江戸糸あやつり人形

江戸時代から伝わる日本独自の糸あやつり人形。その魅力を広めるためブログを通して活動などを報告します。

曲り角の日本語

2011-09-10 20:09:32 | 日本の文化について
岩波新書「曲り角の日本語」を読んだ。
著者の水谷静夫は、岩波国語辞典の編者。

日本語の危機と言われていたときがあった。
その時井上ひさしさんは、「大和言葉さえ崩れなければ大丈夫ですよ」といった。
いつの間にか危機とは言われなくなって、随分経ってしまったような気がする。

著者は、危機ではなく曲り角なのだという。
日本語は変わる。
都が奈良にあった70年間に、日本語が大きく変わってしまった。
だから平安朝の初めには「万葉集」が読めなくなって、注釈書を編む試みが起こった
そうだ。
なぜ変わったのか、それはまだ充分な解明がされていないという。

東京に遷都されてから100年以上が経った。
終戦を迎えてからも66年。
日本語が変わってきてもおかしくない時期かもしれない。
しかし文科省の興味は自国の言葉には向かず、英語にしか向いていない。
実はこのことが危機ではないかと、この本を読んで思った。

「ら抜き」言葉が問題になった。
著者はこの現象を、ある意味合理的と見ている。
逆に、「ら」は意識して抜くわけでなく無自覚で抜いているわけだから
「ら抜け」でなければならないと指摘、「ら抜き」と命名した国語審議会を
「ま抜け」と言い切る。
国語審議会が指定した日本語の文法は誤りが多い上、敬語など場当たり的な対処の
仕方しかしないから、相当の混乱が生じている。
敬語が乱れるのは、人間関係の変化もあるが、この混乱も大きく作用しているだろう。
そして曲り角、今日本語をどういう方向に持っていくか考える時期だと
著者は結んでいる。

日本で生まれ、日本語を母国語にして育った人間は、思考を日本語で行なう。
その日本語が好い加減ならば、まともな思考はできまい。
実は今日辞任した大臣を持ち出すまでもなく、ここ10年以上も毎年のように
失言大臣が何人か出てくるのは、日本語を疎かにしてきた教育のせいではないかと
私は思っている。
しっかり思考できる人が少なくなっている・・・のではないか。
文科省に対して危機だと先ほど書いたのは、このことによる。

演劇もそうだ。
言葉の捉え方が浅すぎて、表現が稚拙なのが多い。
だからどんどんつまらなくなり、全体的に観客が減ってきているのではないか
自省している。
しかし

パソコンから発達した絵文字。
私は使わない。
余りにも表現が表面的と思うからだが、
これだけ誰でも使っている所を見ると、
いずれ言葉が絵文字的になっていくのかもしれない。
その時俳句や短歌はどうなるのだろう。
いや、既に絵文字を使った俳句は出ているかもしれない。
そんな時代になっていくと、演劇の存在価値はなくなる、かもしれない。
コメント
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