マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

大泉高校同期会に出席

2015年05月20日 | 学び舎

 5月17日(日)、大泉高校定時制を1968(昭和43)年3月に卒業した生徒たちの同期会が、中村橋「味三昧」で行われ、参加してきた。毎年5月の第三日曜日に行われるこの会へ、私は3年振りの出席だった。参加者は、元教員が3名、元生徒が7名(男子2名、女子5名)の計10名。
 大学を卒業したばかりの25歳だった私は、彼らが4年生の時の学年の、副担任として教員生活をスタートさせたから、年齢差は僅かに6歳。元生徒さんの最年少は67歳、という高齢者社会を象徴するような同期会だ。

 今回は、一人一人の“近況報告”は無かった。飲み放題のご酒を銘々愛飲しながらの、3時間に及ぶ雑談。話題の中心は、過去の曖昧な思い出話と、現在進行形の“健康と病”。これは学年会・同期会などの共通事象。長年幹事だったO君が、この会場予約直後に脳梗塞で倒れ入院し、現在はリハビリの日々とのこと。O君の人柄と脳梗塞と不親切な病院に話題は集中した。
 私は、そのO君を含む数名と尾瀬三条の滝付近で偶然会ったことがあった。その日の山小屋が一緒だったとは全く記憶になかった。同宿となり、一献傾けたらしい。S女曰く「そのとき、先生は私に向かって、“あの真面目なSが、酒を飲むようになったのか”と言ったんですよ」。そんなことを今さら言われても困る。しかし、私の授業が分かり辛いと愚痴っていたSさんと、40数年の時を超えてお喋りのときを共有する面白さ。ビールのみをかなり痛飲するSさんに成長していたが・・・。

 新米教員の私を何度もコケにしてくれたのがK君。今から丁度48年前に、引率した修学旅行先で、仲間数人と飲酒し、風呂場で大声で歌っているところを見つけて説教をしたら、「数発殴って気合を入れて下さい」と来た。私には死ぬまで忘れえぬ強烈な出来事だったが、そのK君は十数年前に亡くなったとの話を聞いて、私は一瞬シュンとしてしまった。

 会終了後、池袋で本を購入予定の、79歳のI先生と「服部珈琲館」にご一緒した。多分教員としての大切なことを一番多く教えて頂いた。仕事の仕方や生徒との接し方など、その後姿から学んだ事が多い。山登りや地図の見方も学んだ。決して自己自慢しない、控えめな人柄だが、大切な事は職員会議などできちんと論陣を張る。教員出発時点でそういう先輩を、身近に持てた有難さ。一昨年はご一緒に野川を歩いた。今後は低山に登り、詳しい高山植物のあれこれを教えて頂ければと思う。
 ほゞ半世紀前の記憶が一瞬過った日だった。

今日の一葉:つつじ咲き始めた六義園

 
 


元気な村山元首相

2015年05月19日 | 政策

 昨日、私は元首相村山富市氏の講演を聞いて来た。今日のブログは、新聞社に入社したばかりの、新米記者が書いた記事、という体裁で書き綴っています。

 ≪元首相村山富市氏が、昨日の午後『「村山談話」の継承・発展をこそ!』と題して、「全水道会館」で講演をした。第81代の元首相は91歳の元気な姿で登壇し、60分にわたって淀みなく、時にユームアを交えながら語った。会場は立錐の余地ないほどの超満員。報道陣の多さも目を引いた。
 今何故村山談話か。安倍首相はまもなく「70年談話」を発表する予定で、全体として「村山談話」を継承するとは語っているが、一字一句継承するとは話しておらず、どの様な内容の談話になるか、各方面が注目をしている。危惧を抱いている向きも多い。そこで、1995年に発表された「村山談話」の意味するところを、主人公たる村山氏に語ってもらおうと、総評退職者の会が主催した。
 話は、自民・社会・さきがけ三党の連立政権成立前後から始まり、談話周辺に及んだ。中国や韓国などを訪問した際に「戦争に対するけじめをつけないと、不安や不信が残っていく」と感じ、「内閣として方針を出す必要がある」と考え、そこから「植民地支配と侵略」への「反省とお詫び」が生まれた。「後継の内閣はすべて村山談話を継承すると世界に向かって発信し、約束して来た。その結果としてアジア諸国に安心を与え、談話は定着している」と強調。少なくとも歴史認識の問題で中韓とは良好な関係だったとも述べた。
 安倍首相については「第二次安倍内閣になり、選挙に勝ってからは自信を持ち、本音が出だしている」とも。今夏に予定の70年談話を「前半は村山談話を薄めた内容でまとめ、後半に“積極的平和主義”を強調したいのだろう」と危機感を露わにして、安倍首相を批判した。
 講演後は、会場からの3つの質問にも答えるなど、元気な姿が印象的だった。≫

今日の一葉:六義園の渡月橋


落語観賞会へ

2015年05月17日 | 政策

 高齢者の数が増加の一途をとるに反して、高齢者クラブの会員数の減少に歯止めが掛からない。何故なのか。その原因を、クラブの役員の一角を担う私も含め、役員を務めている人たちは真剣に考えなければならない時を迎えている。
 この現状にしびれを切らしたのか「全国老人クラブ連合会」は、「100万人会員増強運動(1クラブ当たり2名増に該当)」を開始し、全国の下部組織、例えば「東京都老人クラブ連合会」(略して東老連)などにハッパを掛けてきている。トップダウンのこの方針がどの程度の効果を生むものかは不明だが、東老連傘下の「文高連」と密接な関係にある文京区は、全国で初めて、その運動に対し、昨年度から向う5年間にわたって予算を付けたのだった。



 各高齢者クラブが会員増の目的でイベントなどを実施する際に、1クラブに対して、年間15,000円を補助しましょうとのこと。この通知を知った各クラブの会長さんたちは、2・3の例外を除いて有難くは思わなかっただろう。何せ高齢者クラブの会長は忙しい。自分のクラブの仕事もあれば、文高連での役割もある。もうこれ以上の任務は無理だと思っている会長は多い。その上、最低4枚の書類作成も面倒だし、15,000円の補助で何が出来るのかとも受け止めただろう。要するに腰が引けていたのだった。

 昨年度のある時期、超元気な女性会長にお会いした時、「申請しないなんて勿体ない。予算を活用しなくちゃだめよ」と、我がクラブ会長の小林さんと副会長の私は気合を入れられ、会長宅には。そのクラブが申請した書類の写しまで送られてきたのだ。私はその時の書類を見て、数クラブ合同のイベントも可能と知り、これがヒントになった。
 駒込地区6クラブが合同でイベントを開催すれば90000円の補助が付く。落語家を呼ぶことも可能だし、「改正相続税」対策で税理士さんに来てもらっても良いと考えた。最終的には、今年は「古典落語の会」を実施しようと、会長と私は方向を決め、二人三脚でことを進め始めた。区に提出すべき6クラブの申請書は全部私が作成した。今後4年間実施するにしても、パソコンに保存しておいて有効活用すればよいだけだ。

 5月15日(金)に6クラブ会長会が開かれ、私も初めて出席した。小林会長が「特別申請」の概略を語り、私が具体的提案をした。落語家を呼び、日程は10月25日(日)と決めてもらった。落語家は2・3腹案があり、これから電話で出演依頼をする予定。日程は出演者の予定があるので確定ではないが、会場は「本駒込地域活動センター」の地下ホールの予定。4月14日にここを利用した経験が活きてくる。果たしてここが確保出来るか否かが大問題だが。

 このイベントを上手に活用し「高齢者クラブ」の存在を知ってもらおう。個人の生きがいつくりや健康つくりのお役に立てば良し。災害時の相互扶助のためにもクラブへの参加を訴えたい。それが会員数増に繋がれば更に良し。

今日の一葉:栴檀の花(吉祥寺)


特別弔慰金制度

2015年05月15日 | 政策

 「特別弔慰金」という制度がある。例えば夫が、太平洋戦争の際に召集されて戦死した様な場合、その妻には「戦没者遺族年金」が支給されていたが、その妻が死亡した場合に、その子供達に支給されるのが「特別弔慰金」である。
 その制度趣旨に「戦後70周年に当たり、今日の我が国の平和と繁栄の礎となった戦没者等の尊い犠牲に思いをいたし、国として改めて弔慰の意を表するため、戦没者等のご遺族に特別弔慰金(記名国債)を支給するものです」とある。

 そもそも遺族年金が、遺族会などを念頭に置き、時の政権党が選挙対策的狙いをも秘めて設けた制度であることは否定できない。特別慶弔金がその延長線上にあることも十分承知しながら、遺族である、私達(私と妹)は、私を名義人として、当然のこととして、支給金を受け取る準備を開始した。2015(平成27)年改正法案によれば、今後5年毎に国債として毎年5万円の支給とある。今年は母の7回忌、その時に使用する予定。
 先の戦争で亡くなられた方は、何も戦死者だけではない。侵略を受けて死亡されたアジアの方々や、大空襲で亡くなった方々もいる。それらの人々や遺族への補償がなされていない現状も承知してのことでもある。これが魁になればとの思いがある。

 靖国神社に閣僚たちが参拝する際に「お国の為に殉じられ亡くなられた方を、国としてお祀りすることは当然」旨の説明がされることがよくある。ここには言葉のレトリックが隠されている。「お国の為に殉じられた」との表現では、亡くなった方が、先の大戦に進んで参加したことを意味することとなる。その様な方もいただろうが、大多数の死者は実際にそうだったのだろうか。
 召集令状という赤紙一枚で、妻や親や子供との惜別を強制され、異国へと駆り出され、異国の地で無念の死を遂げた者は、最期に何を思っただろうか。例えばその様に死んでいった自分の父の想いは望郷だったろうと私は思っている。どんなにか生まれ故郷へと帰り、家族と再会したかったか。想いを語れない者の気持ちは汲み取るほかはない。多くの戦死者もそうだったろうと私は思い、この60年間の、大げさに言えば、人生指針の一つとして来た積りである。
 個の視点で戦争を考察すれば、人間が一番なしてはいけないことは、刑法に定めるまでもなく殺人である。その一番なしてはならないことを、国が命じる。これは国の犯罪と言っても過言ではない。「お国の為に死んだのではなく、国の為に殺された」のだと私は思う。その様な誤りを為してしまったものの為すべきことはとは、特にアジアへ向けては、深い謝罪と不戦の誓い。先の安倍首相の演説ではそれが全く不十分だった。集団的自衛権の行使容認を柱とする法案が衆院へ提出された今日、特にその思いを強く抱く。


地名考「江戸橋」

2015年05月13日 | 東京散歩

 最近、ブログネタになるような情報をいろいろといただく。直接話をしたり、このブログを読んでいる方で、私が興味を抱きそうな分野を知っている方々からだが、有難いことである。クラスメイト馬場さんからは、『ふらり珍地名の旅』の紹介メールが来て、その後、吉祥寺で開催された”砂曼荼羅”に付いての朝日新聞の記事が郵送されて来た(今日の一葉に紹介)。指圧に通う「SUCROSE」水野さんからは、11日の術後、『東京人5月号』をお読みくださいと、雑誌を手渡して頂いた。
 荒川5中の先生からは『太宰治の辞書』の紹介があり、「かたりと」北原さんからは、滝野川「殿上湯」で、その「太宰」を語る会開催のご案内も来ていた。ブログネタはたまる一方だが指が追い付いていけない。

 『東京人5月号』は、特集“東京35区の境界線を歩く”が組まれていた。現在では東京は23区だが、その中にあった東京35区の境界線を歩くと、江戸東京の歴史と都市の成り立ちが見えてくるとして組まれた特集記事。
 まだ全部を読んではいないが、「江戸から東京23区」へのなかの、荒俣宏著“江戸の朱引”が俄然興味を引き、微かに残っていた記憶を呼び覚まされた。右図は、東京都公文書館所蔵の『旧江戸朱引内図』で、朱色線の内側が御府内(江戸)とされ、黒色線の内側が町奉行管轄の範囲を示している。これは、江戸の範囲を示す地図で、幕府は1818(文政元)年に、主に寺社奉行の管轄するエリアを「朱引」と呼ばれる赤線で囲ったものを公式見解として、初めて発表したのだった。







 この本の内容は又の機会に譲るとして先を急ごう。この地図を眺めているうちに、江戸橋についての疑問が解けそうな気がしてきた。江戸橋といっても日本橋に架かるそれではなく、巣鴨駅付近の山手線の跨線橋で、巣鴨から大塚に向かって巣鴨橋・宮下橋・江戸橋と3本の橋が架かっている。宮下橋は、文京区旧宮下町から北に延びる、宮下通りの延長線上にあるのでその名の由来は簡単にわかる(因みに通り沿いにある宮下湯は豊島区)。巣鴨橋は言うまでもない。(右写真は江戸橋)


  (江戸橋から山手線を見る。向うが巣鴨)
 何故ここが江戸橋かは謎だった。江戸橋の由来を多くの方に聞いたが分からなかった。この橋は、新たに2001(平成13)年3月に竣工したが、それ以前のコンクリートの橋を妻と渡ったときの二人の記憶では、由来の看板があったはずなのだが、今は存在しない。
 『朱引図』を読み解くと、江戸橋は黒線の外側だか、朱線の内側。かろうじて江戸の内側とのことからの「江戸橋」とのネイミングではないかと、これまた愚考している。ネット上では“江戸橋へ”のサイト(下のURL)に、我が意を得たりの記事が載っていて、こちらの方がより詳しい。江戸橋は朱線まで180メートルとの記事もある。http://www.geocities.jp/yamanote_bridge/14ohtsuka/7edo/edo-brg.htm

 昨夜、この辺の事情を調べていたら、妻が秘蔵の『復元江戸情報地図』を引っ張り出してきて、江戸の境界・範囲の地図を示してくれた(右図参照)。灯台下暗し。










今日の一葉:馬場さんから送られてきた記事から。5月7日に吉祥寺で行われたフェティバルの砂曼荼羅