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主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

塚口サンサン劇場「哭悲-SADNESS-」見てきました!

2022-08-27 23:42:08 | 映画感想
 はい、今日も行ってきましたサンサン劇場。
 今日見てきたのはこれ。
 
 
 ヤケクソ気味に血しぶきブシャーなトレーラーで一気に興味を持った作品。
 謎の感染症に襲われる台湾を舞台にした本作、余裕のR18ということでもう大江戸ファイトとモータルコンバットを足して足しっぱなしなくらい冒頭10分からもうぴゅーぴゅーぴゅーぴゅー噴水みたいに血がどっぱどぱでとても景気が良い。
 しかし、本作はいわゆるスプラッターやスラッシャームービーとは異なります。
 そも映画というものは、「誇張された現実」という側面を持っています。しかるに本作は「謎の感染症に長期間対応してきた台湾」「風邪のような軽い症状なので警戒が薄れている」「しかしウイルスが突然変異して大パニックに」といったように、言うまでもなく現実のコロナウイルスの蔓延するこの現実の世界の、現在の状況をモデルにしています。
 映画は当然創作で、架空の物語です。しかしながら、映画は前述の通り誇張された現実、つまりその根底、源泉の部分はやはり現実。しかも本作はまさに今、今我々が生きているこの世界の状況をモデルに……というか、ほとんど現実の世界と鏡写しになっている作品となってます。
 ところで、映画の持つたくさんの側面の中のひとつには、「安全に危険や恐怖を体験できる」というものがあります。エイリアンに襲われたり殺人鬼に追われたり大災害にあったりといった現実では出来ない、あるいはしたくない体験を観客席という安全が確保された場で疑似体験できるというのが映画の大きな魅力のひとつであることは言うまでもないでしょう。
 しかし、本作については観客には安全が確保されていません。少なくとも半分は。なぜなら、現実世界で「新型ウイルスが蔓延していて」「数々のデマが飛び交い」「クラスター感染が発生し」「各地でロックダウンや緊急事態宣言が発令され」ているから。
 現実世界のコロナ禍をモデルにしているから当たり前といえば当たり前なんですが、本作の劇中で起こる数々の悲劇は、「スクリーンの向こうの出来事」として安穏として他人事みたいに見ていられないものだと感じました。現実世界でも、一歩どころか半歩間違えばこういうことが起こってもおかしくはない、という厭な現実感がある作品でした。
 また、本作のフォーマットはいわゆるゾンビパンデミックものに分類されるものではあるものの、既存のゾンビパンデミックものとは決定的に異なる点があります。
 それは、本作における感染者は、ゾンビのような動く死体でもなければ怪物化した人間でもないという点。
 本作における感染源である「アルヴィンウイルス」は、突然変異したことによって人間の脳の辺縁系に影響を与え、攻撃衝動や食欲、性欲のリミッターを外してしまうという設定になっています。
 その結果どうなるかというと、「欲望のままに残虐な殺人行為を繰り返す狂人」と化してしまうのです。
 これが本当に、あまりにもおぞましい。
 ゾンビや怪物のように手当たり次第に人を殺したり食ったりするのではなくわざわざ残虐な手段でいたぶって痛めつけて殺すというのが本当に激しい嫌悪感を伴うおぞましさがありました。
 しかも、何百、何千人と大発生するこれらの感染者たちの残虐行為には個性があるんですよね。これまたただ単に残虐な殺戮行為を繰り返すのではなく、感染者たちはあるものは女性警官をレイプし、あるものは集団で教師をリンチし、またあるものはひとりの女性を執拗に追い回す。
 なにがおぞましいって、こうした殺し方や残虐行為の向こうにその人本来が持っている性向が見えるところ。
 本作における感染者は、攻撃衝動で暴走しているにも関わらず言葉をしゃべり、ほかの感染者と連携して犠牲者を痛めつけ、脅しや挑発行動さえ行います。ゾンビや怪物などの「捕食」や「破壊」とは決定的に異なる「娯楽としての殺人」「マイナス方向の人間性」がそこにあるんですよね。そう、人間性が残っているんです、最悪の形で。
 前述した通り、映画は「誇張された現実」です。映画は架空の物語、ならば、こうした残虐性もまた架空のものかと問われて果たしてNOと答えられるのか。誇張されているとは言え、こうした残虐性は間違いなく現実の人間の中にも存在するでしょう。
 映画の持つたくさんの側面のひとつに、「現実では満たされない欲求を満足させてくれる」というものがあります。退屈な現実では決して満たされない「世界を股にかけた冒険」「超越的なパワーを持ったヒーロー」「美男美女とのラブロマンス」などなど、我々観客はスクリーンの向こうの登場人物に自分の欲求を仮託して、感情移入して作品を鑑賞しているわけです。
 本作も同じだと思うんですよね。この日記を書いている自分も含め、人間の中にはどうしようもなく攻撃衝動や残虐性があります。普段は理性でそれを抑えてはいるものの、それを消し去ってしまえるわけではない。しかし、欲求というものは基本的に対象となる行為を行うことでしか満たされない。
 そういう側面では、生理的……というか根源的な嫌悪感を覚えつつも、感染者たちのバラエティ豊かで人間性に溢れた残虐行為の数々は、明らかに自分の中の「そういう欲求」を大いに満たしてくれました。
 また、本作では程度の差こそあれ、結局誰もがこのウイルスによる残虐行為の発露からは逃れられていません。勇壮な演説を行った総統も、ヒロインが必死で助けた重症を負った女性も、唯一ウイルスの秘密を知る博士も、ヒロインもその恋人も、結局誰もが同じようにウイルスによる残虐性の発露からは逃れられていない。本作では、いわゆる「ラストガール」すら成立していないのです。
 これにはある種の美しさすら感じました。ウイルスの突然変異は文字通り突然起こったものであり、人為的なものではありません。そしてウイルスによる残虐行為のパンデミックの前には愛や善意や勇気や愛国心といった人間的感情はまったく無意味。結局物語は何も解決できないまま幕を閉じます。いやー美しい。あまりにも美しい凌辱劇。この誠実なまでの救いの無さよ……。(恍惚)
 もはや本作はベクトルが違うだけで人間讃歌とも言えるのではないでしょうか。実は本作における感染者は、攻撃衝動をコントロールできなくなってはいるものの自我は消失しておらず、己の行いに涙すら流しています。しかし、人間の理性にできるのは、せいぜい言い訳程度の一筋の涙を流すことだけ。誰もが最終的には歓喜の笑みを浮かべながら己の両手を血に染めていく。ウイルスがやったのは鍵を開けただけ。硬く閉ざされていた扉の奥にある残虐行為への衝動は、もとからそこにあったもの。
 本作はゴア描写ばっかりに目を奪われがちですが、そうしたゴア描写や残虐行為は、もとから人間の中に備わっているものだということをえぐり出して晒してみせた傑作だと思います。
 
 
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