A Day in The Life

主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

塚口サンサン劇場「SALAAR/サラール」「トラペジウム」見てきました!

2024-07-24 23:32:40 | 映画感想
 今日も今日とてサンサン劇場。
 夏コミ原稿は大丈夫なのかと思われるでしょうがそんなことは知らん。俺は刹那的に生きるのだ。
 というわけで今日は2本連続で見てきました。
 まず1本目はこの作品!
 
 
 ロードショー公開なので上映期間にはまだ余裕があるんですが、せっかくだから俺はシアター4で鑑賞するぜ!というわけで今日見てきました。
 本作は「バーフバリ」のプラバース氏主演、「K.G.F」のプラシャーント・ニール監督というすごいものにすごいものを足せば超すごいものになるというカツカレー理論で制作された作品。
 主人公デーヴァは、親友であるカンサール国王子ヴァラダのためならどんな危険も顧みず戦いを挑みその敵を容赦なく叩きのめす深い友情と凶暴性の持ち主。そんな二人にも別れのときが来ました。
 部族間の争いで窮地に陥ったデーヴァの母親を救うため、ヴァラダは領地と引き換えにデーヴァと母親を国外に逃がします。その際にデーヴァは「名前を呼べば、必ず駆けつける」という誓いを立てます。
 そして時は流れて25年後。支配者間の王座争いでカンサール国は分裂の危機を迎えていました。かつて領地を手放したことで権力の座から追われていたヴァラダは、かつての親友であるデーヴァを国に招き、自らも王座争いに身を投じる覚悟を決めます。しかしデーヴァにはヴァラダの知らない秘密があり……。
 
 本作で目を引くのはまずその強烈なアクションシーン。千年前から続く部族間・王族間の争いをド派手なアクションシーンで魅せてくれます。
 特にプラバース氏のアクションがすごい。プラバース氏演じるデーヴァは序盤は母親から暴力を禁じられているので戦いません。この「溜め」が実に効いている。
 戦いが解禁されたあとの最初のバトルがすごい。プラバース氏の長い手足から繰り出されるアクションは、「手足を力任せに振り回して無造作に敵をなぎ倒す圧倒的強さ」といった感じで、ただ単に強いと言うだけでなく「嵐の如き暴力」という強さの種類というか方向性を明確に全面に打ち出しているのがわかりました。
 このデーヴァというキャラクターもかなり独特というか特殊な造形をしていると感じました。ヴァラダに深い信頼と友情を寄せており、彼のためならどんな敵も叩きのめすというのは前述のとおりなんですが、その善性と暴力性の二面性が明確に描かれています。
 本作はPG12なのでアクションシーンでも明確に部位損壊や首が飛ぶなどの「殺人」が描かれています。というかアクションシーンでは執拗に「デーヴァは敵を無力化するのにとどまらず明確な殺意でもって殺している」という描写がなされています。一方でデーヴァは冒頭では子どもたちと一緒に遊ぶといったような側面も見せている。この二面性が、デーヴァにかなり得体のしれない、不安定とすら言えるような印象を与えているのです。
 見ていて、デーヴァはともすればヴァラダに危害を加える存在が現れた際に、本来の人格が凶暴性に上書きされているようにすら見えました。あるいはデーヴァのヴァラダに対する友情の示し方がこの凶暴性であるとも言えるのかも。
 そう考えると、本作におけるデーヴァとヴァラダの関係性は「狂気と暴力のdosti」と言えるのではないでしょうか。
 また、このデーヴァの特異性が非常に明確に現れたのが終盤でのカンサールの領主のひとりが村から女性を略奪しようとするシーンでのバトル。
 あのシーンは単なるバトルシーンというよりも、デーヴァにある種の神性がインストールされた場面だったように思います。あのシーンのデーヴァはもはやデーヴァ本人というよりも暴力性に満ちた神の化身(アヴァターラ)と言えるでしょう。領主も最終的には「殺された」というよりも「生贄に捧げられた」と言うのがふさわしい状態でしたし。
 本作は冒頭からキャラクターが多く、またインド映画によくあることですが時間軸が前後することもあったのでキャラクターの関係性やストーリーの流れがちょっと頭の中でもつれてしまったところもありましたが、実際のところデーヴァとヴァラダの関係性にフォーカスすれば話はシンプルなんですよね。って本作で完結してないんかーい。
 
 次に見たのはこれ!
 
 
 こちらは今週で上映終了なのでどうしようか迷ってましたが時間が合ったので見てみることに。
 公開当時はちょっとだけ関心はあったものの見てなかったんですが、twitter(頑なにXとは呼ばない)からこれは見といたほうが良いのでは?という気配が漂ってきたので見てみることに。
 主人公・東ゆうは日々アイドルを目指して努力している15歳の高校1年生。そんな彼女の目下の目的は、自身を含めた東西南北の美少女を集めてアイドルデビューすること。大河くるみ、華鳥蘭子、亀井美嘉の3人を見出したゆうはアイドルへの道を駆け上がる!
 
 ……とこう書くと、本作はオーソドックスなアイドルものに思えます。しかし本作はいわゆるアイドルもののアニメとしては非常に特殊、言ってしまえば歪な作品でした。
 まず思い返すと改めてアイドルものとしては驚くべきポイントなんですが、本作では観客やファンの姿がほとんど描写されません。クラスメイトやSNSのフォロワーたちなど、ゆうたちのステージや芸能活動を見ている人は確実に存在するんですが、ステージで歓声を上げたりサイリウムを振ったりしている、本来アイドルとは不可分なはずの観客やファンの姿は描かれていないんですね。彼女らに協力している写真好きの少年、工藤真司もあくまで協力者であって「ファン」という描かれ方はされていない。
 さらに、アイドルものには必須と言えるライブシーンでさえも、それを撮影しているスタッフやカメラの姿は描写されているのに、そのステージに集まっているはずのファンや観客の姿は徹底して描写されていない。
 それはなぜか?と考えると、その理由は主人公である東ゆうの歪さに起因していると考えられます。彼女の世界観は「アイドルになること」に支配されており、その視線や行動のベクトルは非常に内向き。有り体な言葉で言ってしまえば「自分しか見えていない」人物であり、この異様とも言える「観客やファンの描写のなさ」はそのまま彼女の世界の見方となっていると感じました。
 この東ゆうというキャラクターの造形がまた独特というか歪。一言で言うと彼女は、「自分一人では狂いきれず、周囲を巻き込んで狂おうとする狂人」です。
 彼女の目的が「アイドルグループを作ること」であるなら、普通はほかにもアイドルを目指している子たちといっしょにアイドルを目指そう!という流れになるはず。
 しかし、ゆう以外のメンバーは実は誰も「アイドルになること」を目的としていない。
 序盤のメンバー集めのシーンは順調にいっているように見えます。実際ゆうにとっては順調な展開だったでしょう。しかし、ゆう以外のメンバーは前述の通り別にアイドルを目指しているわけではないし、「みんなでアイドルやろう!」というのはゆうの一方的な情熱でしかないんですよね。言ってしまえばゆうにとって他のメンバーはアイドルデビューするための道連れにしかすぎず、目的を同じくする仲間ではない。そのため、ゆうとそれ以外のメンバーとは、序盤ですでにすれ違っています。そのすれ違いはストーリーが進むごとに少しずつ大きくなり、アイドルグループ「東西南北(仮)」として活動し始めてから大きな軋轢となって顕在化します。
 中盤くらいまでは彼女らは順調にアイドルとして成長していってますし、ゆう以外のメンバーもアイドル活動を楽しんでいます。しかし、その姿にはこの序盤ですでに提示されている違和感とズレがはっきりしないままつきまとっている。いわばいつ爆発するかわからない時限爆弾を抱えている状態なんです。だからこそ見てる方はいつかはわからないけれど確実に訪れる爆発の瞬間に怯えながら彼女たちの溌剌とした笑顔を見ることになる。
 そして来るべき時が来て、起こるべきことが起こり、彼女ら「東西南北(仮)」は結局崩壊してしまいます。しかし物語はそこで終わらない。終わってはくれない。
 これ、先日見た「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」でも感じたことなんですが、世界や日常、そして人生は個人が迎える大きな崩壊で都合よくエンディングを迎えてはくれないということを本作からも感じました。
 挫折して分断されて崩壊したその後でも、人生は容赦なく続いていく。まあやろうと思えば終わらせることはできますが。
 具体的な時間を計測していたわけではありませんし体感ですが、本作はゆうたちがアイドルとして活動しているパートよりも、崩壊後のパートに長く尺を取っていたように思います。むしろ本作の核となるのはこちらのパートだったと思う。
 ゆうの独善的で傲慢で狂気に巻き込まれたほかの3人は、ひとり、またひとりとゆうのもとを去っていきます。こういう展開なら普通は、「過度にストイックにアイドル活動に打ち込んでいく主人公に他のメンバーがついていけなくなった」というような構図になりそうです。しかし本作では、むしろゆうは現実や周りが見えていない、幼稚とさえ形容できる傲慢さに気づいておらず、他の3人はすでに「楽しいアイドル活動」という夢からとっくに醒めてしまったという構図になっていると感じました。この致命的な崩壊を迎えて、初めてゆうは自分のやってきたことを顧みることになるわけです。
 アイドルグループという関係性が崩壊して初めて、ゆうは「アイドルになる」というフィルターを通さずに世界を見ることを覚えたんじゃないでしょうか。言い方を変えれば、ここでゆうはようやく「アイドルという狂夢」から開放されたと言えるでしょう。
 そしてラスト近くで、ゆうは改めてアイドルグループとしてではなくひとりの人間としてほかの3人と、そして自分自身と向き合う。――そして彼女は、そうした上で改めて、今度はしっかりと自分ひとりで狂うことを選択する。
 アイドルを目指すための努力、アイドルとしての華々しい活動、アイドルという道での挫折といった要素は従来のアイドルものでも描かれてきたことでしょう。しかし、本作は「アイドルとして崩壊したあとの物語」であるという点で非常に特殊で歪な物語であると言えます。
 本作は、東ゆうという一人の少女が、自身の狂気に始末をつける話だったとも言えるでしょう。
 タイトルとなっている「トラペジウム」とは、「オリオン星雲の中心部にある四つの重星(接近して見える恒星)のこと。 その位置関係から「不等辺四角形」(どちらの二つの辺も平行でない四角形)」という意味だそう。
 エンディングでそれぞれの道を選んだ4人のつかの間の再会は、星を描く等辺四角形ではなくなってしまったけれど、歪な形でしかないけれど、でも確実につながっている4人をまさに現したタイトルだと思います。
 優れた作品というのはしばしば見たものの肉体に変調をもたらすものですが、本作を見て下っ腹のあたりがずーっと締め付けられるように痛くなっていました。この作品、何かをせずにはいられない、何かを目指さずにはいられないという一種の狂気を抱えている人には刺さって抜けない棘になり得る作品だと思います。今回見て本当に良かった……と腹の底から思えました。
コメント
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