、そんなのんきなことは言っていられません。そのような身分の高い方がお泊まりになったら、夜のお相手の女性を差し出さなければなりません。それも、この邸で身分の高い方と一番釣り合うような方を…。姫さま、お覚悟して下さいませ」

 一瞬、あこぎの言葉の意味がわからず、私はぽかんと口を開けておりました。私も乳母から一通り教育を受けていましたから、夜のお相手というのがどんなものかはわかっております。でも、こんなに突然、その日が来るなんて…。

 しばらくして、父が私の局にお渡りになりました。

「姫、都の貴人が今夜、ここにお泊まりになる。しかも太政大臣さまの縁者らしい。殿に恥をかかせないよう、私からの一生のお願いだ。どうか今夜は殿のお相手をしておくれ。」
 だ、太政大臣さまのご縁者!。太政大臣藤原良房さまと言えば、今は飛ぶ取り落とす勢いの御方です。そんな良房さまの縁者とは、私たち田舎の一豪族にとっては雲の上の御方でございます。私はうなずくより他はありませんでした。


 私は紫の単衣と袴に着替えさせられました。特別な行事の時にしか着ない、一番上等な装束です。
 最初に私に命じられたことは、都の貴人に食事を運ぶことでございました。母がかいがいしく女房たちに指図しております。そして私は、母から食事の膳を渡されました。

 私が膳を持って歩き始めたとき、母のすすり泣きが聞こえました。「かわいそうな姫」という声も。今夜お泊まりになる都の貴人って、そんなに怖い御方なのかしら。

 雨はすっかり上がり、明るい月の光が邸の中に差し込んでいます。
 私は貴人のいらっしゃる局の前でもじもじしていました。怖くて足がすくみます。その時、
「こちらへおいで。」
という、優しい声が聞こえました。年は20歳を少し過ぎたくらいでしょうか。狩衣は雨にぬれてしまったらしく、父の装束を着ています。声と同じく、優しそうな笑顔、丸くて澄んだ大きな目が素敵でした。私は力がすうっと抜けたような思いでした。

 あの御方の食事がすんだのを見計らい、私は局にしのんでいくことになっていました。会ってお話ししたいと思いながら、何か恥ずかしくてなかなか足が動きません。

 そんな私の背中を押したのが、「さっきの人をよこして欲しい」という、あの御方からのお誘いでした。あの御方も、私のことを待って下さっているのだわ。
「あちらから催促されるなんて恐れ多いことだ、早く行きなさい」
という父の言葉を背に、私は局へと急ぎました。


 本当に、夢のような一夜でございました。
 あの御方は藤原一族の歴史から和歌や物語のことまで、興味深く話して下さいました。「姫は打てば響くような返答をしてくれるので話し甲斐がある。姫の教養は都の姫君にも劣らぬ。」
とほめて下さいました。最初から、話をしていて気楽で楽しい方でした。

 しかし、夢のような一夜はあっという間に終わってしまったのです。やがて鶏が鳴き始め、空が白々と明るくなり始めました。この時間には、殿は女の許から帰らなくてはならないのです。

「絶対に迎えに来るから。」
と、あの御方はおっしゃいました。
「両親が他の男との結婚を勧めても断っておくれ。」
「もちろんです。きっとまたいらして下さいね。」
 あの御方は、形見に一本の立派な太刀を下さいました。私はそれをしっかりと握りしめました。


 それから3ヶ月くらい経った頃でしょうか。私は突然気分が悪くなって寝込んでしまいました。早速薬師が呼ばれ、診てもらったところ、驚くことがわかりました。

「まあ、いつ来るかわからない男の子供を身ごもってしまったなんて!だから私は弥益どのが姫を差し出すと言ったとき、反対したのです。ああ、もっと強硬に反対すべきだった、かわいそうな姫…」
 母はわっと泣き出してしまいました。でも、私はなぜか落ち着いていました。あの御方の子、絶対に無事にこの世に送り出してあげようと、固く決心したのです。

 月満ちて生まれたのは姫でした。出産で命を落とすことの多い時代、安産だったのは運が良かったとしか言えません。小姫は、丸くて大きな目が特にあの御方に生き写しでした。

 しかし、あの御方はどうしたのでしょう?1年経っても2年経っても音沙汰がありませんでした。

 そんなとき、私に縁談の話が持ち込まれました。相手は大和の豪族、身分的にも釣り合うし、何よりも、こちらの事情を理解していて、小姫を連れてきてもいいと言って下さったのです。

 しかし、私の心は決まっていました。

「ありがたいお話しですが、お断りして下さい。私は小姫と2人、あの御方を待ち続けたいのです。」」
と、私は父と母に手をついて言いました。
「姫、あなたはまだ、いつ来るかわからない方を待っているのですか?もう忘れてしまいなさい。」
母は、あの御方の話をするときはいつもこんな調子でした。ついでに父にも、
「こうなったのはあなたにも責任があるのです。あなたが都の貴人に姫を差し出せば、自分が出世できるとでも思ったのではないのですか?」
「すまぬ。」
と、父はぼそりと言いました。
「姫のために都に行き、あのときの貴人に小姫のこともお伝えしたい気持ちは山々なのだが、私の身分ではあのような身分の高い方にはお目通りできぬ。」


 あの月の明るい夜から3年半近くの月日が経ちました。

 邸の庭には今年も梅が満開です。
 そして、庭に流れ込んでいるやり水に梅の花びらがひらひらと落ちています。ウグイスがきれいな声で泣いているのも聞こえてきます。

 小姫は数え4歳になり、局の奥の方で女房や女童とひいな遊びに夢中になっています。そして私の横には、あの御方が形見にと置いていった太刀があります。

 私はそんな小姫と太刀と庭の景色を交互にぼんやり眺め、もの思いにふけっておりました。
 あの御方と一夜を共にしたのは夢だったのではないかしら。いえ、たとえ現実だったとしても、私とあの御方は所詮身分違い。都には身分の高い、美しい姫君がたくさんいらっしゃると聞きます。あの御方はきっと、そのような姫君に夢中になり、私のような身分の低い田舎の女など忘れてしまったのに違いないわ。ずっと待ち続けようと決心していたのに近頃、そのように考える事が多くなってきたような気がいたします。

 こうしてどのくらい時間が経ったでしょうか。外は薄暗くなり、御厨所から夕餉が運ばれてくる刻になったようです。今日も何事もなく1日が終わる、そう思ったときでした、ばたばたと足音がして、あこぎが息を切らして局に入って来たのは…。

「まあ、あこぎ、そんなに急いでどうしたの?」
「姫さま、大変でございます。すぐにお召し替えを。」

 あこぎは有無を言わさず、私の着替えに取りかかりました。用意されたのは紫の単衣と袴、そうです、特別な行事の時に着る、一番上等な装束です。

 いったい何があったのか聞いても、あこぎは答えてくれません。やがて着替えがすむと、あこぎは局を出て行きました。見ると小姫も、一番上等な装束に着替えたようで、丸い目をくりくりさせて周りをきょろきょろ見ています。その姿がかわいらしく、私は小姫をぎゅっと抱きしめようとしたとき、衣ずれの音がして1人の殿が入ってきました。

「姫、本当にすまなかった!」
 その人は私の前で手をつき、深く頭を下げました。
「すぐにこちらに来ようと思っていたのだが、無断で外泊したことをとがめられ、伯父に鷹狩りを禁止された。その上、ここに一緒に連れてきた従者の一郎が田舎の備前に帰ってしまい、ここを探すすべもなかったのだよ。つい昨日、一郎が戻ってきたので、ここに連れてきてもらった。遅くなってしまって本当にすまなかった…」

 これは夢なのか?

 気がつくと私は泣いていました。涙があふれ、一言もものが言えません。話したいことはたくさんあるのに…。

「太刀も大切にしてくれていたのだね。おや?この姫君は。」

 あの御方は小姫に気がついたようで私に尋ねます。でも、私は涙で言葉が出ません。いつの間に入ってきたのか、父が説明を始めました。

「実は、あなた様がお見えになってからすぐに懐妊の兆しがあり、月満ちて生まれた姫でございます。他に男を近づけたことはありませんので、これはまさしくあなた様の姫かと…」
「本当だ、わたしといきうつしだ。」
「特に目がそっくりですわ。」
と、私はやっとこれだけ言いました。


 再びこのような夜が来るなんて、夢を見ているようでございました。

 あの御方、いえ、そろそろお名前を明かしてもいい頃ですよね。藤原高藤さま、太政大臣、良房さまの弟君、良門さまのご子息…。つまり良房さまの甥に当たる御方です。

「明日、迎えをこちらによこすからね。待っているように。」

 一晩じゅう語り明かしたあと、高藤さまはそう言って、邸をあとにされました。そして約束通り、翌日、立派な車が邸の庭に入って参りました。

 私と小姫と、あこぎをはじめ侍女たちが車に乗り込みます。母も、「心配だから」という理由で都についてくることになりました。


 都での夢のような生活が始まりました。

 都には山科にはないような草子や調度品がたくさんあり、元々好奇心旺盛な私はすっかり夢中になってしまいました。もちろん、田舎の自由な暮らしを思い出すこともありましたけれど、高藤さまはとても優しく、いつも私のことを見守って下さいました。小姫も父君にすっかりなつき、かわいいことをしゃべっては周囲の者たちを笑わせていました。

 やがて私は懐妊し、若君を生み落としました。こうして次々と子を授かり、満ち足りた日々を送っておりました。高藤さまが地方官を務めたときは、一緒に任地に行ったりもしました。父は宮内大輔に昇進し、母も私が幸せになってようやく安心したようでした。

 ところで、高藤さまはご自分の出世が一族の他の方々に較べて遅いのをしきりに気にしていました。特に、私が2番目の若君を身ごもった頃でしょうか、自分に目をかけ、「この子は将来ものになる。」と言って下さっていた良房さまが薨じられた時には大変気を落とされておりました。高藤さまの父ははやく亡くなってしまったので、良房さまが父親替わりのようになっていたのです。

「もっと出世が出来たら、そなたにもきれいな装束をたくさん作ってやれるのに。何よりもこのままでは、子供たちの将来にも影響する。何とかならぬものかなあ。」

 そんな高藤さまに向かって、私はいつもこう言っていました。
「出世なんてしなくてもいいじゃないの。みんなで楽しく暮らせれば。私はあなたや子供たちがいるだけで何も望まないわ。」


 時が経つのは早いもので、あの月の明るい夜の契りで産まれた小姫も裳着を迎える年となりました。小姫はその時、「胤子」という名をもらいましたが、良房さまの養子で高藤さまのいとこにも当たる関白基経さまから、「宮中に宮仕えに出ては。」という話が持ち込まれたのでした。

 私も高藤さまも、世間知らずの胤子を宮仕えに出すことは躊躇したのですが、当の胤子はさっぱりしたものでした。

「面白そう~。私、宮仕えに出てみたい。そのうち帝のお目に止まって皇子でも生み、その皇子が皇太子に立てられたら父君は大臣になれるかもしれないわよ。」

などと、あり得ないような大それたことを言います。そして、それがほぼ現実になろうとは、その時の私たちは夢にも思いませんでした。

 こうして、胤子は宮仕えに上がることになりました。
 間もなく、胤子の局に定省王という、3代前の帝のお孫さんに当たる方が通ってきているらしいという情報が持たらされました。
 情報を持ってきたのはあこぎでした。あこぎはあの鷹狩りの時の従者、一郎と一緒になり、しばらく備前に行ったりもしていたのですが、この頃には夫と共に都に戻り、私に仕えながら時々宮中にも上がって胤子の世話もしていたのです。

 まあ、皇族の殿なんて恐れ多いこと……というのが、私が最初に抱いた感想でした。皇族と言えば神さまのご子孫、でも、古代から皇位継承争いが絶えない恐ろしい一族…。身分の低い私はそんな印象を持っていたのです。もし、胤子がそんな争いに巻き込まれたらどうしようかしら。

 そんな不安を高藤さまに話したところ、このように言われました。

「今上の皇太子はまだ定まっていないが、帝はまだお若い。これから生まれる皇子が皇太子になるだろうな。それに定省王の父君、時康親王さまはおとなしく、政治には無関心の方だ。定め省王が皇位争いに巻き込まれることはまずあり得ぬ。」

 しかし、そんな高藤さまの予想はあっさりと外れることになります。

 それから間もなく、帝が退位したという情報が伝わってきました。何でも、基経さまのご機嫌を損なうような行動が多かったとか…。

 皇太子は定まっていなかったので、公卿たちが会議を開き、選ばれた帝の名前を聞いたとき、私も高藤さまも耳を疑いました。時康親王さま……、そうです、胤子の夫、定省王の父君ではありませんか。
 でも、高藤さまの驚きは一瞬だったようで、すぐに納得したようにこう言いました。
「そうか、時康親王さまは基経どのの母方のいとこなんだよ。さすが基経どの、どの御方を帝に立てたら自分が思い通りに政治を行えるか、ちゃんと考えていたわけだ。」

 でも、親王さまの方も色々考えていたらしく、帝に即位すると、ご自分の皇子や皇女を全員、臣籍に降下させてしまいました。高藤さまの話によると、基経さまの血をひかない皇子の立太子を避けるためだったようです。
そんなわけで定省王も、「定省親王」ではなく、「源定省」と名乗ることになりました。

 娘が政争に巻き込まれることを心配する一方、時康親王さまが帝となったとき、私は一瞬、「もし、定め省王が皇太子候補になったら、私たちは帝との縁が深くなる、高藤さまも少し、出世するかもしれない…」と思ってしまったのです。
 高藤さまの出世は望まないとずっと思っていたのですが、もう40代半ばなのに、未だに参議にもなれないなんて。さすがの私も少し心配になってきていたのです。
 帝との縁が深くなれば運が向いてくるかもしれないと思った私の希望は打ち砕かれてしまいました。でも、そのような考えは一瞬でした。胤子が政争に巻き込まれなくて良かった…という安心感で、私はその考えを打ち消しました。
 それに、定め省王は時康親王さまの第七皇子と聞いております。皇太子に立つことなんてあり得ませんよね。

 その年の秋、定省どのの子を始めて身ごもった胤子が里下がりし、翌年正月、玉のような若君を産みました。ぱっちりとした大きな目は明らかに高藤さまと胤子に生き写しでした。私も自分に似たところを探したのですが、あまり見あたりません。でも、孫はかわいいもの。1日中あやしていても飽きません。まさかこの子が…。いえ、その話はもっとあとにとっておきましょう。
 この若君は「維城」と名づけられ、後に「敦仁」と改名することになります。

 ところで私は母親として当たり前でしょうが、胤子のことがいつも心配でした。
 「そなた、この母の身分が低いことで、肩身の狭い思いはしていないかね?」
 この時代、母親の身分が低いことは致命的なのです。
「いいえ、そんなことはないわ。定省さまはいつも優しいし、楽しくやっているのよ。」
と、胤子は笑顔で答えました。色々気がかりではありましたが、私はひとまず安心しました。そして、「ひょっとしてこの娘なら、政争に巻き込まれても明るく乗り切っていくかもしれない。」と考え直しました。あの山科の田舎の邸で生まれた娘は、いつの間にか立派な女性に成長していたのです。


 それから2年後、また、私たちの驚くような出来事が起こりました。

「大変でございます!」
と、情報を持ってきたのはまたあこぎでした。

「帝が崩御あそばされました。そして、次の帝に選ばれたのはどなただと思います?何と、定省さまなのですよっ」

 私はまたしてもぽかんと口を開けてしまいました。

「信じられない。だって、定省どのは確か帝の第七皇子…。」
「それがですね、定省さまはずっと以前から基経さまの妹君、淑子さまの猶子になっていたのです。ご存じありませんでしたか?」
「もちろん、その話は聞いたことがあるわ。淑子さまはやり手の女官ということも。でも、淑子さまの母君は基経さまの母君と違い、身分の低い女性だと聞いています。兄妹と言ってもそれほど交流もないでしょうし、ただの女官でしょうに。」
「姫さま、たかが女官、されど女官ですよ。淑子さまは母の身分なんて気にせず、基経さまにすり寄っていったのです。それで、利発な定省さまを自分の猶子にし、定省さまを何とか押し上げようと躍起になっていたのです。帝がご即位できたのも、今回、定省さまが即位あそばされるのも、淑子さまの力が大きいかと…。」

 そうか、宮中というところは、私が知らない人脈が渦巻いているのだ。そんな情報を収集したあこぎも大したもの。

 あこぎは一応、私の女房ですが、時々胤子の命で宮中に上がり、何かと胤子の世話をしてくれていました。そしてこのとき、私は決心しました。
「あこぎ、これからは胤子も帝の妃の一人、そなた、正式に胤子の女房になって、あの子の力になっておくれ。」


 定省どのが帝になったことで胤子は正式に帝の妃の一人となり、「更衣」と呼ばれることとなりました。ご存じかと思いますが、このとき即位した帝が、現在、「先帝」とか「上皇」あるいは「法皇」と呼ばれている御方です。後の世では「宇多天皇」と呼ばれているようですが…。

 娘婿が帝になったと言っても、私たちの生活には何も変化は起きませんでした。高藤さまは相変わらず参議には手が届かず、胤子は大勢いる帝の妃の一人にすぎません。
 それでも高藤さまは真面目に職務をこなし、胤子はあこぎの話によれば、明るく楽しく更衣としての生活を送っているようでした。

 先帝の治世は、始め、阿衡事件というごたごたはあったものの、次第に安定し、基経さまが亡くなったあとは摂関を置かず、帝自ら親政を執り行うようになったようです。


 先帝が即位して6年ほど経ったころ、胤子の生んだ敦仁親王が皇太子に立てられるらしいという噂が流れ始めました。

 ちょうどその頃、胤子が何人目かの子を生むために里下がりしてきました。私も高藤さまも敦仁のことが気がかりだったので、尋ねようと思っていたのですが、胤子の方から話を切り出してきました。

「敦仁がもうすぐ皇太子になるの。それで私ね、女御になるのよ。弘徽殿の女御さまと仲良くしていて本当に良かった~。」

 弘徽殿の女御さまというのは、基経さまの姫君、温子さまのことです。基経さまは何年か前に亡くなられていますが、時平さまをはじめ優秀なご子息も何人かおり、しっかりと女御さまを支えていました。女御さまに皇子が生まれたら、すぐに皇太子に立てられるのでは…、と、世間ではささやかれていましたが、未だに姫宮しか生まれておりません。でも、女御さまはお若く、まだまだ皇子が生まれる可能性があるのにどうして敦仁を…、そんな私の疑問に対して、胤子はこう言い切りました。

「ほほほ…。主上は女御さまに皇子を生ませないようにしていらっしゃるのよ。主上はずっと、親政を続けたいのに、女御さまに皇子が生まれたら、基経どのの子息たち、特に時平どのが権力を持ってしまうわ。
 それで、主上が一番皇位を譲りたかったのは、橘広相の娘、義子の生んだ斉世親王なのよ、本音はね。
 でも私は、義子どのにだけは負けたくない。同じ頃にまだ定省王と呼ばれていた主上の妻となって、同じような身分、同じ皇位ですもの。負けたくない気持ち、わかるでしょう?
 女御さまに皇子が生まれない、義子どのには負けたくない、それなら私、自分の子を絶対に皇太子にしようと決心したの。だから女御さまにすり寄ったの。
 女御さまは私より10歳くらい若いけれど、わたしは出来る限り下手に出て、相手の自尊心を傷つけないようにしたのよ。そうしたら元々おっとりした方だったらしく、私のことを姉のように慕ってくるようになったの。
 あ、もちろん、宮廷の影の権力者、淑子さまにごまをすることも忘れなかったわ。もっとも淑子さまを抱き込むことはあこぎの協力があったから出来たようなもの。ありがたいことだわ。
 女御さま、淑子さま、女御さまのご兄弟と私が手を組めば、藤原氏の嫌いな主上も敦仁を無視できないでしょう。女御さまの一族は我が家とは比べものにならないくらい官位が高い人たちが集まっているけれど、同じ藤原北家、冬嗣さまのしそんですもの。団結しなくてはね。私たちが団結すれば、後ろ盾のない義子どのの皇子を皇太子には出来ないのよ。」
「でも、あなたの話を聞いていると、帝は藤原一族がお嫌いなようだけど、女御さまのご兄弟が敦仁の後ろ盾になったら、ご機嫌を損ねるのでは…?。」
「あら、それは大丈夫だわ。主上が警戒しているのは時平さま、だから私、女御さまのご兄弟の中で、一番主上と仲が良さそうな忠平どのを敦仁に近づけているの。これもあこぎの協力なしでは出来なかったわ。実は忠平どのの女房に、あこぎの夫、一郎の遠縁に当たる人がいるの。持つべきものはいい女房ね。忠平どのは将来必ず出世して、敦仁の頼もしい後ろ盾になってくれるわ。
 私はこれでめでたく皇太子の母、女御に格上げされることになったのよ。父親が参議にもなっていない女御なんて、前代未聞ではないかしら。だから見ててご覧なさい、これから父上はどんどん官位が上がるわよ。なので父上、大臣になるまで長生きしてね。」

 これが、山科の田舎の邸で、ひいな遊びをしていた小姫なのでしょうか。

 私にはもう一つ、尋ねたいことがありました。

「帝が最近、重く用いているらしいと噂されている菅原道真さまって、どんな御方なの?聞くところによると、橘広相さまと仲が良かったとか。道真さまが義子さまの生んだ王子を担ぎ出すことはあり得ないかしら。心配だわ。」
「ほほほ、それはないわ。」
と、胤子はきっぱりと言い放ちました。
「道真どのは確かに頭がいいわ。主上にとっては頼れる方かもしれない。でも、私から見れば気が小さくて、融通の利かない男よ。世渡りも決して上手だとは思えない。今に失脚するのではないかしら。」

 何て恐ろしいことを…。宮仕えして十数年、もはやこの娘は、私の手の届かないところに行ってしまったのでしょうか。

「いつの間にあんなに権謀実数にたけた娘になったのだろうか。私にもそなたにも似ていない。いったい誰に…。冬嗣祖父君の血だろうか。」

夫婦2人きりになったとき、高藤さまはぽつりとこう言いました。そして更に、
「でも、頼もしい娘になったものだ。これから我が家も皇太子の血縁として、運が開ける
かもしれない。私も長く元気でいなくては。」


 胤子の予想通り、高藤さまの官位が急に上がりだしたのは、敦仁が正式に皇太子に立てられた直後からでした。立太子の翌年に従三位に叙せられて「公卿」の仲間入りをし、その翌年には念願の参議に任じられました。高藤さまが今までになく、生き生きと官庁に通う姿に私は喜びを感じました。そして、高藤さまと胤子が、帝となった敦仁を支えている様子を想像したりしていました。

 しかし、不幸はあまりにも突然やってきてしまいました。

 高藤さまが参議になって2年後、胤子が世を去ってしまいました。突然倒れ、そのまま意識が戻らず、たった1日で旅立ってしまったのです。まだ30代半ばでした。しかも、12歳の敦仁を頭に、幼い5人の子を残して…。

 私も高藤さまもしばらくはぼんやりし、何も手につきませんでした。私にとっては、高藤さまとの山科での初めての一夜の契りで出来た子ですから、他の子供たちより思い入れが強かったのは事実です。あの姫がいたおかげで、高藤さまを待ち続けた日々がどんなに心強かったか…。

 しかし、いつまでも悲しんでいるわけにはいきませんでした。

 胤子が亡くなった翌年、先帝は敦仁に譲位されました。これが今上帝で、後の世に、「醍醐天皇と呼ばれることになる御方です。私の孫ですけれど、恐れ多いので、今後は「今上帝」とお呼びすることにいたします。

 この時、上皇となられた先帝はまだ31歳でした。どうしてこんな早く…ということで、色々な噂が流れました。上皇という自由な身分で政務を執りたかったからだとか、敦仁親王がなかなかしっかりしていて、政務を任せても大丈夫だからと安心されたからだとか…。確かに今上帝は小さい頃から利発でしっかりしており、私の自慢の孫でした。
 中には、「先帝は女御の死にショックを受けていたらしい。だから女御の喪が明けたらさっさと譲位したのだ。」という声もありました。

 いずれにしても、今上帝の晴れ姿を、胤子に人目、見せてあげたかったです。

 帝の祖父として、高藤さまは更に重く用いられるようになりました。2年後には大納言に昇進。大納言なんて、田舎で過ごした娘時代の私から見たら雲の上の御方でした。その大納言に、わが夫が任じられるとは…。
「これも胤子が今上帝を生んでくれたおかげ。あの子はもしかすると、私たちに遣わされた神仏の化身だったのかもしれない。」
と、私はその頃、高藤さまと話したものです。

 私も帝の祖母として、交際の輪が広がり、恐縮していました。やはり、自分の身分の低さに卑屈になっていたからでしょう。でもみなさま、とても立派で優しい方々で、私も社交界にだんだん慣れていきました。
 特に目をかけて下さったのは先帝の母君、班子女王さまです。時平さまの妹君の入内を阻止するために自分の生んだ姫宮を入内させたりなど、やり手で少し怖そうな方という印象を持っていたのですが、お会いしてみるととても気さくで明るい方で、連れだって買い物に出かけたりもしました。
 それから、気になっていた胤子の生んだ幼い子供たちは、弘徽殿の女御さま、つまり今上帝を猶子にして皇太夫人となり、「中宮」を称している温子さまが面倒を見て下さることになりました。私も中宮さまにお目通りしたのですが、とてもお優しそうな方で、これなら安心と、胸をなで下ろしました。また、「胤子どのには大変お世話になりました。」ともおっしゃって下さり、もったいないことでございます。


 昨年の正月、高藤さまは内大臣に任じられました。左大臣の藤原時平さま、右大臣の菅原道真さまに続いて3番目に高い地位です。

 内大臣に任じられた日、私は夕餉に豪華な料理を用意させ、祝杯をあげました。

  その時、なぜか高藤さまがとても疲れているご様子なのに気がつきました。私がそれを口にすると、
「そんなことはない。内大臣はやり甲斐のある仕事、帝の力になれるよう、まだまだ元気で頑張らなければならぬ。そなたのためにもな。」
と、笑顔で答えました。食欲もいつも通りでしたし、これは私の思い過ごしかもしれないと、私は不吉な考えを頭から消しました。

 しかしその頃、高藤さまはかなり健康を損ねていたのかもしれません。
 その1月半ほど経った日、寝所で突然倒れ、意識を失ってしまったのです。そして丸2日間、意識が戻らず、そのまま旅立ってしまわれました。胤子が旅立ったときと同じように駆け足で…。

 ああ、私の人生も終わってしまったのかもしれないと思いました。あの鷹狩りで雨に降られて山科の邸に迷い込んで来られ、一夜を共にした日、それから3年半後、忘れずに訪れて下さり、私を妻に迎えて下さった日、それからの幸せな日々、帝の外戚となった思いがけない日々が走馬燈のように思い浮かんでは消えていきました。

 私は今、あこぎと一緒に、娘時代を過ごした山科の邸におります。あこぎは胤子が亡くなったあと宮仕えを辞め、一郎と2人で夫婦水入らずの生活を楽しんでいたのですが、一郎も昨年夏、高藤さまのあとを追うように旅立ってしまいました。

 子供たちは、「早く都に戻ってきて一緒に暮らしませんか。」と言ってくれましたが、私はもうしばらく、こちらにいたいと思います。

 ふと時々、高藤さまがこの邸に迷い込んできてからずっと、夢を見ていたのではないかと思うときがあります。
 でも、今上帝は間違いなく私の孫、そして、子供たちも立派に成長しました。手元には、高藤さまが私のために買って下さった装束や調度品、高藤さまが人に頼んで写本させた書物もございます。みんな、私と高藤さまが生きた証…。

 思えば私は幸せ者でございます。

 この時代のことですから、高藤さまにも他に妻があり、子も生ませていることも知っております。でも間違いなく、私を一番大切にして下さいました。そして私と高藤さまの血が、胤子と今上帝を通じてこの国の皇族に脈々と受け継がれていく…、こんな思いがけない人生を送ることが出来たなんて、一豪族の娘にすぎなかった私にとってはもったいないことでございます。高藤さまが世を去って1年半経った今、やっとそのように考えることが出来るようになり、心が落ち着きつつあります。

おや?月が南の空高く輝いています。もう亥の刻でしょうか。今宵は、私の他愛ないおしゃべりにつき合って下さり、感謝申し上げます。
 冥土にも月は出ているのでしょうか。今頃高藤さまも胤子と一緒に、この月を眺めているかもしれません。そう信じたいです。


☆藤原高藤・宮道列子プロフィール

・藤原高藤(ふじわらのたかふじ) 838~900
 藤原北家の嫡流左大臣冬嗣の孫。父は内舎人良門、母は西市正高田沙弥麻呂女の春子。貞観七年(865)、蔵人となる。女の胤子が宇多天皇との間にもうけた敦仁親王が寛平五年(893)に立太子したことで官位の昇進が早まる。
 寛平六年に三階を越えて従三位に叙され、翌七年参議、昌泰二年(899)、大納言、翌三年には内大臣に任じられた。同年三月十二日、六十三歳で薨じ、太政大臣正一位を贈られた。世に小一条内大臣、勧修寺内大臣と呼ばれ、また彼の子孫は勧修寺流といわれ、藤原氏一門中で侮りがたい勢力を形成した。 
*高藤と列子の間に生まれた貞方の子孫についてまとめた記事はこちら

・宮道列子(みやじのつらこ) ?~907
 宮内大輔の弥益女。宇多天皇の女御藤原胤子の母、醍醐天皇の外祖母。天皇の外祖母として従三位に叙された。延喜七年十月十七日薨去、二十六日正二位が追贈された。


(付記)

・登場人物の年齢と時系列について

 高藤が鷹狩りの途中で雨に降られ、山科の宮道弥益の邸で雨宿りをし、列子と契りを交わす話は「今昔物語」に載せられています。
 「今昔物語」によると、当時の高藤の年齢は十五、六歳だったということですが、これではその翌年くらいに生まれたと推察される胤子の年齢は867年生まれの宇多天皇よりも十歳以上年上となり、2人の結婚が政略とは考えられないため、不自然に思えました。

 そこで私は、高藤が列子と始めて契った年齢を25歳くらいとし、胤子の年齢を宇多天皇より4歳くらい年上としました。胤子の生年は不詳のようなので、このくらい妄想してもいいかなと…。
 そのため、列子が高藤を待ち続けた年数、「今昔物語」では6年となっているところを3年半とさせていただきました。
 なお、列子の年齢も「今昔物語」では十三、四歳となっていましたが、高藤の年齢に会わせ、数歳引き上げて十六歳としました。

 以上は、学術的な根拠は全くなく、すべて私の想像ですのでご了承下さい。

・勧修寺について

 宮道弥益の邸は後に醍醐天皇が母の胤子の菩提を弔うため寺としました。これが勧修寺です。
 醍醐天皇はきっと、祖母の列子のことも忘れなかったのでしょうね。
 また勧修寺には、列子建立の堂もあったそうです。夫の高藤や、女の胤子を弔うために建てられたのだと思います。

 私は15年ほど前の2月に勧修寺を訪れました。2月にしては暖かい、よく晴れた日でした。庭園が美しかったです。ただ、2月ということで花は咲いていませんでしたが、
 ここで、高藤と列子が結ばれたのだと色々想像を巡らし、わくわくしたのを思い出します。

☆参考文献

 『平安時代史事典 CD-ROM版』 角田文衞監修 角川学芸出版
『今昔物語 日本古典文庫11』 福永武彦訳 河出書房新社

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