マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中央構造線(その2)

2015年05月11日 | 地学・天文

 「中央構造線博物館」のホームページには、“地上700km上空から写した人工衛星画像には、西南日本を縦断する、まっすぐな谷が写っています”と書かれ、写真が添えられている(右図参照)。人工衛星からもその姿が確認できる!とは。これは凄いことだ。
 建物外の掲示板には“中央構造線は断層破砕帯なので、浸食を受けやすく、中央構造線が尾根を横切るところに峠の様な地形=断層鞍部が出来ます”とも書かれていた。思うに構造線が尾根ではなく、谷を奔れば、同じ理由から谷はより幅広く、より深くなり、その陰影を人工衛星から確認出来るのだろうと愚考した



 「博物館」の周りには、中央構造線を境に、両地帯で採取された岩石が並べられ、内部には、大鹿村近辺の”地質概要図”の立体模型が展示されていた。この模型を上から見ると分杭峠までの様子が分かり、スイッチを押すと、片側が“地盤沈下”し、断面が現れた。(写真:立体模型図)









 
 さて、今日は人口衛星ではなく、気球船から鳥瞰する気分で、地上1000キロに及ぶという中央構造線の、九州から信州までを見てみよう。地図は「博物館」から拝借した。
①九州では天草諸島付近から出発し、九州中央部では、阿蘇山の下に隠れ、大分県の国東(くにさき)半島と佐賀関(さがのせき)半島の間を抜けている。

 


 















②豊予海峡を経て四国に上陸し,四国山地の北部を抜け、淡路島をかすめ、紀ノ川河口付近で紀伊半島に上陸し、松坂へと抜けている。(何やら台風通過放送のようだ)











③三河湾から豊川を通り、天竜川と合流する付近から北東に進路を変える。青崩れ峠を抜け、152号線(=秋葉街道)の谷間に沿って北上し、大鹿村に到着。なおも北上して、ファッサマグナと交差する



 

 私が一番興味を抱いていたのは、中央構造線はどこでフォッサマグナ西端の糸魚川ー静岡構造線と交叉するかという点だ。図からは諏訪湖付近と見えるが、確認をしたくて、博物館の学芸員に電話して聞いてみた。明快な説明があり、茅野市諏訪大社前宮付近とのことであった。これより東側ではフォッサマグナの下に潜り込み、露頭は現れない。再び姿を現すのは関東平野からと説明されている。
 私にとって馴染み深い、茅野市や諏訪神社。この前宮付近で両構造線が交叉していることは、感慨深いものがあったが、ここから約10キロの、我が山小屋は大地震に際してはどうなるのだろうとの一抹の不安も抱いた。
 帰路は、その中央構造線の谷間を杖突峠へと抜け、急勾配を一気に下って、上諏訪でレンタカーを返却。7日間で610キロの走行。ガソリン使用量はは47リットルだった。


今日の一葉:吉祥寺栴檀の木。11日写す。


中央構造線(その1)

2015年05月09日 | 地学・天文

 私は、フォッサマグナと中央構造線を混同していた事に、前回遠山郷を訪ねた折に気が付いた。中央構造線についての理解を深め、実際にその露頭部分を見学したくて、大鹿村を再訪したのだった。
 

 小渋川沿いにある「中央構造線博物館」は中央構造線上に建てられていた。残念ながら、説明が分かりやすいと噂の学芸員は留守だった。止む無く、ガイド無しでの見学だった。以下はここで得た知識やネット情報を私なりに整理しまとめたものである。


 まずは中央構造線とフォッサ・マグナの違いについて。
 標語的に書けば、中央構造線が、九州から四国、紀伊半島を経て千葉・群馬にかけて、線状に、東西に連なり、日本列島を縦断しているのに対して、フォッサマグナは日本海から太平洋にかけて、帯状に南北に奔っていて、その帯の西側は、糸魚川ー静岡構造線と呼ばれている。(右図及び下図参照)


    (右上図の拡大図)
 中央構造線の成立が、今から一億年前と推定されるに対して、フォッサマグマは1500万年前ほど前、日本列島が大陸から離れる際の力学的構造変化が原因とされている。要するに中央構造線成立後数千万年してファッサマグナが出来上がったということである。

 さて中央構造線について「三峰川資料館」の資料によれば
 『中央構造線は日本列島ができる時代に形成された断層です。
 日本列島周辺では、太平洋のプレ-トが、太平洋側の海溝でユーラシアプレートの下に沈み込んでいます。太平洋のプレートがユ-ラシアプレ-トの下に潜り込むときに、太平洋の方からずれてきた岩石を「そぎ削る」ようにおいていったものを「付加体」と呼びます。この付加体がアジア大陸の縁に沿って大きく横ずれしたものが中央構造線です。』とある。
 要するに、日本列島が大陸と陸続きであった時代に、ユーラシアプレートに太平洋プレートが付着したとういことで、当然成分が違うはずであるが、その違いは色の差にはっきりと表れ、その露出の幾つかをこの大鹿村や長谷村で見ることが出来るのだ。

 私たちは5月7日(木)に、長谷村にある“溝口(みぞくち)露頭”を見学に行った。ダム湖へ降るとそれが良く見えるはずだが、岩崩が起きていて現在工事中で、間近での見学は叶わなかった。少し離れた位置から見学し撮影したのだが、遠目にもその成分の色の違いが分かった。右写真に見る様に、左の茶色側が“西南日本内帯”と呼ばれ、伊那山脈はこちら側。右の緑色側が“西南日本外側”と呼ばれ、南アルプスはこちら側。ここを見学出来て、今回の目的はほぼ達成した。



大鹿村へ

2015年05月08日 | 

 蓼科からの帰り、大鹿村に寄り、長谷村にある「ゼロ磁場の宿 入野谷」に一泊した。

 妻は、大鹿村で販売されている山塩を購入したいと思っていた。私はここにある「中央構造線博物館」を是非とも見学したかった。二人の目的地が一致しての大鹿村訪問だった。
 5月6日、蓼科の別荘を出発し、国道152号線沿いに南下し、杖突峠・高遠・長谷村を過ぎ、分杭峠を抜けるとそこが大鹿村だった。途中での見学や昼食の時間を除けば、約2時間強の実所要時間だ。
 山塩は「道の駅 塩の里」で販売していたが、GWの最終日の6日、殆ど売れてしまい2個しか残っていなかった。“お1人様1個限り”と書かれていたので、「私たちは2人だから2個ね」と販売のおばさんに言うと「お勘定は一緒で良いの」と笑われた。今何故山塩に人気が集まるのか?珍しいからが、取りあえずの私達の結論。

 大鹿村は、天領だった、大河原村と鹿塩村が合併して出来た村で、「塩の里」はかっての鹿塩村の地にあるからか、店内には、その鹿塩の歴史と、塩を生み出す塩水の謎が書かれていた。はるか昔、鹿の飲んでいた水が塩水だったから、鹿塩村と名付けられたそうな。あっけらかんとした、しかし納得しやすい説明文だった。(塩水をより濃くする様子も展示されていた)
 その塩水が何処から湧き出すのかは未だ謎とも書かれている。3枚にわたる説明を見ても良く分からなかった。兎も角、岩塩ではないことは確からしい。

 20数年前、向丘高校の若手同僚2名と私、北岳から塩見岳へと縦走した折の下山先が鹿塩温泉「山塩館」だった。日本秘湯を守る会々員で、「大鹿村 騒動記」にも登場し、岸部一徳が何故か風呂に飛び込んでいた(ような気がする)。この販売所の100mくらい山側に上ったところにあったはず。帰路この道を歩いたときには、「塩の里」は無かったように思うと語ったら、件のおばさん「この建物が出来たのは14年前よ」と信州弁で語った。
 山塩入りのホワイトチョコレートとアイスクリームを購入し、アイスクリームをその場で味わうと、一味違った美味しさ。一口舐めた最後に塩の味がして、ウマミが舌に残った。山塩の人気は珍しさだけではないと軌道修正。

今日の一葉:ブラシノキ。富士前公園で撮影


スマホを使って4ヶ月

2015年05月06日 | IT

 ものは使い込めば使い込むほど味が出てきて、使い易くなるとか。
 昨年暮れに購入したスマホはその域にはほど遠いが、その効能を実感できる場面に最近幾つか遭遇した。

Ⅰ懐中電灯。・・蓼科の山小屋に到着した5月1日夜、「かっぱの湯」に出掛けようとしたとき、懐中電灯を家に持ち帰っていたことに思い至り、さて困ったなとなった。妻がスマホに懐中電灯機能があることを思い出し、帰宅時にはこの光で階段を危なげなく降りられた。かなり明るかった。

Ⅱカメラ機能・・・背面800万画素、前面200万画素の二つのカメラ。撮影した後の処理の仕方がよくわからず撮り貯めになっていた画像を何とかパソコンにコピー出来た。充電用コネクターを利用すれば簡単だった。カメラは2台有しているが、そのうちの一台は壊れかかっていたので、買い替えなければならないと思っていたが、スマホで十分間に合いそうだ。
 
Ⅲ”都バス”や”駅から時刻表”などのソフトを外出先で便利に使用している。
Ⅳパソコンへのメールなどを外出先で簡単に読んでいる。
Ⅴアイコンを登場させてあるので、朝、簡単にその日の天気状況や月齢を見ている。
Ⅵここ蓼科では「FMラジオ」は信越放送のみが聞こえてくる。
Ⅶ「歩数計」は備わっているが、時計附属の歩数計で間に合っているので使用はしていない。

Ⅷブログは日記の代替になる面があり、例えば、4日前のブログに登場させた四谷へ、いつ行ったのかは、過去のブログで調べれば分かるはずだが、書いてきた量が多く、いつであったか調べるのがなかなか大変。私は「goo」でブログ作成ているが、パソコン側には検索機能が無い(見いだせないだけかも知れない)が、スマホには検索機能が備わっていて、“四谷”で検索し、前回の四谷訪問の日時が2012/3/26と特定出来た。

Ⅸ声による検索・・・これが一番役に立っている。妹夫婦と私達4人で行った新潟旅行。車での移動中、次の目的地が、例えば福島潟の場合、福島潟の電話番号が分からず困ったときに、妻がスマホに向かって“ふくしまがた”と音声入力する。そこのセンターの電話番号の乗ったサイトから、電話番号を知り、妹がその番号をカーナビに入力する。義弟がそれに沿って運転する。新潟旅行では私のやることは皆無に近かった。(カーナビ情報がスマホ情報より古いとカーナビは迷ってしまう。その様な場合に、私が例えば交番に駆け込んで正確な情報を得て、カーナビの代替をしたが・・・)
 以上の様な事柄は使い慣れた人から見ればスマホの“いろは”だろうが、少しずつ知識枠を広げることも又初心者には楽しい。

今日の一葉:長門牧場から蓼科山を望む


「花の交流」つつじまつりラジオ体操

2015年05月04日 | 町内会

 4月29日(水)朝5時40分、私は、富士前福寿会々長小林さんのお宅前に立っていた。二人は徒歩で本郷通り沿いに根津神社を目指し、25分後に到着。この日、根津神社では「”花の交流”つつじまつりラジオ体操」と銘打って、何時もとは違ってイベント仕立てのラジオ体操を開催していた。祝日なので富士神社でのラジオ体操は無いのを勿怪の幸いと、やや遠出したのだ。

 根津神社では、4月11日~5月6日の長期間「つつじ祭」が開催されていた。本郷台地の崖縁斜面には、つつじが一面に咲き乱れる時期だ。その時期の一日を、花を愛でつつのラジオ体操。何時頃から、誰の発想でこうなったのかは知る由もないが、粋な企画と勇んで参加した。普段は入園料200円のところ、門は開放され受付は無人という、これまた粋な計らい(?)。体操前の10分間、そぞろ歩きした。







 主催は「根津神社ラジオ体操会」。司会は小池たつ子さん。みんなの体操が始まる前の準備体操の指導は、お立ち台上に、指導部長の田口キヨ子さん。みんなの体操・ラジオ体操第一・第二と続いた。見渡すと参加者は推定200人を超えていた。
 ラジオ体操終了後、台東区入谷・世田谷区羽根木公園・文京区の各ラジオ体操会長からの挨拶。今日の日の為に会場を貸してくれた根津神社への御礼のことばも語られた。その根津神社からは宮司の挨拶もあった。



  

 会終了後は、特別に仕立てられた「甘酒茶屋」内での懇親会。ここのラジオ体操会員ではない、私達二人は会場には入れないが、富士神社へ毎日顔を出す会員の方がここでの甘酒作りに参加していて、私達の為に甘酒二杯を用意していてくれた。区議会議員当選の渡辺さん経由で届いた甘酒は温かかった。中へ入らなかった者で、甘酒を頂いたのは私達二人のみ。早朝の、散歩+体操+甘酒は血液の循環を促進させ、気分も勝れてくる。今来た道を引き返し、帰宅は7時15分頃だった。






今日の一葉:5月2日、蓼科山聖光寺には満開の桜があった。