マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

「協働のまちづくり講座」を語り終えて(その2)

2019年12月20日 | 学び舎

 12月14日に行われた講座の副題は「本駒込周辺の魅力と歴史を中心に」で、聞きに来た方の中には本駒込に長年住んでいる方や冨士講の方もおられ、本駒込について詳しい方もおられるはず。そこでそれらの方々が「初めて聞いた話」と思われる事柄をいくつか用意しておいた。ここでもその幾つかをここでも綴る。







 ①現在の六義園「大泉水」の水は江戸時代、柳沢邸から江岸寺や圓通寺の門前を流れ、白山下を通り、春日で小石川に合流していたこと。これには所謂「海老床地図」の一部をお渡しして示した。













 ②柳沢邸の一部は大正時代に理研が設立されたが、それ以前には巣鴨病院が開院されていた。そのことは小石川高校資料室にあつた「小石川検定95」にも登場していると説明した。












 ③「道坂」がそう呼ばれる所以は江戸時代その場所に赤目不動が祀られたことに端を発するが、明治26年、そこから「太古の遺跡」が発見され、その記念碑は南谷寺と徳源院に存在すること。
 ④水上勉の『私版 東京図絵』には「私の父が建てた目赤不動は道坂途中にあった」と記されている。彼のお父さんは宮大工で、1940年に、彼は蓬莱町の飯場で働いていた父を頼りに上京し、赤目不動跡を案内してもらっていた。1994年に再訪した際にはそこには何も無く、ご近所の方に聞いて徳源院を詣で石碑「太古の遺跡」に再会した。












 
⑤縄文海進により文京区の一部も入江となり現在の不忍通の辺りは海だった。本郷台地東端崖線には幾つかの貝塚が形成され、その一つ「駒込神明町貝塚」は「文京ふるさと歴史館」の文化財一覧に登録されていること。











 ⑥富士神社鳥居の左横に「富士   」との碑がある。この削り取られた部分は“大権現”と書かれていたはず。安政時代の地図には「富士浅間神社」と「真光寺」が併記されている。ここでも廃仏毀釈は行われ、その石碑はその名残と推測できること。
 などなどを語った。


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