平安夢柔話

いらっしゃいませ(^^)
管理人えりかの趣味のページ。歴史・平安文学・旅行記・音楽、日常などについて書いています。

京都観光名所・名跡 分析

2007-03-26 10:36:25 | 歴史雑記帳
 なぎさんのブログ「晴れのち平安」で紹介されていた、「京都観光名所・名跡 分析」をやってみました。行ったことのある思い出の場所、まだ行ったことのないあこがれの場所が次々に出てきて楽しかったです。

 最初に、いつものようにHNのえりかでやってみました。

えりかの62%は「相国寺」の五山文学の威厳さで出来ています
えりかの23%は「平等院」の阿弥陀如来座像等の神秘さで出来ています
えりかの9%は「銀閣寺(慈照寺)」の渋さで出来ています
えりかの5%は「上賀茂神社」の皇女(斎王)さで出来ています
えりかの1%は「永観堂(禅林寺)」の紅葉名所さで出来ています

 わ~い、大好きな平等院が出てきました。それから、「上賀茂神社の皇女(斎王)さ」というのも良いですね。たとえ5%でも、尊子内親王・選子内親王・式子内親王といった斎王の素質を、私も持っているとしたら嬉しい限りです。


 では、次に本名でやってみました。

<えりかの本名>の56%は「化野念仏寺」の8,000体に及ぶ無縁石仏で出来ています
<えりかの本名>の27%は「伏見稲荷大社」の朱色一色と商売繁盛さで出来ています
<えりかの本名>の9%は「金閣寺(鹿苑寺)」の絢爛さで出来ています
<えりかの本名>の7%は「清水寺」の四神相応さで出来ています
<えりかの本名>の1%は「貴船神社」の水占みくじに代表される水分で出来ています

 化野念仏寺と伏見稲荷大社にはまだ行ったことがありません。でも、この二つで私の本名の8割を占めているとのことなので、ぜひ行ってみなくては…。あの美しい金閣寺が少し入っているのも嬉しい。金閣寺には4回程行ったことがありますが、そのつど輝きが違って見えておもむきがありました。


 では、次にブログのタイトルでやってみました。

平安夢柔話の82%は「法界寺」の阿弥陀堂と薬師堂で出来ています
平安夢柔話の8%は「三十三間堂」の1,001体の千手観音像で出来ています
平安夢柔話の6%は「銀閣寺(慈照寺)」の渋さで出来ています
平安夢柔話の4%は「北野天満宮」の修学さで出来ています

 82%の法界寺にはまだ行ったことがないのでこちらにもぜひ行ってみなくては。三十三間堂の大仏にはいつも感動させられますし、銀閣寺の庭も素晴らしかったので、分析結果に入っているのが嬉しいですね。


 では、最後に我が家の愛猫の名前でやってみました。

エリカの54%は「壬生寺」の壬生狂言と新選組で出来ています
エリカの30%は「修学院離宮」の天下の三棚の一つ霞棚で出来ています
エリカの7%は「清水寺」の四神相応さで出来ています
エリカの5%は「京都御苑(御所)」のロイヤリティさで出来ています
エリカの4%は「北野天満宮」の修学さで出来ています

 ほう、我が家の小さなエリカの半分は新撰組なんだ~。壬生寺にも行ったことがないので、こちらにもいつかぜひ訪れてみたいですね。それにしても、5%の「京都御苑(御所)」のロイヤリティさというのが面白いです。エリカは高貴な生まれなのかしら。

 …というように、色々なキーワードを入れて遊んでみました。京都好きのみなさま、ぜひいかがでしょうか。

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その時歴史が動いた 黒田如水特集

2007-03-02 16:08:53 | 歴史雑記帳
 2月28日午後10時からのNHK「その時歴史が動いた」は、私の大好きな武将、黒田如水が特集されました。「これは見るしかない!」と思い、テレビの前に座って 43分間、しっかり観ました。せっかくなのでちょこっとレポートしますね。

 番組のタイトルは、「天下は我が掌中にあり~黒田如水・もうひとつの関ヶ原~」 関ヶ原第三の男の秘策[というもので、主に関ヶ原合戦当時の如水の動向が取り上げられていました。そして、「その時」は慶長五年十一月十二日、この日は家康から如水に停戦命令が出た日…とのことでした。

 しかし、黒田如水に関しては、やはり秀吉の軍師として天下統一に貢献した話をなくして語れませんので、番組でもまず、如水の若い頃の話から始められていました。播磨平定、中国大変えし、九州平定、そして、その才気ゆえに秀吉からうとまれ、自ら隠居する話など、私も、うんうんとうなずきながら観ていました。

 やがて秀吉が薨去し、天下は再び乱れ始めます。大名たちは、石田三成を中心とする派閥と、徳川家康を中心とする派閥に分かれて対立するようになります。そんな中、如水は大いなる野望を抱くことになるのです。如水は今まで、自分の才能を他人のために使って「きました。でも、三成と家康が対立するこの時期に及んで、「今まで他人のために使ってきた才能を自分のために使ってみよう。」つまり、「三成と家康が争っている間に謀略を用いて天下を取ってしまおう」と考えたわけです。

 このことについては当ブログ内の「こちら」の記事でも触れましたので詳しいことは省略しますが、結果的には失敗に終わります。如水は、三成と家康の合戦は半年以上続く…と思っていたようですが、その意に反し、関ヶ原合戦は一日で終結してしまいます。

 ところで、私は今まで、「如水は関ヶ原合戦での家康勝利の知らせを受け取った時点で軍を解散し、天下を取ることをあきらめた」と思っていました。でも、今回の番組を観たところ、そうではなかったようですね。
 如水は関ヶ原合戦のあとも、「家康に味方する」という名目で、九州の石田方の城を攻略していたのだそうです。如水の息子、長政は家康軍に従って出陣していましたので、「家康に味方して石田方の城を攻略する」という、如水の名目は成り立つわけですよね。如水はわずか2ヶ月足らずで九州の大半を切り取り、残るは島津だけとなります。そして、島津攻略に出発しようとしたとき届いたのが、最初の方で書いた、家康からの停戦命令だったのでした。そこで、如水は仕方なく軍を解散したのでした。

 つまり家康は、如水の計画に気がついていたと言えそうです。しかし如水は、家康に「野心のない」ことを示したため、黒田家は筑前五十二万石をもらうことができたのでした。

 それにしてもわずか2ヶ月で九州の大半を切り取ってしまった如水はやっぱりすごい。もし、三成と家康の戦いが半年以上続いていたら、如水は大軍を率いて山陽道を上り、本当に天下を取ってしまったかもしれません。でも実際はそのようにならず、小早川秀秋の裏切りによって、関ヶ原合戦はあっけなく決着がついてしまいました。しかも秀秋を諜略したのは如水の息子の長政だったというのですから皮肉なものです。

 番組でも、「家康殿から握手をしてもらった」と喜んで話す長政に向かい、如水は「その時家康殿と握手した手は右手か、左手か」と聞き、「右手でした」と答えた長政に対して、
「その時、そちの左手は何をしていたのじゃ。」
と言ったという、有名なエピソードも紹介されていました。天下はきっぱりとあきらめて隠居に戻った如水でしたが、絶好のチャンスを逃してしまったことは、やはり悔しかったのでしょうね。

 その他、色々なエピソードが紹介されていましたが、「さすが如水」と思ったのはラストの方で紹介されていた次のエピソードです。

 最晩年、病の床についた如水は家臣たちのことを口汚くののしるようになります。「そんなにののしらなくても…」と言う長政に対し如水は、
「早くそちの時代になるよう、わしは嫌われた方がよいのじゃ」
と、こっそり言ったそうです。自分が死んだあとの次の代の黒田家のことをしっかり考えているあたり、やっぱりすごい。

 というわけで、番組を観て、如水のことがもっと好きになりました。「播磨灘物語(司馬遼太郎)」「小説 黒田如水(童門冬二)」などの如水の生涯を描いた小説、それから番組のゲストで出演されていた安部龍太郎さんの、関ヶ原前後の如水を描いた「風の如く 水の如く」もまた読み返してみたいです。

 ところで、「いつか如水を大河ドラマで取り上げて欲しいなあ。」と言う私に対してだんなさんは、
「黒田如水は有名ではないし、戦国時代に中心になって活躍していたわけではないから無理だ。」
と言いました。それで私は、
「そんなことを言ったら山本勘助だって同じじゃないかな。あの人だって武田家の軍師だから、天下の表に出て活躍はしていないでしょう?それなのに大河ドラマになったじゃないの。」
「勘助は武田家と一体だ。だから信玄というとすぐに勘助が連想される。でも、秀吉と言って黒田如水を連想する人はあまりいないんじゃないかな。それに、最後に天下を取ろうとしたようだけど結局は失敗している。こういう武将はドラマの主人公としてはあまり魅力がないな。

 言われてみればそうかも…。でも、如水を主人公にした小説はわりと多いし、何よりも彼が生きた戦国時代後期は人気のある時代だし…。平安大河よりは可能性があるかもしれません。気長に待っていようと思います。

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実資さんって…

2007-01-14 18:10:27 | 歴史雑記帳
 11月に購入した「平安時代史事典」ですが、日記にも書いているようにブログの歴史記事を書く上でとても役に立っています。本当に買って良かった…と思っています。

 ところで、事典で平安時代の人物を調べているとよく目にする文字が「小右記」の三文字です。

 「小右記」というのは、藤原実資(957~1046)の書いた日記です。彼は藤原斉敏の子で、祖父に当たる藤原実頼(小野宮流藤原氏の祖))の養子となった人物です。村上・冷泉・円融・花山・一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉の九代の帝に仕え、最終的に右大臣にまで昇進し、「賢人右府」と称されました。そして、21歳の時から約60年に渡って日記を書き続けました。その日記が「小右記」です。
 現在では散逸している部分も多いようですが、当時の政治情勢が細かく書かれており、貴重な史料となっています。特に興味深いのは、実資と同時代に生きた人々……、藤原道長やその周囲の人たちの性格や行動が生き生きと描かれていることだと思います。その結果、現代に生きる私たちは、当時の人たちのことをかなり詳細に知ることができるわけです。

 その中には、実資さんに痛烈に批判されてしまった人たちもいます。例えば藤原道綱などは、「一文字も読めない人」などと言われてしまいました。お母さんは「蜻蛉日記」の作者で、和歌が得意な才女だったのに、息子の道綱は才能もなく、ただ父兼家や異母弟道長の引き立てによって出世したようなところはありますが、いつもお母さんの陰に隠れているような気がしてちょっとお気の毒になったりします。
 また、道長の下で長い間右大臣を勤めていた藤原顕光も、「愚人」などと言われ、「小右記」のあちらこちらで痛烈に非難されています。。

 そして最近、「平安時代史事典」を使って調べものをしていたとき、実資さんの意外な一面がうかがえるすさまじい話を発見してしまいました。

 藤原師輔の息子さんに、藤原為光という人がいます。ちなみに彼の母は醍醐天皇皇女雅子内親王、つまり兼家や伊尹の異母弟、道隆や道長、上で述べた道綱の叔父に当たります。最終的には太政大臣にまで昇進していますが、あまり目立った業績もなく、凡庸な人物だったようです。為光には、誠信、斉信、花山天皇女御の(女氏)子など、多くの子息や息女がいました。ただ、そのわりには子孫が繁栄しなかったようですが…。

 永延二年(988)、為光の長男、誠信が上席にいた実資を飛び越えて参議に任じられたのですが、追い越された実資は「誠信が参議になれたのは為光が昇進運動をしたためと、この実資に対する嫌がらせだ。」と日記に書いています。参議になれば公卿の仲間入りですから、七つも年下の誠信に先を越されたことが悔しくてたまらなかったのでしょうね。しかも、彼がようやく参議に任じられたのは、誠信に遅れること1年後のことだったのですから…。

 為光は承暦3年(992)に世を去ったのですが、実資は為光の周忌の法事に招かれてもいっさい出席しなかったそうです。「彼には全く恩がないから」と日記にも書いているようです。当時は現在に比べると死者の怨霊とか、怨念がはるかに恐れられていた時代です。つまり、死者を供養しないということは、自分にどんな災難がふりかかってくるかわからない…と考えられていた時代でもあったのではないかと思います。それを承知でいっさい為光の法事に出ない……、実資の執念が感じられるエピソードではないでしょうか。

 とは言っても、私は決して実資さんのことが嫌いではありません。出世欲が強くて、執念深くて、色々口うるさいところはありますが、彼は真面目で誠実な人だったと思います。紫式部日記」によると、敦成親王(のちの後一条天皇)の五十日の賀の際、紫式部は実資の真面目な態度に感動しています。才女の紫式部から好意を持たれたのですから、彼はなかなか魅力的な人だったのでは…。あまり人としゃべらず、近づきがたい感じはするけれど、何か不思議なオーラのようなものが出ている…そんな人だったのではないかと思ったりします。

 何よりも、日記「小右記」によって、私たちは当時の貴族たちの様子を詳細に知ることができるのですから、これは実資さんに感謝しなくてはいけませんよね。

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大河「功名が辻」最終回の感想と総まとめ

2006-12-16 10:52:51 | 歴史雑記帳
 遅ればせながら、大河ドラマ「功名が辻」の最終回の感想と、総まとめを書きたいと思います。

 が、そちらを書く前に、私が大河感想をさぼっていた間の約10回分の放送の感想を少し…。(ちなみに、私が前回書いた感想はこちら

 六平太の描き方は原作より良いなと思いました。原作の六平太は、関ヶ原合戦後すぐに、千代の前から姿を消してしまいます。旅に出たのか、毛利に戻ったのか…、その後は行方知れずです。つまり、物語にもその後いっさい登場しません。

 でもドラマでは、しっかり重要人物を演じてくれました。自害をする場面を観て、「このドラマの真の主役は六平太だったのでは…」と思いましたよ。「千代が好きだった」という最後のせりふも少しも違和感ありませんでしたし。

 ところで、一豊に、「相撲興業にかこつけて一両具足の長をおびき出し、全員皆殺しにする。」という策を授けた人物について、原作では「ある家臣」としてあるだけで、具体的な名前は挙げられていません。というと原作でも、六平太は千代の前から一時姿を消したが、一豊に願っていつの間にか山内家の家臣となり、この策を一豊に授けたとも取れるわけです。多分、脚本家の大石さんもそのように解釈されたのではないかと思います。

 それから、原作での一豊は関ヶ原の際、東軍につくか西軍につくかでうじうじ悩んでなんかいません。ドラマでは、千代からの「石田三成の挙兵を知らせる手紙」が届いた時点でやっと、、「家康殿につく」と決心したと描かれていましたけれど、あれだけどちらにつくかで迷っていたら、たちまち家康殿に怪しまれてしまいますよね。実際の一豊は、少なくても大阪を出発した時にもう、「家康殿につく」と心に決めていたのではないでしょうか。

 あとは……、そうそう、黒田如水ファンとしてこれだけは言っておきたいことがあるので書きますね。
 ドラマでは、「関ヶ原合戦後、黒田如水は毛利や島津、長曽我部と組んで大乱を起こそうとしていた!」ということになっていましたが、私はそのことは疑問に思います。

 確かに黒田如水は、関ヶ原合戦のあった慶長五年九月、「家康殿に味方する」という名目で兵を募り、北九州の西軍方の城をいくつも落としています。如水はこの勢いで山陽道を上り、家康と三成が争っている間に天下を取ってしまおうという野望を持っていたことは、ほぼ間違いないと思います。如水は、二人の合戦は1年くらい続く…と見ていたようなのですよね。

 しかし二人の合戦は、如水の予想に反し、1日で終結してしまいます。この知らせを聞いた如水は軍を解散し、もとの隠居に戻っています。つまり、この時点で天下を取ることをあきらめたと思うのです。
 その後如水は上京し、京の黒田家の屋敷で隠居生活を送っていたのですが、屋敷にはなぜか、彼を慕う多くの者が出入りするようになります。「知恵者で名高い如水が京にいる」と聞けば、やはり多くの人が集まってくるのでしょうね。その中には、家康の息子、結城秀康(秀忠の異母兄)もいたと言われています。
 しかし、このことで家康が警戒している…という噂を聞くと、如水はさっさと息子長政の領地である筑前福岡に引き上げてしまうのです。つまり、家康が如水に警戒していたことは間違いないと思うのですが、如水が関ヶ原後も天下に野望を持っていたかどうか…。本心はご本人にしかわかりませんけれど、ドラマに描かれていたように毛利や島津と組んで大乱を起こそうとしていた…というのは、ちょっと疑問ですね。

 さて、最終回の感想に移りますと…。

 淀殿って自害したのではなかったでしょうか?あんな風に刺し殺されるなんてことはあり得ませんよね。どうも今回のドラマの淀殿は秀吉の臨終の時にお市の声色をまねたり家康に向かって暴言を投げつけたりと、極端すぎましたよね。あれだけ淀殿を悪く描く必要があったのか、ちょっと首をかしげてしまいます。せめて最後くらいは、潔く自害させてあげても良かったのでは?

 それはともかく、一豊が千代を背負ってどこかへ行ってしまう、つまり、一豊が千代を迎えに来たというイメージのラストシーンはなかなか良かったのではないかと思います。エンディングで、フォローをしてくれたおかげで、「旅に出た千代は、美濃の地で人知れず亡くなった」と思った人は多分いなかったでしょうし…。夫婦が仲良く手を取り合って戦国乱世を生き抜いたというこのドラマのテーマにふさわしいエンディングだったと思います。

 では、総まとめと行きましょうか。

 今年の「功名が辻」も昨年の「義経」同様、毎週欠かさず観ていました。そして、ドラマとしては今年の方が楽しめたように思えます。
 しかし、史実的に間違ったところもいっぱいありましたし、何よりも不満だったのは、原作をかなり無視していたことです。登場人物の性格を原作に沿って描いてくれたらまだ良かったのですが、一豊のキャラクターは毎回ころころ変わるし、千代はどうも賢夫人に見えないし…。千代と一豊を何が何でも歴史上の有名人たちと関わらせようとするところも不満でした。

 役者さんの演技については満足でした。特に、信長・秀吉・家康がはまり役でしたよね。その中でも秀吉は、「秀吉って本当にこんな人だったのではないかしら」と思わせる演技でした。
 そして、主役の上川さんの一豊もなかなかはまっていて良かったと思います。「どうしたもんかのう」というせりふが、一豊の悪く言えば間抜けで情けない、良く言えば人の良いところをよく表していて忘れられないです。

 と言うわけで、昨年の「義経」のように、心に残ったシーンを挙げてみようと思ったのですが…、残念ながらこれといったシーンが思い浮かばないのです。強いて言えば、最終回の回想シーンにもあった、稲葉山城に籠城していた千代と、一豊が炎の中で愛を交わすシーンが良かったなと思うくらいです。あとは、東軍につくことを決心した中村一氏が病気をおして家康に会いに来るシーンがなぜか強烈でした。こうしてみるとやはり、山内一豊という人物は、歴史の脇役に過ぎないのかもしれません。

 ところで、エンディングで妙心寺の大通院が紹介されていましたよね。
 私は、千代と一豊のお墓が妙心寺にあることを初めて原作を読んだ当時(平成五年頃)から知っていました。そこで、平成12年にようやく妙心寺に行き、千代と一豊のお墓参りをしようと思ったのですが、大通院は普段は公開されていないことを現地にて知り、がっかりしたものです。
 エンディングの二人のお墓の映像を見て、「大通院が特別公開されたら、ぜひお墓参りに行きたい」と思った私、やっぱりこの夫婦が好きなのだなと思いました。色々不満はあったけれど、二人の生涯を小説化した「功名が辻」を、1年間映像で観ることができたことは幸せです。そして、私も千代のように、だんなさんを支えて行けたらいいなと…、これはあくまでも希望ですけれどね。

 原作ももう一度読み返してみたいなと思っています。

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何かおかしい… ~「功名が辻」感想

2006-09-27 09:26:28 | 歴史雑記帳
 約4ヶ月ぶりに「功名が辻」の感想を書くことにしました。とにかく前回・今回と、あり得ない設定や原作と違う描き方をしている所がたくさんありましたので、一言言いたくなってしまったのですよね。何かこのドラマ、だんだんおかしなことになっているような気がします。

 では、感想に移りますね。…と言っても、ドラマと司馬さんの小説の比較のようになってしまうと思いますが…。

 前回の「功名が辻」の放送を観て私は、「一豊夫婦があそこまで秀次べったりはおかしい。何よりも、世の中の動きを冷静に判断し、一豊のために身の処し方を冷静に判断する能力を持っているはずの千代が、あれほどうろたえるはずがない!」と思ったのです。
 そこで思ったことは、「司馬さんの原作には、この場面はどのように描かれていたかしら?」ということでした。10年くらい前に読んだきりなので、はっきり覚えていなかったのです。そこで、小説を引っ張り出し、該当箇所を読んでみることにしました。

 するとびっくり。ドラマとは正反対だったのです。

 まず、一豊も千代も秀次を嫌っていました。
 秀次の宿老となった一豊が、「秀次さまは嫌な男だ」と千代に言うのです。千代は最初、「そんなに嫌わなくてもいいのに…」と言っていたのですが、千代自身も秀次と目通りすると、「私も嫌い」ということになってしまったのでした。「わしは学問が好きじゃ」という秀次の言葉に、「この人が学問ですって?似合わない…」と思う始末です。

 そんな考えですから、秀頼が生まれて秀次の立場が微妙になると一豊は、
「わしが秀次さまなら、さっさと関白の座をお返しする」と千代に言い、秀吉が伏見に城を築き始めると、一豊も伏見に屋敷を造り始めます。

 秀次御乱行の噂が流れ、さらに、「秀次さまは謀反を企てているらしい」ということがささやかれ始めると、千代は一豊に向かい、
「伏見の屋敷の完成を急がせて。私は1日も早く、伏見に移りたい。」と頼むのでした。これは、「私が伏見に移れば、関白さまと太閤さまが合戦になった場合、一豊さまは安心して太閤さまに味方できる」という、千代の計算が働いた結果の言動だと思います。こちらの描き方の方が、よほど自然だ…と、私は読みながら思いました。
 もっとも小説では、一豊夫婦が幼い頃の秀次の世話をした…という伏線はありませんので、こういった突き放した描き方ができたのだと思いますが…。

 さて、屋敷の完成を急がせるため、一豊は伏見に行ってしまいます。やがて、「諸侯の妻子は、秀次方の人質として聚楽第に収監されるらしい」という噂が流れ始めます。その噂を耳にした千代は、夜陰に紛れて京の屋敷を抜け出し、伏見に向かったのでした。

 ところが伏見に向かう途中、千代たちの乗った車は秀次方の役人に見つかってしまいます。役人は車を止め、「山内対馬守の車と見た。どちらに参られる?」と、車の横を歩いていた侍女に詰問します。侍女は質問に答えず、「急いでいるので通して下さい!」と詰め寄ったので、役人は再度、名を尋ねました。すると侍女は、
「山内対馬守の妻にて、千代と申します。」と言ったのでした。

 つまり千代は危険を覚悟し、秀次方の役人の目をごまかすために侍女に変装して車の横を歩いていたのです。役人は千代の気迫に押され、そのまま車を通してしまいました。

 無事に伏見にたどり着いた千代と、一豊は再会を喜び合います。太閤秀吉もこの千代の脱出劇のことを聞き、「さすが対馬守の妻は賢夫人じゃ」と言います。つまりこの時点で一豊は、完全に秀次を見限り、太閤方についたということになります。

 さて、ドラマで一豊は、聚楽第の秀次を秀吉の許に連れてくる…という使者に立っていましたが、史実では一豊1人ではなく、堀尾吉晴や中村一氏らとともに使者に立っています。司馬さんの小説でもそのようになっていました。そうですよね、一豊1人ではあまりにも頼りありませんし、単独で乗り込んだりしたらたちまち、聚楽第の秀次方の武将たちに首をはねられてしまいますよね。
 まして、千代が忍者のように聚楽第に乗り込んでくる…なんて絶対にあり得ないことだと思いました。多分千代が、幼いときに世話をした秀次を説得して秀吉の許に連れて行き、結果的に夫の窮地を救う…という描き方をしたかったのでしょうけれど、あまりにもあり得ない設定なのでかえってしらけてしまったというのが正直なところです。

 そこで、この場面が小説でどのように描かれているか…。それが、なかなか面白い描き方をしていますのでここに書かせていただきますね。

 この時の使者は一豊を含めて5人でしたが、団長格は堀尾吉晴でした。なので、秀次は、5人の使者と対面すると堀尾の口から、
「即刻太閤の許に参られるように」と告げられます。
 秀次は、「即刻か…」と何回も繰り返してつぶやき(ここはドラマにもありましたね)、ようやく秀吉の許に行く決心をします。
 それを見た一豊は、急に秀次が気の毒になってしまったのでした。「この若者は、太閤の甥になど生まれず、尾張で百姓をやっていれば平穏な人生が送れたのに…」と急に感傷的になった一豊は思わず、「殿下」と口走ってしまいます。そして、
「われわれがご同行しますので、支度はごゆるりと…」などと言ってしまったのでした。

 これを聞いた堀尾は「これ、対州!」とたしなめます。堀尾が「即刻参るように」と言っている以上、「支度はごゆるりと」なんて言われては困るわけですよね。

 この場面は、良く言えば人の良い、悪く言えば間抜けで昼行灯な一豊の性格がよく表れていて、小説「功名が辻」の中では最も好きな場面の一つです。ついでに、先に書いた千代の脱出劇の場面も好きです。こちらは、千代の賢くて冷静な部分がよく表れていると思います。個人的に、この二つの場面は、ぜひ映像で見てみたかったです。

 一豊は、秀次が切腹した時、8000石の加増を受けています。ドラマのようにぎりぎりまで秀次べったりだったら、加増なんてされるわけがありませんよね。司馬さんの小説が史実をどの程度ふまえているかはよくわかりませんが、ドラマより小説の方が史実に近いように思えました。

 ところでこのドラマ、来週もとんでも設定が満載とか…。手鞠さんのブログ「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」によると、千代が秀吉の看病をするようです。あれだけ秀次べったりだったのに、これはどうしたことでしょうか…。それに、秀吉のそばには正室の北政所、側室の淀殿や松ノ丸殿などがいますし、他にも多数の侍女がいたと思うので、妻でも侍女でもない千代が看病をするなんてあり得ませんよね。

 何よりも、「もう秀吉が亡くなってしまうの?」という感じです。
 実は、小説は秀次が切腹したあたりで全体のちょうど半分くらいなのです。なのに、ドラマの放映期間はあと3ヶ月しかありませんよね。当然、これからの場面はかなり端折られると覚悟はしていたのですが、千代が伏見に移ってから秀吉の死までの場面はカットですか…。この部分は本当に面白いのに…。

 小説のこの部分についてちょっと書いておきますと、まず、六平太が再登場します(ドラマではすでに登場していますが…)。次に、一豊が掛川に行っている留守に、秀吉がお忍びで千代を訪ねてきます。何しろ秀吉は女好きですからね。千代は秀吉に抱かれそうになるのですが、六平太の機転で難を逃れます。その時の千代のせりふが好きなんですよね。
 秀吉を拒もうとする千代に向かって秀吉は、
「そんなに対馬守が好きか?」と尋ねるのです。それに対して千代は
「好きなのではなく、愛しいのです。」と言うのですが、その気持ちわかるなあ。

 次に発生するのは、今回のドラマでも触れられていた山内家の跡継ぎ問題です。千代は何とか、一豊に実子が産まれないかと臨んでいます。千代も一豊も、拾のことをかわいく思いながら、家臣たちの心情を考えて、山内家の跡継ぎにとは考えなかったようです。
 そこで千代は、一豊に側室を薦めます。しかし一豊は、「実子がいなければ康豊の子を養子にすれば良い。」と考え、全く取り合いません。
 千代は、お気に入りの侍女に一豊の世話を頼み、自分は1ヶ月間、旅行に出てしまいます。「彼女が一豊の側室になってくれたら良い。」と考えたわけです。しかし、この試みは失敗に終わります。そこで、千代は一豊に側室をすすめることをあきらめ、康豊の子が一豊夫婦の養子になるわけです。

 また、千代は淀殿から、「小袖のことを色々話して欲しい」と召し出される…という場面もあります。もちろん、千代が淀殿に会うのはこれが初めてです。その際、千代は淀殿の乳母の大蔵卿局と口争いをしてしまいます。そして、ついに「鬼ばばあ…」とまで言ってしまうのですが…。この場面は笑えました。

 こんな面白いエピソード満載の原作をどうして無視するのか…と少し首をかしげてしまいます。最近はどうも、脚本家の大石さんのオリジナルの色が強くなっているように思えてなりません。それはそれでいい面もあるのでしょうけれど、原作の愛読者としてはちょっと違和感を感じてしまいますね。どうやらこのドラマは、司馬遼太郎さんの「功名が辻」を原作としたドラマではなく、脚本家の大石さんのオリジナル色の強い、「改訂版功名が辻」と思った方が良いのかもしれません。

 一豊や千代を必要以上に「いい人」に描いたり、登場人物の誰とでもを千代と絡ませるなど、首をかしげる部分がたくさんあるこのドラマですが、今後も見どころはありそうです。関ヶ原での一豊と家康の絡み合いとか、千代の活躍とか…。掛川城も出てきそうなので楽しみです。
 このように、原作や史実と比較しなければ、結構楽しめるかもしれません。と言っても、今回の秀次事件のように裏切られるかもしれませんが…。楽しみ半分、心配半分と言ったところでしょうか。…と、この言葉、どこかで聞いたことがありますよね。そうです、昨年の大河「義経」の感想でしょっちゅう書いていました。と言うことは、「功名が辻」もあの「義経」と似てきてしまったのでしょうか…。

 それでも何だかんだ言いながら、最終回まで観てしまうのだろうな…と思います。

日本歴史占い

2006-06-23 17:17:04 | 歴史雑記帳
 「きらめきの刹那」「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」の手鞠さんが、またまた面白い占いを紹介して下さいました。手鞠さん、どうもありがとうございます♪

 今回の占いは「日本歴史占い」です。性別と、生年月日を西暦で入力し、日本史上の人物を判定するという占いなのですが、私えりかの結果は以下のようになりました。


 あなたは素晴らしい潜在能力の持ち主です。とりわけ第六感が発達している感性豊かな女性。なので、仕事もできる、酒もいける、涙もろいわりに豪快。卑弥呼も幼い頃から霊感が強く、洞察力に優れ、戦争、疫病、飢饉など国の一大事は、すべて彼女の言葉にゆだねられていました。ふだんは大胆ですが、弱点を突かれるともろいので、ヒステリーになりやすい面も。

 と言うわけで、私は卑弥呼だそうです。卑弥呼というと奥に引っ込んで占いばかりしているおばあさん……というイメージがあるのですが…。それ以外は謎が多くてあまり印象がないです。

 それで私の性格判断なのですが、「仕事もできて酒も行ける」というのは当たっていませんね。「働いているより家で家事をやっている方が好き…」という理由で仕事をやめてしまった前歴があるえりかです。(苦笑)アルコールにもとても弱いです。

 ただ、第六感が優れているというのは当たっているかもしれません。
 例えば、本人や周囲からは全く話を聞いていないのに、「誰と誰が現在交際している」というのが手に取るようにわかってしまう所が私にはあります。「○○さん、結婚するんだって。」という話を聞くと、「その相手は××さんね」と私が言い、「なぜ知ってるの?」と不思議がられた…ということも何回もありました。

 また最近では、東北地方の某所で起こった小一男児殺害事件の犯人が、事件が起こる1ヶ月前に事故死した近所の女児の母親ではないかと、かなり以前から気がついていました。実際彼女が犯人だったわけですが…。
 
 それと「ヒステリーになりやすい」というところも当たっています。


■頭脳・知識
ズバ抜けた情報消化能力の持ち主。どんな情報も神がかり的に消化してしまう。意味不明、支離滅裂であってもそれなりに。とりわけ第六感が発達していて、直観が鋭い。

 え~!私は情報消化能力など全くないのですが…。


■センス
チャレンジとリベンジを繰り返す。小さな幸せに満足できず、いつも何かに立ち向かっている感じ。他人にふりかかる困難も不幸も、自分の人生として噛み締めてしまうから、いつも“ドラマチック”な人。

 私は小さな幸せで満足するタイプだと思うのですが…。今の生活環境が満足なものであれば、その環境を絶対変えたくない!というのが正直なところです。
 でも、他人に降りかかる不幸と困難を自分の人生として受け入れてしまうところは確かにあります。


■感情
情が厚く、頼られると丸ごと引き受けてしまう姉御肌タイプ。一人で何でも抱え込むので、ストレスがたまりやすく、落ち込みが激しい。豪快に見えて、実は繊細。人知れず、プレッシャーと戦うことも。

 一人で何でも抱え込むのでストレスがたまりやすく、落ち込みも激しいというところだけは当たっています。


■外見・言葉
けれんみのなさ、気風の良さ、大胆さは男まさり。なにごともキッチリこなすしっかり者で、何かに打ち込む姿が好感をもたれる。意志の強さが全身から漂っていて、不思議な存在感をアピール。

 え~、これも当たってないです。「しっかり者」などと言われたことなどないのではないかと思います。


■行動
人一倍責任感が強く、努力家。コレと決めたら、寝食を忘れて没頭するタイプ。脇目もふらずひたむきに打ち込んでしまうため、たまにレールが外れていても気がつかないことがある。

 「これと決めたら寝食を忘れて没頭する」というところは当たっているかもしれません。ブログの作成や歴史研究などをやっているとつい夢中になり、時間を忘れてしまうこともしばしばです。


 ちなみに、私が男性だったとしたら、「聖徳太子」なのだそうです。
 
 根拠のない自信と威圧感で、周囲に大物と思われています。その影響力は大きく、話術の天才です。聖徳太子もその才能を生かし、20歳で天皇の政治を助ける摂政(日本初)に任命されます。仕事人間で、弱音は吐きません。争いや対立が苦手で、結果よりもプロセスを重視。みんなの個性や意見を受け入れる広い心を持ち、結果、聖徳太子は、家柄に関係なく能力のある人材を登用する『冠位十二階』を制定しました。

 聖徳太子は好きな人物なので、この結果は嬉しかったです。

 確かに卑弥呼も聖徳太子も「謎の人物」「不思議な人物」という感じがします。頭が良さそうなところと勘が鋭そうなところなど、二人は似ているところがありますよね。

 さて、今回の占いを終えた感想ですが…、私に関してですがこの判定はあまり当たっていないような気がしました。
 でも、私の生年月日を入れて占いをやると、「頭が良くて仕事ができて行動的」「常に新しいことにチャレンジする」という、今回のような結果が出ることがとても多いのです。ということは、これが私の潜在的な性格なのかもしれませんね。


☆関連リンク
きらめきの刹那
徒然独白 ~手鞠のつぶやき
日本歴史占いのページ





私の前世をチェックしてみました♪

2006-05-27 13:01:40 | 歴史雑記帳
 いつも楽しみに拝見させていただいている手鞠さんのブログ「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」で、「あなたの前世チェック」というものが紹介されていました。10個の質問に答えて結果を診断するものなのですが、私も早速やってみました。さて、その結果は?

>あなたの前世チェック>結果
あなたの前世が何者であるかを診断してみました。


あなたの前世はこんな感じ!

あなたの前世は【平安の世に蝶よ花よと面白おかしく遊び暮らした貴族】のようです。

あなたの前世は平安貴族。
裕福な家庭に生まれ育ち、あまり苦労しないで宮廷で出世した運の良さの持ち主だったようです。
特に和歌を得意として、帝から篤い信任を受けていました。
生涯のうち、ほとんど苦労をすることを知らず、その一生をまっとうしたのです。
数百年のときを経て、現代世界に転生したあなたですが、前世の生き様のためか、あまりこだわりのない性格のようです。
友達や遊びを愛して、毎日面白く暮らせればいいや、という思いが心のどこかにあるでしょう。
頭脳労働をしているときに、あなたの心に眠る貴族の血が騒ぐことがありそうです。

 う~ん、当たっているかも…。平安好きとしてはちょっと嬉しかったりします。苦労をせずに出世したということは、摂関家のお坊ちゃんだったのでしょうね。和歌が得意だったということは、私の前世は道長さんの六男の長家さん(俊成や定家の祖先)だったのかも?それにしては私、五七五七七の和歌を全くひねり出せないのですよね~。和歌鑑賞は好きなのですけれど…。

 でも、前世が平安貴族というと、今の世を生きるにはちょっと弱すぎるかもしれませんね。

 ついでに「魂の数値」というものも出ていましたのでその結果も書いておきます。

強者の魂  59%
道楽の魂  100%
苦境の魂  50%
妖魔の魂  55%

 早く言えば「軟弱で遊び好き」ということでしょうか。

☆関連リンク
あなたの前世チェック
徒然独白 ~手鞠のつぶやき



官兵衛と松寿丸をめぐる出来事について ~「功名が辻」感想

2006-05-23 00:12:34 | 歴史雑記帳
 大河ドラマ「功名が辻」第19回と20回の感想です。

 今年の大河ドラマに関しては、歴史的なつっこみがあまりできない私でも、19回(前回)と20回(今回)はつっこみ所満載でした。大好きな官兵衛さんに関わる出来事を描いていたので、よけいつっこんでしまったのかもしれませんが…。と言うか、5月20日の記事にも書きましたように、官兵衛さんに関わる出来事を大きく変えられてしまう……ということに納得できないのですよね…。

 では、感想を書く前に19回と20回のあらすじをざっと書いてみますね。

 19回。荒木村重が毛利方に寝返ったらしいという情報を得た秀吉は、一豊を伴に連れ、有岡城に村重の説得に向かいました。しかし、説得にはあえなく失敗。そこで「私が参りましょう」と言ったのが官兵衛でした。しかし官兵衛は、有岡城に行ったまま行方不明になってしまいます。

官兵衛の消息を心配した竹中半兵衛は、六平太に頼んで官兵衛の行方を探らせます。そして半兵衛は、「私が愛した女性は千代どのだった」という遺言を残して亡くなってしまいます。

 第20回。なぜか千代の家に官兵衛の息子松寿丸がいるではありませんか。そして突然、「松寿丸を殺せ」と命令する信長。秀吉は一豊に向かい、「松寿丸を預かっていたのはそちだったな。即刻松寿丸を消せ」と命じます。

 しかし、一足先に六平太から「官兵衛は裏切っておらず、有岡城の牢屋に幽閉されている」という情報を得た千代は、松寿丸をこっそり隠してしまいます。この事実を知った一豊はそれを秀吉に報告。秀吉は、「松寿丸はそなたが殺したということにせよ。」と言い、一豊に芝居を打たせます。でもあの嘘泣き、私には笑っているように見えてしまったのですが…。

 やがて有岡城は落ち、官兵衛は牢屋から助け出されます。信長はこの事実を知ってびっくりし、「松寿丸を生かしておけば良かった」と後悔します。それを見た一豊が松寿丸が生きているという事実を告げ、信長も納得して一件落着……というのが官兵衛と松寿丸をめぐる一連の出来事のドラマでのあらすじです。

 このストーリーには、歴史的に大きなつっこみがたくさんあるのですが、まず、「官兵衛はなぜ有岡城の牢屋に幽閉されたのか」というお話から、書かせていただきたいと思います。


 官兵衛は元々、西播州の御着を本拠とする小寺正職の重臣でした。播州というのはちょうど、毛利方の勢力と織田方の勢力の境界線になります。足利幕府を滅ぼした信長は、摂津から播州にかけて、勢力を伸ばし始めていました。

 そこで小寺家も、織田方につくか毛利方につくか、去就をはっきりさせなければならない時がやってきます。正職は家臣を集め、「さてどうしたものか。」と、意見を聞くことにしたのでした。
 そこで官兵衛は、「これからは織田の時代です。」という熱弁をふるい、重臣達の意見を「織田方につく」という方向に持っていってしまいます。そして官兵衛が信長の許に使者に立ったのが天正3年(1575)のことでした。その時官兵衛は30歳になっていました。

  つまり官兵衛は、信長によって播州平定のために派遣された秀吉の参謀になったと同時に、小寺家の重臣でもあったわけです。実は当時官兵衛は、本姓の黒田ではなく、主家の姓である小寺を名乗っていたのです。重臣に主家の姓を名乗らせるということは、よほど主君に重要視されていたという証拠だと思います。

 播州平定に乗り出した秀吉ですが、一時は大多数の領主たちを織田方に帰属させることに成功したものの、その道のりは決して生やさしいものではありませんでした。まず、東播州の豪族で三木城主だった別所長治が毛利方に寝返ります。別所氏は小寺氏と供に、「播州の二大勢力」と言われた家でしたので、播州の小領主たちは動揺し、次々と毛利方に寝返ってしまいます。
 そこで信長は、秀吉に援軍を送り、播州の小領主たちが守る城を攻めさせます。小領主たちは、ある者は降伏し、ある者は切腹し、結局残るは三木城だけとなります。そんなとき起こったのが、摂津有岡城の荒木村重の毛利方への寝返りでした。

 続いて官兵衛の耳に飛び込んできたのが、「小寺正職も毛利方と気脈を通じているらしい。」という噂でした。官兵衛は噂の真偽を確かめるため、秀吉の許可を得て御着城に向かったのでした。
 「毛利と気脈を通じているという噂がございますが…」という官兵衛の問いかけに対し、小寺正職は次のように答えました。
「わしは荒木に誘われたが、毛利に加担するつもりは全くない。そこで官兵衛、荒木を説得してくれぬか。」
 そのようなわけで官兵衛は村重を説得すべく、有岡城に向かったのでした。
 しかし、これは正職や他の重臣たちが仕掛けたわなだったのです。

 次々と織田に反旗をひるがえす別所長治や荒木村重を見て、正職は織田方についていることにすっかり不安になってしまっていたのです。しかも小寺家の家臣たちの中には根強い「毛利びいき」がありました。
 「このまま織田についていたら家が滅びる」と、正職や家臣たちは判断したのです。そして、小寺家が毛利に加担する上で邪魔なのは、秀吉の参謀となって活躍している官兵衛です。

 「では、官兵衛を殺してしまおう。でも、御着城で殺してしまっては、官兵衛の父親がうるさい。では、荒木に頼むとしよう。」
 …というわけで、正職の「官兵衛がそちらに行くので始末して欲しい。」という書状はすでに村重のもとに渡っていたのでした。果たせるかな、有岡城に到着した官兵衛はたちまち捕らえられ、牢屋に入れられてしまったのでした。

 この時の官兵衛は、多少なりとも油断があったと思います。「荒木は友人だから、絶対に説得できる!」と思っていたのかもしれませんね。
 なお、村重がなぜすぐに官兵衛を殺さなかったかについては、ドラマで述べられていたように、村重・官兵衛供にキリシタンだったから……というのも一つの説ですが、はっきりした理由は不明のようです。いずれにしても村重は、官兵衛を極悪な環境の牢に閉じ込め、衰弱死をするのを待っていたのかもしれませんが…。

 さて、官兵衛が有岡城に向かったまま戻らないことを知った信長は官兵衛が裏切ったと思い込み、「官兵衛の息子の松寿丸を殺してしまえ!」と秀吉に命令します。松寿丸(のちの黒田長政)は、人質として長浜城に預けられていたのでした。
 官兵衛が有岡城に向かったのは天正6年(1578)の10月か11月ですので、その年のうちに信長は、この命令を下したものと思われます。気の短い信長が、ドラマで描かれていたように、官兵衛が行方不明になってから半年以上も経ってから松寿丸殺害を命令する……ということは考えにくいと思います。
 それはともかくとして、信長から松寿丸殺害を命じられた秀吉は迷っていました。秀吉は官兵衛に、「そなたはわしの弟と同じじゃ。」という書状を書いているところからみても、官兵衛のことを頼りにし、信頼していたと思われます。

 そんな秀吉の気持ちを察し、「私が引き受けましょう」と進み出た人物がいました。その人物こそ竹中半兵衛です。
 半兵衛はまず、松寿丸を長浜城から連れ出し、美濃国内の自分の領地に隠してしまいます。そして、その頃流行病で死んだ同じ年頃の子供の首を信長に差し出したのでした。

 官兵衛が有岡城の牢屋から救い出されたのは翌天正7年11月のことでした。官兵衛はすっかり身体が弱り、おまけに足が不自由になっていたといいます。彼は三木城の戦線に復帰する前、しばらく有馬温泉にて療養したのですが、半兵衛のこの処置を聞いて大変感謝し、半兵衛がすでに亡くなっている(半兵衛はこの年の6月に病死していました。)ことを聞いて号泣したと言われています。

 以上、長々と述べて参りましたが、今回のドラマのストーリーと史実の大きな相違点、それは松寿丸の命を助け、信長の目の届かないところに隠してしまったのは一豊と千代ではなく、半兵衛なのです。

 私は松寿丸と一豊・千代夫婦が関わるという話を事前に聞いていたのですが、「多分千代が半兵衛の支持を受け、六平太あたりの力を借りて長浜城から松寿丸を連れ出し、半兵衛の領地に隠してしまう。そして、官兵衛が助け出されたあと、一豊と千代が、実は松寿丸は生きているということを告げ(半兵衛はすでに亡くなっていますから)親子を対面させる。」というような感じで描かれるのかなと思ったのです。つまり、実行役は千代でも、考案者はあくまでも半兵衛だという史実は曲げることがないだろうなと思っていました。

 しかしふたを開けてみると、半兵衛の手柄は丸々千代と一豊が横取りしているではありませんか!しかも時系列はめちゃくちゃ…。ここまで来るとちょっとしらけてしまいそうです。
 そして、唐突に千代の家でよね姫と一緒にいる松寿丸…。何かご都合主義ですよね。こういうストーリーにするなら、事前に松寿丸を登場させていてくれていたら(ねねから松寿丸を預かるところを放映するとか)、まだこの話を少しは受け入れられたと思います。でも、あのような唐突な登場のしかたでは、頭の中が?で一杯になってしまいます。

 官兵衛と松寿丸を巡る話の他にも、19回と20回はつっこみ所満載でした。
 信長に向かって「松寿丸は生きております。」と話しかける一豊。一豊あたりの身分で、信長に直接口を利くなんてことができるのでしょうか?

 半兵衛の「私は千代が好きだった」という遺言。だんなさまのいる前でこんな事、普通言いませんよね。せめて、「千代殿を妹のようにかわいく思っておりました。」程度にして欲しかったです。

 三木城開城前に一豊と中村一氏、堀尾吉晴が使者に立っていましたが、実際に使者に立ったのは官兵衛だったと思うのですが…。

 あくまでも千代と一豊の物語なので、他の人物達についての描き方が簡略になること、そして、他の登場人物達と一豊・千代を関わらせる場面が多くなることはある程度仕方がないと思っています。でも、今回のように、明らかに他の人が行った手柄を、丸々一豊と千代のものにしてしまうのは果たしてどうなのでしょうか。一豊・千代と松寿丸を関わらせたければ、上の方で書いたような(半兵衛の支持を受けた千代が松寿丸を隠してしまう)という感じでも良かったのでは……と思います。 そして、これは私の個人的な想いなのですが、最初の方で書いたように、大好きな官兵衛さんの関わっている出来事を大きく変えられてしまうのが、ちょっと納得できないのですよね…。

 時系列がおかしなところ、めちゃくちゃな設定、登場のしかたが唐突、ご都合主義……、何か、昨年の「義経」を思い出してしまいます。
 ただこのドラマが「義経」と違うところは、登場人物一人一人の性格がはっきりしているところ、その登場人物達が常に動き回っているところでしょうか。なのでドラマ自体は大変面白いです。「歴史ドラマ」として観るのではなく、「フィクション」として観ていれば、とても楽しめるドラマですよね。今回のように、歴史的なつっこみをするのもそれなりに楽しいですが…。
 今後も、登場人物が生き生きしているところとストーリー面で楽しめるところを大切にしつつ、ドラマを制作して欲しいなと思っています。

 さて来週はいよいよ、あの有名な「馬を買う話」のようですね。果たしてドラマではどう描かれるのか、注目です。
    

愛しのあの御方の初登場 ~「功名が辻」感想

2006-05-10 10:22:05 | 歴史雑記帳
 久しぶりの「功名が辻」の感想です。楽しみにして下さっていらっしゃる方、長い間さぼってしまってごめんなさい…。と言っても、今後も大河感想は不定期更新になると思いますが、よろしければおつき合い下さいね。

 登場人物の誰とでもを一豊と千代に絡ませるという展開が非常に多いですが、いかがなものでしょうか?何か安易なように思えてなりません。
 と言っても、昨年の「義経」のように史実をつっこむということはあまりなく、ドラマとして毎週楽しんでいるというのが本当のところです。戦国時代は好きなのですが、この時代に関してはあまり知識もなく、つっこめないというのも事実なのですが…。

 ところで、「京都旅行記」の第8回で、うちのだんなさんは信長が大好きで、その信長に助けてもらった……と書きました。だんなさんに言わせると、今回の館ひろしさん演じる信長は今までの大河ドラマの信長の中で一番信長らしい」とのことです。確かにちょっと怖いですけれど、あれだけ自信たっぷりに命令を下すところは頼もしいです。まさに「俺についてこい!」という感じですよね。私も館さんの信長、結構好きです。

 では、いつものように「原作とドラマの違い」の話を…。

 一豊・千代夫婦を秀吉の妹の旭や浅井長政の息子万福丸、松永久秀と絡ませているところはもちろんドラマの創作です。一豊と六平太との絡みはだいたい原作通りです。今回の最後の方に出てきた六平太のせりふ「織田家を見限りませんか」も原作にありました。

 それと小谷城落城あたりまでは「国盗り物語」からの借用が多かったですが、最近は同じ司馬さんの小説「新史太閤記」からの借用が多くなってきたように思えます。
 この「新史太閤記」は、関白になるまでの秀吉を描いた小説で、秀吉やその周りの人々が生き生きと描かれていてとても面白いです。登場人物の名前や舞台となる土地の名前がそのまま各章のタイトルになっていることが多く、章が変わるたびに「次はどんな面白い人物が登場してくるのか」「この土地でどのような出来事が起こるのか」という期待を抱かせ、その期待を裏切ることがありません。なかなかお薦めの小説です。

 それで、今回の秀吉謀反と蟄居の話はほとんどこの「新史太閤記」からの借用です。信長や秀吉や勝家のせりふも、ほとんど「新史太閤記」からの引用だと思います。長浜城に猿楽師を招いてどんちゃん騒ぎをやる……という作戦を考えたのも、「新史太閤記」でも半兵衛ということになっていました。
 「功名が辻」の原作では、信長はほとんど登場せず、本能寺の変以前の天下の動きについてはあまり描かれていないので、信長や秀吉を主人公にした「国盗り物語」や「新史太閤記」から題材を取ってくるということなのでしょうね。

 さて、今回の最後の方で、秀吉はいよいよ播磨攻めに乗り出しましたが……、やっと、やっと出てきました。そうです、愛しの官兵衛さま……。私が戦国武将の中で一番好きな黒田官兵衛、本名は孝高、後に出家して「如水」と名乗るあの御方です。
 でも、何かさえない官兵衛でがっかりしてしまいました。それに、登場の仕方も唐突でした。官兵衛さまの初登場は、できれば長浜城に秀吉を訪ねてくる場面にして欲しかった(「新史太閤記」ではそうなっていました)と思うのは、ちょっと贅沢でしょうか?

 でも、たとえ脇役でも、さえないキャラでも、大好きな官兵衛さまを出してくれたN○Kさんには感謝です。小説「功名が辻」にも脇役でほんのちょっとしか登場しないので、「今回のドラマにも出てこないかも…」と心配だったのですよね。(「利家とまつ」には出てきませんでしたから)今後の官兵衛さまの活躍、楽しみです。


 

平家物語成分解析

2006-05-02 18:15:16 | 歴史雑記帳
 いつもお世話になっている「きらめきの刹那」「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」の管理人さんの手鞠さんが、「平家物語成分解析機」を作って下さいました。「徒然独白 ~手鞠のつぶやき」でも「平家物語成分解析機」が紹介されていますが、この記事の下の方にもリンクを貼っておきますね。

 公私ともに色々なことがあり、しばらくこちらの更新をお休みさせていただいていましたが、私もようやく落ち着きましたので、遅ればせながら「平家物語成分解析機」で色々試してみることにしました。

 では、最初に私のハンドルネームの「えりか」から。

えりかの76%は丹波少将 藤原成経で出来ています
えりかの12%は佐藤三郎嗣信で出来ています
えりかの7%は建春門院 平滋子で出来ています
えりかの3%は二位尼 平時子で出来ています
えりかの2%は池大納言 平頼盛で出来ています

 鹿ヶ谷事件に加担して鬼界ヶ島に流され、やがて許されて官界に復帰した藤原成経が76%とは面白いです。そして建春門院、私はかなり好きな人物なので嬉しいです。


 では、次に本名でやってみました。

66%ー黄金
21%ー阿波内侍
8%ー平大納言時忠
3%ー池大納言 平頼盛
2%ー薩摩守 平忠度

 えーっ!私の3分の2は黄金なの!?という感じです。薩摩守平忠度が都落ちしようとして途中で引き返し、藤原俊成に歌を託す話は大好きなので、たとえ2%でも嬉しいです。


 では、ブログタイトル「平安夢柔話」では?

平安夢柔話の78%は仏御前で出来ています
平安夢柔話の8%は近衛基通で出来ています
平安夢柔話の8%は小松大臣 平重盛で出来ています
平安夢柔話の5%は二位尼 平時子で出来ています
平安夢柔話の1%は門脇中納言 平教盛で出来ています

 仏御前、藤原基通など、全くノーマークの人物が出てきてびっくりです。そして、能登殿のお父様平教盛が出てきました!!たとえ1%でも嬉しかったり…。


 次に、我が家の愛猫の名前でやってみました。

エリカの67%は八条院で出来ています
エリカの23%は北条政子で出来ています
エリカの7%は二位尼 平時子で出来ています
エリカの2%は門脇中納言 平教盛で出来ています
エリカの1%は池大納言 平頼盛で出来ています

 八条院、北条政子、、二位尼時子と、個性的な女性がそろっています。そして、ここでも教盛さんが…。
 それにしても、私は時子さんと頼盛さんに縁があるようですね。


 こちらの旧タイトル「えりかの平安な日々」も試してみました。

えりかの平安な日々の90%は唐綾威の鎧で出来ています
えりかの平安な日々の6%は新中納言 平知盛で出来ています
えりかの平安な日々の4%は二位尼 平時子で出来ています

 こちらでも時子さんが出てきました。そして大好きな知盛さんにやっと巡り会うことができました!!嬉しいです~。

 このように「平家物語成分解析」も楽しむことができました。手鞠さん、ありがとうございました。

 こちらを御覧の皆様、特に「平家物語」がお好きな方、ぜひいかがでしょうか。
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関連リンク
徒然独白 ~手鞠のつぶやき平家物語成分解析機