マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

地名考「江戸橋」

2015年05月13日 | 東京散歩

 最近、ブログネタになるような情報をいろいろといただく。直接話をしたり、このブログを読んでいる方で、私が興味を抱きそうな分野を知っている方々からだが、有難いことである。クラスメイト馬場さんからは、『ふらり珍地名の旅』の紹介メールが来て、その後、吉祥寺で開催された”砂曼荼羅”に付いての朝日新聞の記事が郵送されて来た(今日の一葉に紹介)。指圧に通う「SUCROSE」水野さんからは、11日の術後、『東京人5月号』をお読みくださいと、雑誌を手渡して頂いた。
 荒川5中の先生からは『太宰治の辞書』の紹介があり、「かたりと」北原さんからは、滝野川「殿上湯」で、その「太宰」を語る会開催のご案内も来ていた。ブログネタはたまる一方だが指が追い付いていけない。

 『東京人5月号』は、特集“東京35区の境界線を歩く”が組まれていた。現在では東京は23区だが、その中にあった東京35区の境界線を歩くと、江戸東京の歴史と都市の成り立ちが見えてくるとして組まれた特集記事。
 まだ全部を読んではいないが、「江戸から東京23区」へのなかの、荒俣宏著“江戸の朱引”が俄然興味を引き、微かに残っていた記憶を呼び覚まされた。右図は、東京都公文書館所蔵の『旧江戸朱引内図』で、朱色線の内側が御府内(江戸)とされ、黒色線の内側が町奉行管轄の範囲を示している。これは、江戸の範囲を示す地図で、幕府は1818(文政元)年に、主に寺社奉行の管轄するエリアを「朱引」と呼ばれる赤線で囲ったものを公式見解として、初めて発表したのだった。







 この本の内容は又の機会に譲るとして先を急ごう。この地図を眺めているうちに、江戸橋についての疑問が解けそうな気がしてきた。江戸橋といっても日本橋に架かるそれではなく、巣鴨駅付近の山手線の跨線橋で、巣鴨から大塚に向かって巣鴨橋・宮下橋・江戸橋と3本の橋が架かっている。宮下橋は、文京区旧宮下町から北に延びる、宮下通りの延長線上にあるのでその名の由来は簡単にわかる(因みに通り沿いにある宮下湯は豊島区)。巣鴨橋は言うまでもない。(右写真は江戸橋)


  (江戸橋から山手線を見る。向うが巣鴨)
 何故ここが江戸橋かは謎だった。江戸橋の由来を多くの方に聞いたが分からなかった。この橋は、新たに2001(平成13)年3月に竣工したが、それ以前のコンクリートの橋を妻と渡ったときの二人の記憶では、由来の看板があったはずなのだが、今は存在しない。
 『朱引図』を読み解くと、江戸橋は黒線の外側だか、朱線の内側。かろうじて江戸の内側とのことからの「江戸橋」とのネイミングではないかと、これまた愚考している。ネット上では“江戸橋へ”のサイト(下のURL)に、我が意を得たりの記事が載っていて、こちらの方がより詳しい。江戸橋は朱線まで180メートルとの記事もある。http://www.geocities.jp/yamanote_bridge/14ohtsuka/7edo/edo-brg.htm

 昨夜、この辺の事情を調べていたら、妻が秘蔵の『復元江戸情報地図』を引っ張り出してきて、江戸の境界・範囲の地図を示してくれた(右図参照)。灯台下暗し。










今日の一葉:馬場さんから送られてきた記事から。5月7日に吉祥寺で行われたフェティバルの砂曼荼羅


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