崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「海域の植民地」

2016年03月27日 04時17分34秒 | 日記
 法政大学市ヶ谷キャンパスの前、線路沿いの桜が2分ほど咲いていたがやはり「春来不似春」寒い中花見を楽しむ(苦しむ)群れがいた。日本映像民俗学の会は大型教室で10時、北村皆雄 映像民俗学の会代表の開会のあいさつ が時間通りに進行。100余人の参加者がいた。亘純吉氏の研究大会テーマの趣旨では映像を以て戦前の日本の境界「海域の植民地」への問題提議をした。後田多敦氏は『Japan-日本-(タイトル不詳)』(制作年・制作会社不詳)10minと『海の民-沖縄島物語』1940、30minの映像を以て映像は事実であっても製作意図が沖縄を日本帝国である宣伝、植民地から全部解放されても沖縄は今なお解放されていないことを指摘した。私は歴史学者がこの映像自体をどう評価するかと質問した。映像を離れた映像研究のその範囲と方法論を問った。
紀旭峰氏の『南進台湾〜国策記録映画』1939、64minと『国民道場』が上映された。初めて見たものではあるが、私が台湾で見せた映像と大部重なっていた。植民地研究に貴重な資料であることは間違いない。
 会員作の上映は「光と風と!幻の漂海民ーフィリピン・スールー海」(北村皆雄)、「不漁時ハラン(供物奉納儀礼)」(牛島巌)「アラヨの歌」(アンドル・リモンド)、「極北への旅1917-18」(岡田一男)があった。ドキュメンタリーとして貴重な映像であった。特に「極北への旅1917-18」は今日の私の発表の映像である「北進日本」に合わせて用意してくれたので参考になる。長い上映と鑑賞、討論が終わって懇親会は市ヶ谷の地下の居酒屋、日本人の騒音文化の中に乾杯音頭を指名されてが遠慮した。耳が遠く、耳元に手をラッパのようにして傾聴、不便さなし、周りの人だけに通姓名、韓国式の自己紹介、話題は住宅文化、軍慰安婦などの話、盛り上がった時退席、昨日に続き今日の会が楽しみである。


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3 コメント

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海域の植民地 (shion(紫音))
2016-03-27 15:24:15
残念です!「視聴、拝聴いたしたかったですね、
海域の植民地、その映像と記録」_を。

神奈川県沖縄協会理事からお知らせ戴いたのが
昨日のこと、、、
同日、早稲田大学小野記念館における
“沖縄芸能ワークショップと舞踏上演”鑑賞を
昨年暮れから約束しておりましたので、、、
本当に残念至極でした。


_________日本の地理的な
>南である【沖縄、台湾、南洋諸島】
そして
>北の【樺太、千島列島】
という
>【海への広がり】を映画はどのように描いた
のか、


_____【日本の海域】とみなす地域の“民族文化”と
_____【民族経済的資源】、

↑この【視点】は【最重要(且つ遅過ぎる気味)最適論議】
であると存じました。

参照
国策!精霊の守り人。

海域の植民地(1853年小笠原の二の舞) (shion(紫音))
2016-03-27 16:21:38
【日本の海域】とみなす地域の“民族文化”と
【民族経済的資源】の視点の重要性について。
____________________
前述2016-03-27 15:24:15からつづきます。

____________________

石油発掘1859年の前、
▶【捕鯨が国家的事業であったアメリカ】
____________________

大西洋の鯨を捕り尽くしてした米国乱獲団は、
漁場を太平洋に拡大。


▶【1853–4年】ニ度にわたり米海軍提督ペリーは
▶【琉球泊ダイゼ投錨】し、
▶【小笠原(ボニン)諸島の領有宣言】。


*フィルモアへ送った書簡=【ペリーの構想】は
*前哨:日本の【前線基地が琉球】、
日本砲撃の際、小笠原まで退き日本へストップかけた
*【日本侵攻の基地が小笠原】といぅもの。


【1853–4年】ニ度にわたり
【琉球泊ダイゼ投錨】の米海軍提督ペリーは
▶【琉球から北海道北端(現旧ソ領地)】まで
▶【海底地質調査】を綿密に実施し

▶【日本と世界を比較した植物分布】まで綿密に実施し

両者ともに書籍を世界へ向けて発行し、当時から、
▶中国海域と日本調査の【日本遠征記】は
▶あらゆるバージョンで欧米ベストセラーなみとなっていました。


日本では【1997年、アメリカ政府重要文書扱ぃ】と
なっていかにも【仰々しく機密文書公開の体。】

_________________が、実際には

▶【1858年】「日米修好通商条約締結」の折、
▶【幕府の使節一行に『日本遠征記』手渡されていました。】

1958年ここで、【日本にあった日本遠征記】が和訳され、
各専門機関や各専門家に配布されていなければならなかったのです。
ここで、各視点で以て検討されていなければならなかったのです。

小笠原諸島がアメリカの領土になっていたことに慌てた
日本“政府”は【隠し】て、
ひたすら【アメリカへ劣等観を捧げた】のです。


▶【なんぴとも生命の前に対等である】人間の条件を、
▶【何でも神格化する日本】は為政者であっても知らないのでしょぅ。



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です。
海域の植民地(1853年小笠原の二の舞) (shion(紫音))
2016-03-27 16:26:50
×1958年ここで、【日本にあった日本遠征記】が和訳され、
↑中の1958年を1858年修正して、下へ訂正文といたします。

◯1858年ここで、【日本にあった日本遠征記】が和訳され、

以上、お願いいたします。

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