かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

もう卑弥呼と邪馬台国は奈良で決まり!と言わぬばかりな大量出土です。

2010-01-08 22:09:32 | Weblog
 また奈良の地で大きな発見がありました。隣の桜井市にある桜井茶臼山古墳という前方後円墳から、大量の鏡片が出た、というニュースです。その数331片。それらを分類して元の鏡の枚数を割り出した結果が81面になったとのことで、これはこれまで最高の枚数が出土した福岡県の平原1号墳の40面の2倍に達する群を抜く多さになっています。また、従来から卑弥呼が魏から貰った? とされる三角縁神獣鏡を含め13種類もの鏡があり、その多彩さも全国に類の無いものだそうです。そのすべてが粉々に砕かれているところから、砕いた鏡を集めたのではないか、という専門家もおられるようですが、橿原考古学研究所によると破片の一部に絹の布が接触していた痕跡が見つかったそうで、埋葬当時は一面一面丁寧に絹でおおわれていたと推測されています。粉々になったのは度重ある盗掘の際に盗賊に踏みつけられたためではないか、という話もあり、埋葬当初は100枚を超えていたに違いない、と推測する研究者もいます。
 この古墳は墳丘長207mという巨大古墳で、2007年に天理大学がレーダー探査で地中に排水口が設けられていることが発見され、高度な土木技術が施された大王級の古墳である事がわかっておりましたが、今回の発見で、一段とその重要性がましたと言えるのでしょう。
 つい先日は天理市の東大寺山古墳で50年近く昔出土した太刀に純金で象眼されていたことがわかり、後漢の年号中平の文字が読み取れることから、卑弥呼が活躍した倭国大乱の時期に相当する、ということで、これもまた卑弥呼と結びつけて語られているようです。
 まあ私はあまり卑弥呼そのものには興味が無いのでそれはそれとして、少なくともこの大和の地に当時の大陸国家と交渉を持っていた国家組織があったのは確実のようで、それが後の大和朝廷、そして現代へと連綿とつながる我が国の曙光であったのは間違いないのでしょう。それならどうして古事記や日本書紀にその頃の伝承なりなんなりが痕跡も感じられないのか。私はそのことが不思議でならないのですが、いずれ研究が進めばそのあたりも明らかになってくる日が来るのでしょうか?

コメント
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