かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

序章

2008-04-06 13:16:31 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 蒸し暑い部屋であった。
 多分、8月の気候に加えて台風の接近が余計に湿気をもたらし、この不快を一段と高めているのであろう。それに、無造作に天井を這う電線から所々につられた裸電球の光が、急ごしらえでまだ内装が間に合わず、むき出しになった土を熱く照らし出している。本来、人は狭苦しい場所に逼塞し、太陽もなしに正気を保っていられるほど強い生き物ではない。だが、「本土決戦」という狂気に囚われ、絶対不可能な逆転を夢見る男達には、閉所恐怖症などに構っている余裕はなかった。その中でも一番奥まった穴の底に集う数名は、まさしくこの穴に充満する狂気の渦の中心であり、煮えたぎる地獄の釜に浮沈する餓鬼達であった。
「それで間に合うのか? 道賢殿!」
 帝国陸軍の将校服をぴしりと着こなしたにきび面が身を乗り出した。襟元の徽章が、男が帝国陸軍大尉であることを告げている。その隣の男も、同じ階級章を襟に付けて、充血する眼で相手を睨んだ。
「そうだ。もはや決号作戦の発令は時間の問題だ。それまでに道賢殿の研究が間に合わねば!」
「九州の全島要塞化も遅々として進まぬ今、道賢殿の『円光』だけが我らの希望なのだ!」
「一億総特攻の先陣を切り、我らを最後の勝利に導く。道賢殿はそう約束したな!」
 口々に口角泡を飛ばして迫る青年将校達に、黙然と瞑られていたドングリ眼が、ぎょろりと見開かれた。途端にそれまで臆病な犬のように騒々しく吼え立てていた将校達が、うっと息を呑んで静まった。所詮まともな実戦にも出ず、東京の参謀本部で口だけの決戦をヒステリックにわめくしか脳のないインテリ軍人には、目の前の異相の眼力をまともににらみ返す力はない。だが、今にも咬みつかぬばかりに鋭い光を放った目は、すぐにまた閉じられた。
「主ら、心配することはない。『円光』はもう一両日中には目を覚ます。主らがこうしてわしの邪魔をしなければな」
「き、貴様ぁっ! 言わせておけば・・・」
 一人の将校が、肥大した虚栄心にまともに唾を吐きかけられ、顔を真っ赤に染めて腰の軍刀に手をやった。それを、最前列の将校が、一喝して制止した。
「止めろ浦崎大尉! 大先達様に無礼は許さぬ!」
「それより、陛下が御心を降伏にお固めになられたというのは真か?」
 頭襟、結袈裟、脚絆といったいわゆる山伏装束に身を固めたドングリ眼が、目の前の先任に問いかけた。
「はい、遺憾ながら。海軍には菊水作戦で喪失した戦艦大和を最後にまともに動く艦艇無く、空も日々グラマンやB29に我が物顔の跳梁を余儀なくされ、あまつさえ広島に投下された新型爆弾が街一つを破壊し尽くした。これを以て、陛下の大御心はもはや降伏に固められたと聞き及びます。ですが、我らの戦力が失われたわけではない。我が陸軍は、一億総玉砕の覚悟を以て本土決戦を戦い抜くべく準備を進めています。これをもって、何としても陛下をお諫め申し上げ、御再考を促さねばなりません。そのために我らの同志が実力を持って降伏の詔勅を奪い奉り、必ずその誤りを諌止申し上げる手はずになっております。我が神国日本が破れるなど、金輪際あり得ぬ事です」
「ならば、よい」
 ドングリ眼がまた目をつぶった。その眼の裏に、懐かしく、かつ苦々しい情景が鮮やかによみがえる。
(大和・・・。海軍の愚か者共め! 我が言葉を素直に聞いていれば、『円光』のための素晴らしい脚を用意してやれたものを)
 道賢の脳裏に、広島県柱島に浮かんでいたころの、世界最強戦艦の姿が描き出された。初めてそれを見たとき、道賢はほとほと感じ入って一目惚れしたのだ。
(あの存在感、あの重厚さ、まさしくあれこそ、『円光』が使う降魔の剣となれたであろう。それをあの馬鹿共がむなしく捨て去りおって。)
 次々と浮かんでは消えていく連合艦隊司令長官、軍令部総長、海軍大臣という帝国海軍三顕職の顔に罵声を浴びせつつ、その沈没を道賢は惜しんだ。だが、失われたものは仕方がない。まずは『円光』を目覚めさせ、その上で、この地に眠る太古の力を開けば、大和の勇姿を再び海に浮かべることも不可能ではなかろう。いや、次に浮かべる鉄の城は、あの大和すら凌駕する文字通りの無敵戦艦として、その偉容を海に浮かべることになるだろう。こうして気を落ち着けた道賢は、目を開けると同時に腹から紅蓮の炎が爆発するのを覚えた。
「いつまでそうして突っ立っている! とっとと出て行かぬか!」
 道賢の怒声に、将校達が震え上がったその時だった。
「落盤だ! 逃げろ!」
と言う叫びが、巨岩が転げ落ちるような轟音と振動に重なった。それまで不安定に洞窟内を照らしていた裸電球が大きく揺れて明滅し、遂にぷつんと熱い光を消す。その一瞬後、彼らの頭上に何万トンと知れない土と岩の塊が押し寄せ、狂気と野心とを永遠に葬り去った。
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1.月山 円光の修行 その1

2008-04-06 13:16:19 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 思いの外近くで鳥の声を聞いた。
 みそさざいだろうか、と、軽く聞き耳を立てる。
 蝉時雨と川のせせらぎがとぎれることなく耳を打ち、昼なお暗い木漏れ日に、その影がすっと見えたような気もする。
 火照る身に心地よい冷え具合で瀬の水が脚絆ごと足を洗う。
 ぐっと踏み込む足がぬるりとこけを踏み、行く手を阻む大木のじっとり湿った幹に手をかけるたび、円光は、深い森と険しい崖に満ち満ちた清冽な霊気に、一人自分を励ました。
 山形県 立谷沢川。
 羽黒連山を源に流れるこの清流は、俗に48の沢があると言い、江戸時代までは、ここを遡る抖藪行(とそうぎょう)が、羽黒修験の主要な修行であった。だが、そんな道もこの百年余り、分け入る者とて無いまま朽ち果てている。ただ流れる水だけが、円光の行く先を示しているに過ぎない有様だ。昭和初年、比叡山千日回峰を達成した天台屈指の僧侶がこの道に挑み、そのあまりな険しさにあえなく引き返したという。そんな険峻を、円光は一歩一歩確かめるように遡る。
 これも修行だ、と円光は思う。
 この沢を登りきれば、標高1979.5メートルの月山山頂を経て、霊峰湯殿山奥の院に到達する。実のところ、月山山頂へは、別の道をたどればまるで平地かと見まごうような緩やかな勾配で登ることが出来る。八合目まではバスすら通っている容易さだ。我が国に高山多しと言えどもこれほど容易に二千メートル近くまで達しうる山は他にはそうないであろう。だが、もちろんそんな道を選んでは、日本古来の修験道の聖地にやって来た甲斐がない。
 もともと修験は、常人には到底無理としか思えない難行苦行を自らに課し、それを乗り越えることで未曾有の験力を養うものである。深山幽谷に分け入り、生命を度外視した死の荒行を経て生まれ変わるのが目的なのだ。それでこそ即身成仏、すなわち生きながらに大日如来と一体となることが出来る。
 円光もまた、そうして時に命を落とす者もあった数多の先達の後を追って、自らの限界を突き破り、仏の真の教えに悟りを開こうと断食不眠の身を自然に投げ出すのである。かつて、中央アジアを彷徨って探し求めた答えが、この遼遠なる修行山脈の果てにあるかも知れない。円光は、その一歩が、まだ見えそうにない悟りの境地へ向かっていることを念じて、力を込めて踏みしめていた。
(それにしても、麗夢殿は今頃いかがなさっておられようか)
 鳥の声にふと耳を傾けた拍子に、円光の心は遙か数百キロ彼方の想い人へ飛んだ。途端に山深き谷の景色が消え、揺らぐ豊かな碧の黒髪と、愛くるしい笑顔が神々しい光を伴って現れる。
 綾小路麗夢。
 その氏、素性、年齢は分からない。
 あどけない、どう見ても十代半ばの少女に過ぎないのに、何百年も生き続けた老獪な魔女の微笑みが瞬く横顔。
 子供のようにくるくるとよく動くのに、はるけき古より人目に触れなかった山奥の聖なる泉のように澄んだ漆黒の瞳。
 全く、これほど不可解で魅力的な存在が他にあるだろうか。
 仏法の真理と麗夢の笑顔とどちらかを選択しなければならなくなったとしたら、円光は文字通り身を裂かれる思いを実感するに違いない。
 再び鳥の鳴き声が円光を現実に引き下ろした。はっと我に返っていかんいかんと首を振る。今は修行の最中。幾ら愛欲を肯定する大楽の教えを奉ずるとは言え、一歩間違えばそれがそのまま生命の危機に直結する危険な四八沢抖藪の最中に、妄想にふけってよい瞬間は無い。
 円光は気を取り直し、改めて視線を眼前の小さな滝に据え・・・。
 円光は、一瞬何の気配もなく現れたその集団に息を呑み、手にした錫杖に力を込めた。ふと気がついて後ろに振り向くと、同じような集団が横一列に沢を埋め、明らかに円光がきびすを返すのを塞ぐ構えを見せていた。
(囲まれたか)
 円光は、山伏装束に身を固め、顔を天狗の赤い面で一様に覆った十数名の集団を睨み据えた。とても友好的とは思えない雰囲気が辺りに満ちる。
 円光は内心の緊張はおくびにも出さず、前を向いて声をかけた。
「どちらの先達か存じぬが、拙僧先を急いでいる。道を開けてもらえぬか」
 じりっと包囲網がわずかに縮んだ。もはや疑いなく我が歩みを留める積もりと見える。
 にわかに盛り上がりつつある殺気に、円光は腹を決めた。どういう積もりかは判らないが、相手にこちらを害そうという意志があるなら、こちらも相応の対応を為さねばならぬ。もとより引く積もりは毛先ほどもない円光は、改めて錫杖の握りを確かめながら、努めて平静にもう一度言った。
「何故に拙僧の足を留めるのか教えていただけぬか? この先が危ないと言うことは重々承知の上で拙僧抖藪に挑んでいる。願わくば我が行の志をお酌みいただき、道を開けてもらいたいのだが」
 相手がこの辺りの羽黒修験だとしたら、百年廃道と化して人の足を拒む危険地帯となっていることを警告し、引き返させようと言う親切心でこうして道を塞いでいるかも知れない。だが、その極小の可能性は、滝上にたむろする山伏達の、中央に立つ者が初めて発した言葉によって、あっさりと否定された。
「かかれ!」
 谷中にこだまする野太い声にはじかれたように、滝の上から五人ばかりが飛び降りてきた。瞬時に放った視線の先に、後ろからは同じ人数が二手に分かれ、一手が水面を突進し、もう一手が驚くべき跳躍力を披露して、飛びかかってくるのが映る。皆手に手に錫杖や柴打ちという一種の山刀を振り上げている。狭い谷筋で繰り出された上下からの立体交差攻撃にかわす隙はない。次の瞬間には圧倒的多数の攻撃に為す術なく叩き伏せられた円光の姿を、誰もが幻視したに違いない。だが、それは余りに円光について知らなすぎる観測と言えた。
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1.月山 円光の修行 その2

2008-04-06 13:16:12 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 必殺を信じて目標を見据えていた十数名の目が、ただ身を固くして立ちつくしていたかに見えた墨染めの衣を見失った。と同時に、上から飛び降りた一人が肩の激痛とともにバランスを崩した。盛大な水しぶきを上げてその一人が水に落ちた瞬間、下から突進した一人が、あぜんとした様子で更に上の方へと視線を上げた。その先で、鬱蒼と茂る雑木の木漏れ日を遮りつつ飛ぶ墨染めの衣が翻る。円光は、一瞬の判断で前から来る相手の肩を足がかりに、滝の上にたむろする山伏達まで飛び越えたのである。
 首領格の山伏もさすがに度肝を抜かれた。だが、ここで逃がすわけには行かない。数瞬の困惑から一気に立ち直った山伏は、同じく信じられない光景を目の当たりにして固まってしまった配下の山伏を叱咤した。
「お、追えっ!」
 即座にまだ滝上にいた数名が円光の後を追った。無様に川の中でへたり込んだ者たちも、少し遅れて沢を駈け登った。
「逃がすな! 何としても捕まえるのだ! 急げ!」
 焦りの色も露わな怒声が滝の水音にも負けじとこだまし、急速に小さくなっていく円光の背中を追いかけていった。

(しつこい連中だが・・・一体何者だろう?)
 走りながらも円光は、相手の正体について首を傾げた。
 円光の、道無き崖を飛び駈けるカモシカ同然の足に比べれば、追っ手の速さは追うのがやっとという程度でしかない。だが、その粘りたるや円光も内心舌を巻くものがある。恨みを買うような記憶はない、と言いきれる程、円光も「きれいな」人生を送ってきたわけではない。いやむしろ、戦国時代の武将もかくやと言わぬばかりな、戦塵にまみれた生涯であった。だが、その相手とは、妖怪や死霊などの人外のものが大半であり、まれに人が相手だったとしても、それは殺人を嗜むような人でなしだけである。そうして円光の前に敗れ去った相手の中に、山伏や修験道の関係者がいたであろうか?
 相手の数はどうやら21人。手並みの程から言っても、余程油断しない限りやられる気遣いはない。このさい相手の正体、目的を確かめておくか。
 円光は自分の居る場所を見定めると、さっと道を変えた。少し走って振り向いてみると、どうやら相手も迷わずについて来ているらしい。ほのかに「この先は行き止まりだ!」という首領格の男の声が聞こえる。それからすると、どうやら相手もこの辺りの地理はよく知っているらしい。やはり羽黒修験の関係者なのか、と円光は思う。だがそうだとするとますます別の疑問が募る。羽黒修験に袋叩きにされるようないわれは、円光にはとんと見当がつかないのだ。
 崖を飛び越え、最後の一かきで藪を走り抜けた円光の目の前に、さざ波一つ立てずたたずむ、小さな池が現れた。御浜池という。ブナの原生林に包まれた静謐な水を湛える様は、羽黒三山の秘境と呼ぶにふさわしい神々しさが漂っている。一説には八大竜王が棲むとも言い、池畔には弁財天が祭られている。息苦しいほどに凋密な林相を示す原生林の中にぽっかりと空いた広場である。それだけに逃げも隠れもできないが、それは相手も同じことだ。相手の正体を見極めるにはまずまずの場所であろう、と円光は思った。
 池に背を向けた円光の前で、にわかに森が騒がしくさざめいた。複数の足音が土を蹴る音が耳に届き、やがて、次々と森から打ち出されるようにして、山伏装束の天狗面が円光の前に出揃った。手に手にどう猛な獲物を抱えた山伏達は、半弧を描いて円光を包囲した。
 円光は油断無く辺りに目を配り、愛用する錫杖の握りを確かめた。
 じりじりと包囲を絞る山伏達は、数瞬後突然激しい嵐となって、円光にふきつけた。
 円光の左側から二人がまず錫杖を手に襲いかかった。同時に右からも山刀を振り上げて円光に迫る一団がいる。たちまち苛烈な剣戟が円光の身を包み込んだ。それを円光はほとんど紙一重の差で見切り、風に流れる柳のようにかわしきった。かわしながら正面に走り寄り、緊張して身構える一人の鳩尾に錫杖の一撃を打ち込む。次の瞬間には円光の錫杖の先と基が、その左右にいた山伏の鳩尾に連続して決まった。こうして、瞬きもせぬ内に山伏三人があっさりと膝をついた。突然の旋風に驚きつつも、更に外側に連なった数人が、倒された三人を飛び越えて円光に打ちかかる。だが、錫杖や刀が円光を捉えた! と思った時には、既に円光の姿はそこにはない。漆黒の獣、それも恐ろしいまでに俊敏な狼の如きどう猛さが、たちまち相手との間合いを詰め、気づく間もなく渾身の一撃が襲いかかる。一飛びして別の山刀に空を切らせると同時に、突っ込んでくる胴体へ深々と左足を沈め、厚さ三寸の杉板さえあっさりとうち割る掌底が、胸の中央を突き飛ばす。あっという間に山伏達は池の回りにうめき声を発して倒れ伏した。残る二人ほどが怯えも露わに腰を引き、武器だけを突き出して辛うじて円光に対峙するばかりである。円光は息も切らすことなく静かに振り返ると、その二人にさっと錫杖の先を向けた。
「さあ、まだかかってくるか?」
 円光の挑発を引き金にして、二人は同時に飛びかかった。もとより勝てると思っての行動ではない。せっぱ詰まって窮鼠猫を噛む、の心境で闇雲に突進したのである。そして当然そんな攻撃が円光に通用するはずもなかった。一瞬後には二人も地面を舐め、水際に立つのは一人円光だけになっていた。
「手加減はしておいた。そろそろ正体を現してもらおうか」
 言いながら、ざっと転がる山伏の数を勘定し、一人足りない事に円光は気づいた。それを待っていたかのように、森から最後の一人が現れた。事の始めに円光への攻撃を命じた、首領格の山伏である。悠然と歩を進める様は、地に伏す20人とは違って、闇雲に打ちかかってくる狂犬の獰猛さは感じない。それでも円光は油断無く、鋭い視線をその山伏に叩き付けた。
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2.御浜池畔 父と妹と。その1

2008-04-06 13:16:01 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
「そう怖い顔をするな、円光」
 野太いバリトンの落ち着いた音色が、円光の耳に届いた。
「貴様、何者だ。何故拙僧の名を知っている?」
 すると、山伏は頭に手をやり、面を固定していた紐を解きにかかった。
「久しいな。かくまで立派に育ってくれて、この道賢、うれしく思うぞ」
 天狗の面の下から現れたのは、いかつい顔立ちを白に変貌した太い眉と口ひげで飾った、年老いた男の顔であった。弛んだ頬の肉と深く刻まれたしわが相当な高齢であることを物語ったが、「枯淡」などという年相応の心境とはまるで縁がない眼光が、鋭く円光を見返した。対する円光は、相手がまるで旧知の間柄であるかのごとく振る舞うのを見て、不審の思いを募らせた。少なくとも円光の記憶に、この顔とその名前は刻まれていない。
「して、道賢殿は何故かような真似をなさるのか、得心行くまでお聞かせ願おうか」
「ふふふ、やはり覚えてはおらぬか」
「なに?」
「されば教えて進ぜる。円光、我は主の父じゃ」
 突然の物言いに、円光はしばし返す言葉を失った。言うに事欠いて自分の父だと? 円光はにわかに身中怒りが沸騰するのを覚えた。
「いい加減なことを言うな!」
 円光の剣幕を、道賢はあっさりと無視して言った。
「それから主の血を分けた同胞じゃ。さあ、いつまで寝そべっておる! 立って挨拶せい!」
 道賢に怒鳴りつけられた山伏達が、思い思いに立ち上がった。よろける足を踏ん張ってお揃いの面を次々に取る。その途端、円光はあっと驚いた。
「お、女だったのか」
 驚きと同時にやはりそうか、と円光は納得した。滝を飛び越えるために踏みつけにした肩の柔らかさや、ついさっき当て身を喰らわせたときの手応えの異様さが、ひょっとして、と直感に警告していたのだが、まさか、と思う部分の方が取りあえずは強かった。だが、こうして20人、皆自分よりも年若いと思われる女性達に取り囲まれてみると、今更まさかとは言えない。それに、と円光は固唾を呑んだ。それぞれ顔立ちに違いはあるがその容貌は充分に美しいと言える部類にある。麗夢殿ほどではないにしても、と思った時、円光はその顔に何となく見覚えがある事に気が付いた。会ったことはないはずだが、といぶかる円光に、一番身近にいた一人が円光ににっこりと笑いかけた。
「兄上様、お初にお目にかかります。私、妹の蓮花と申します」
「あにうえさま?」
 円光は、初めて聞いたかのように、ただ目を丸くしてその言葉をなぞりながら相手を凝視した。すると、円光を兄と呼んだ少女が、頬を朱に染めて目を伏せた。それをきっかけに、残る19人がそれぞれの笑顔で円光に言った。
「兄上様、やっとお会いできましたね」
「兄上様、この日が来るのをどれほど待ちわびたことか」
「ずっと会える日を楽しみにしておりました」
「お会いできてうれしゅうございます」
・・・・・・
 次々と呼びかけられて、円光は何がなんだか判らなくなった。
「し、しばし待たれよ! 一体、一体貴女達は・・・」
「皆、兄上様の妹でございます」
 最初に蓮花と名乗った娘にすました顔で慇懃に答えられると、円光の混乱は一層に増した。その混乱のまま、ふと池の水面に写った自分の顔に目がいった。そして円光は得心した。見覚えのあるはずだ。あの顔立ち、拙僧にそっくりではないか・・・。
「いやそんなはずは! せ、拙僧には兄弟姉妹はおらぬ!」
「それがいたのだ。円光」
 道賢が一歩前に出て円光に言った。
「大体円光、主は己の幼き頃を覚えているか?」
「い、いや。拙僧、物心ついた時には既に修行中の身であった」
「では、二親を覚えているか?」
「・・・拙僧は天涯孤独の身。親など拙僧には・・・」
 親について尋ねられた円光は、少し目を伏せて苦い顔をした。円光には両親の記憶はおろか、過ごしたはずの幼い頃の記憶もない。唯一残っているのは、どことも知れぬ深山で、一所懸命真言を唱え続ける小さな声と、その傍らで輝く一対の瞳であった。その瞳は、時に厳しさを増して声を励まし、時に慈愛に満ちて声をいたわった。時には、得体の知れぬ物の怪からとてつもない霊力を発揮して声を救うこともあった。この声が即ち自分であり、見つめる目が多分父か師匠だと円光は考えている。円光という法名は恐らくその目の主から頂戴したのであろう。だが、それは全てあやふやな記憶から抽出した、根拠のない円光の思いに過ぎない。
 そう。円光には過去がない。
 自分は一体何者なのか、と言う問いは、円光が物心ついて以来の難問なのだ。
 結局そんな自分に対する不確実な思いが、仏法への精神的傾斜を増すテコとなった。今は仏法こそが円光を支えるアイデンティティそのものなのである。それでも、自分の過去を、両親が誰なのかを知りたいという欲求が失せる事はない。数々の難行苦行をこなし、こうして日々荒行に明け暮れるのも、仏法の真理を掴めば失われた記憶を取り戻せるかも知れない、と期待を抱いているためとも言える。
 そんな複雑な円光の思いを察してか、道賢は腕を組むと、さもありなんとゆっくり首を縦に振った。
「そうであろう。覚えておるはずはない。主の記憶にはある封印が施されているからな」
「封印だと?!」
 驚く円光に、道賢と名乗る山伏は力強く頷いた。
「そうだ。だが心配するな。今このわしがその封印を解いてつかわす」
「封印を、解く?」
 困惑してただ鸚鵡返しするばかりな円光に、道賢は、そうだともう一度力を込めて頷き、後ろに居並ぶ娘達に目配せした。たちまち円光の妹を自称する娘達は、円光を丸く同心円上に幾重にも取り囲んだ。はっと身構える円光に、道賢は言った。
「案ずるな。主にかけられた記憶の封印を解くには、少々力のいる念を施さねばならぬ。これはそのための陣じゃ」
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2.御浜池畔 父と妹と。その2

2008-04-06 13:15:47 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 やがて、娘達はそれぞれ懐から金剛五鈷鈴と呼ばれる、金色に輝く法具を取り出した。長さは三〇センチ足らず。先端に内側へ大きく湾曲した長い爪が五本ついており、反対側には大きな鈴があしらわれている。中央の柄の部分が少しふくらんで、握ると手になじむ様に出来ている。古代インドの武器として生まれ、密教によって洗練された降魔招福の法具が20、三重に円光を取り囲んで、一斉に一定のリズムを刻んで打ち鳴らされた。澄みきった音色が御浜池の湖面を渡り、音色に等しい青空へと吸い込まれていく。同時に、妹達の口々からまず大日如来真言が高らかに唱えられ、続いて般若心経が唱和される。やがて、辺りの神気がにわかに改まり、一つに収斂してこの三重の結界に集まり始めた。その結界を縫うように、道賢が同心円の中心、円光の目の前まで歩み寄った。
「さあ、記憶の鎖を断ち切らん!」
 たちまち、円光の頭に強烈な衝撃が走った。
 目から火花が出る、というのは感覚として確かにあるものだ。円光は遠のく意識に鮮やかな光が目の前を飛び交う様を見た。そしてその瞬間、思いもよらない光景が、円光の目に飛び込んできたのである。
 はじめ、それはただの木製の机に過ぎなかった。古ぼけた、あちこちにしみの付いた頑丈さだけが取り柄のような分厚い板で出来た机。どうやら室内らしい薄暗さの中で、その机がやたらと鮮明に浮かび上がる。
 よく見ると、机の上にはかなり雑然と色々なものが並べられていた。得体の知れない液体が入ったガラスフラスコやビーカー。半透明な寒天を充填した試験管やガラスシャーレ。蒼く錆をふいたピンセットやえつき針。透明な赤い炎を上げるアルコールランプ。
 反対側に目を転ずれば、仰々しいアナログメーターをつけた機械がでんと居座り、機械の上には、触覚のようなアンテナが、時折居丈高な放電を繰り返して室内を白く染めていた。その向こう。やや奥まったところに、それまでの古い実験室めいた世界が急に不安定に揺らすものが据えられていた。
 髑髏である。
 ただの髑髏ではない。多分何重にもかぶせられたであろう分厚い漆の層の上に、丁寧に金箔を乗せ、全体を黄金に輝かせている髑髏だ。
 その向こうには護摩檀が据えられており、紅蓮の炎が轟然と燃えさかっていた。
 その炎越しに、恰幅のよい、がっちりした体つきの僧侶が、一心不乱に般若心経を唱えては傍らの木の棒を火にくべている。
 祭壇には、法螺貝や太鼓、金剛五鈷鈴や鏡などの様々な法具が並べられ、周辺に大勢の信者らしき人影が見えた。
 どうやらかなり大がかりな行の最中らしかった。ふと、鏡を覗き込んだ円光は、そこに映っているものをみて驚倒せんばかりにのけぞった。護摩檀越しに奥に横たえられた一人の男。それは、まさしく自分自身、即ち円光その人に見えたのである。
 円光がそれを幻視したのを察したか、タイミング良く道賢が言った。
『見えるか円光。あれが主じゃ。主は、今から56年前、さるところで今しも目覚めようとしていた。究極の不死の戦士、体術と法力に優れた絶対無敵の僧兵として、まさに生まれようとしていたのだ』
 唖然とする円光の脳裏に、ぴしっと鋭い痛みが走った。同時により鮮明に円光の周りをその幻視が取り囲んだ。臨場感溢れる映像と音。護摩檀の業火がごう! と音を立てて炎を上げ、くべられた香草の上げた白煙が、えもいわれぬ香りで辺りを浄める。そんな雰囲気に半ば陶然となった円光に、また道賢の声が届いた。
『主はその時、敗勢必至だった神国大日本帝国を滅亡の縁から救うために作られた、本土決戦の先兵、人型決戦兵器『円光』なのだ』
 一段と金剛五鈷鈴の音が高く響き渡った。
「拙僧が、兵器?」
『そうだ。当時、我が神国は未曾有の大難に見舞われていた。アメリカ、ソ連、と言った暴虐な毛唐共が我が聖なる国土に不貞なる欲望を抱き、沖縄や満州を奪い、本土すらうかがいつつあった。対する我が軍は、艦も燃料も失い、弾も尽き、まともに飛ぶ飛行機も無い状態で、これら暴虐非道な敵軍に対するしかなかった。本土決戦、一億総特攻、一人十殺、七生報国などと勇ましいかけ声ばかりがむなしく流れ、力もなく、技もない女子供や足腰もたたん年寄りを動員して竹槍を持たせるばかりだったのだ。だがそんなものが軍隊と言えるだろうか? これでは、精鋭を唱える奴らの足止めすらかなわぬであろう』
『そこでわしはある策を思いついた。奴らを叩きのめすには最早我が国の力だけでは到底無理だ。それには、絶対に必要なものがある。つまり神風じゃ。時代遅れの飛行機に爆弾をくくりつけて突っ込ませる様な愚策ではない。真の神風、一吹きで元軍十万を討ち沈めた本物の神風を吹かすことこそ、我が神国に起死回生の力を呼び起こす策となる。わしは、そのために主を生んだ。わしが培った真言立川流の秘術の奥義と、友邦独逸の生化学と神秘学の精髄をよりあわせ、絶対無敵の兵器として主を作り出したのじゃ』
「真言立川流だと!」
 円光は、その響きにまつわる不吉な影に、軽い戦慄を覚えた。
 真言立川流。それは、邪教として歴史に封殺された呪術的密教の名称である。
 平安末期の真言僧仁寛を開祖とし、鎌倉末期から南北朝時代に暗躍した怪僧、文観僧正によって大成され、後醍醐天皇を初めとする強力な後ろ盾を元に、真言師の十人に九人はこの流である、と言われるほどの隆盛を極めた一大宗派であった。しかし、邪教として各宗派からの排撃が厳しく、江戸時代にはほとんど絶息せしめた宗派でもあった。
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2.御浜池畔 父と妹と。その3

2008-04-06 13:15:37 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 立川流が邪教として忌み嫌われたのは、その生々しすぎる性的タントリズムにあった。
 タントリズムの考え方は、万物を男性原理と女性原理に二分するところから始まる。
 この両原理を一体化し、宇宙の始源的原理を導き出して、通常では得られない強力な力を発揮するのが、タントリズムの根本である。
 インドのヒンズー教やチベット密教に描かれる抱擁神の姿は、この真理を最も具体的に表現したものなのだ。真言宗や天台宗などの、現在も連綿と伝えられる主流派密教は、このような原理を昇華、洗練させ、一種の論理的象徴に封じ込めて生々しさを切り離す事で、より高次の宗教として命脈を保ち得た。だが、真言立川流はあくまでも象徴より具体性を重視した。実践によって「男性原理」と「女性原理」の結合を計り、それ故に滅び去った、カルト宗教なのである。
 その真言立川流をこの老人が信奉している、という。
 円光の驚きと警戒心は、そのたった一言で急激に高まった。だが、道賢はそんな円光には一向に構わず話を続けた。
『何を驚く? 真言立川流は主が思っているほど淫蕩堕落した宗派ではないぞ。むしろ、現在正統を自称する既存宗教こそ、密教が本来持っていた猛々しい生命を失っていると言うべきであろう。主もそう思ったから、遙か中央アジアを放浪したり、このように山伏まがいの修行に明け暮れたりしているのではないのか?』
 まさにその点には円光も同意する所があった。
 円光は数年前、日本における既存仏教のあり方に疑問を覚え、自ら信と頼む教えを捜しに、大陸を横断したことがある。結局そこにあったのは、仏教遺跡と共に永遠に失われてしまった仏陀の秘蹟であり、日本同様原型がすっかり摩滅し変形してしまったその末裔達だけであった。
 沈黙する円光に、道賢は言った。
『初め、わしは主の父と名乗ったが、あえて言うならわしは主の創造主、そう、西洋の物言いにたとえるなら、わしは主の神に等しいということになるのじゃ』
(拙僧は兵器だったのか・・)
 道賢の言葉に熱がこもると共に、一旦は消えるかに見えた円光の幻視が、再びより具体性を増して円光を捉えた。皮膚が人工羊水の生暖かい柔らかな感覚を覚え、鼻に乳香を焚きしめたようなよい香りが感じられた。円光は、いつしか自分が透明のガラス容器に収まり、その中に満たされた羊水に浮かんで、じっと外をのぞいている事に気がついた。曲面のガラス越しに、ゆがんだ実験室の風景が目に映る。耳に、大日如来を初めとする各種真言が聞こえ、目に時折スパークする電極のきらめきが映る。
 確かに円光には父母の記憶がない。だが、円光自身は父母の存在を疑ってかかったことなどこれまで一度もなかった。ところが、道賢の言うこと、そして今自分が思い出しつつある記憶を信ずるとすれば、自分は母ならぬものより生まれ出た、人間にあらざるもの。戦うことを目的に生み出された、破壊のための兵器だと言うことになる。
 自分はただの兵器。
 夷敵を討ち滅ぼすためだけに生まれた殺戮兵器。
 それがこの円光だと言うのか。
 そんな馬鹿なと一方で頭から拒絶しながら、円光のもう一方は、何となくそのことを理解しようとしていた。
 ひとえに修行の賜物と思っていた並外れた法力や体術も、元々それを発揮すべく造られていたのだとすれば話は簡単である。父母の記憶がないのも当然であるし、妹達の事を覚えていなかったのも当たり前だと言える。
 妹達・・・。
 円光はふと気がついて道賢に言った。
「では、この娘達も母ならぬ身より生まれたのか?」
 道賢は当然だと胸を張った。
『神風の力を呼び覚ますのには、主のような法力に優れた者を別に20人用意する必要があるのじゃ』
 そうか・・・。
 円光は、傍らで控えている女山伏達を見回した。皆手に手に複雑な印を結び、真言の口訣をつぶやいている。
「だが、今更拙僧に何の用がある? 戦争はとうに終わり、この国は発展を続けている。拙僧が戦争のための決戦兵器だったとしても、最早用済みではないか」
『いや、戦争は今も続いておる!』
 道賢は、広角泡を飛ばして円光に畳み掛けた。
『確かに本土を焦土と化す決戦は避けられた。だが、その後を見るがいい。我が神国はまるで卑屈で小心な鼠族の巣となり、夷荻から何か言われれば唯々諾々として頭を下げることしか知らぬ。これが、日本武尊が詩に詠った麗しき大和の国と言えるか。わしは、そんな見下げ果てた国を立て直し、再び世界に雄飛する神国として復活させるために、今一度主達我が精魂込めた子等をもって神風の秘法を執り行うことにしたのじゃ。先の大戦には間に合わなかったが、今なら時間もたっぷりとある。だがそのためには、特に主の力が必要なのじゃ。さあ円光、主の力でこの父を助けよ』
「しかし、拙僧には道賢殿の言葉をにわかに信じて良いのか、判断致しかねる」
『さもありなん。突然この様な話を聞かされ、封印された記憶を掘り起こされて、さあ信じよ、と言われてもためらうのは当然じゃ。だが、力を貸すのならわしも主に約束する。その偽りの器を、正真正銘の人の血肉に変えて進ぜる』
「それは真か? 道賢殿」
 やや気色ばんだ円光に、道賢はほくそえんだ。
『もちろんじゃ。神風を呼び覚ます力を得れば、それくらい造作もない』
「お願いします、兄上様」
「お願いです、兄上様」
 真言の呪を唱えつつ、妹達が口々に円光へ哀願した。
 何の前触れもなく現れた父と妹達は、余りに突然で怪しい。
 だが、痺れるような甘美な語りかけが、抗いがたい誘惑のささやきとなり、抵抗を徐々に挫きつつあることを、円光は自覚していた。
(一つ、だまされたと思ってしばらく付き合ってみるか)
 円光は心を決めた。
「・・・判った。拙僧、道賢殿に力を貸そう」
「お聞き届け下さってありがとう、兄上様!」
 数人の「妹」が喜びを全身に表して円光に抱きついてきた。華やかな笑顔が円光の視界を埋め尽くす。円光は戸惑いながらも、それが不快とはほど遠い感覚をもたらすことに、喜びを覚え始めていた。自分の身内。それがこんなにも心地よいものだということに、円光は初めて気づいたのだった。
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3.東京青山 麗夢始動! その1

2008-04-06 13:12:23 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 夏真っ盛り。
 アスファルトの上は陽炎が立つほどであるのに、燦々と照り輝く陽光の下、ここ青山界隈にカラフルな人通りが絶えることはない。
 そんな中、少々場違いなかっこうを意識しつつ、吹き出る汗を拭い先を急ぐ初老の男がいる。
 名前は榊真一郎。
 夏用とは名ばかりの暑苦しい背広でがっしりした身体を固めつつ、笑顔とは無縁の顔つきで、目当てのビル目がけて早足で歩く。
 やがて榊は、そのビルと隣のビルとの間に出来た狭い隙間に身を潜り込ませた。足下の空き缶を蹴り飛ばし、いつもじめじめと乾こうとしない関東ローム層を踏みしめて路地を抜ける。
 そこは、正午以外は一筋の日光も射すまいと思われる狭い空き地である。
 そのコンクリートジャングルの深い谷間の中央に、古ぼけた木造二階建てアパートがある。とうに屋根が落ち、床が抜け、柱が傾いていても不思議ではないぼろアパートだ。
 榊の目的は、その二階の端に掛かる、怪奇よろず相談という妖しげな看板にあった。
「あら榊警部、いらっしゃい。外は暑かったでしょう?」
 ドアが開いた途端に、気持ちの良いひんやりとした空気が榊を包み込んだ。外観とは場違いな明るい内装の中、正面の窓際に据え付けられた重厚なマホガニー製デスクの向こうで、一人の少女がにっこりと微笑みかける。綾小路麗夢。このぼろアパート唯一の住人にして、日本ただ一人の怪奇事件専門を歌う私立探偵である。榊は軽い既視感にとらわれた。あの、人づてに聞いて初めてここを訪れた時の事。目の前の少女が藁をもすがる思いでようやく尋ね当てた人物その人であったと気づくまで、的はずれな問答を繰り返したものだった。あれからいちいち数え上げる気にもならぬほど多くの怪奇事件の解決に、この少女の手を借りてきているのだ。
「あぁ、麗夢さん、実は・・・」
「まあおかけになって。麦茶でも飲みます?」
 と言いながら、腰まで届く碧の黒髪が揺れて奥に消えた。一人残された榊は、やむなく応接セットのソファに腰を下ろした。その途端、榊の膝の上に小さな犬と猫が飛び込んできた。邪気のない大きな瞳がくりくりと動いて、盛大に振られた尻尾が好ましい客の到来を歓迎してみせる。猫のアルファと犬のベータである。
「おお、元気だったか、アルファ、ベータ」
 榊も思わず相好を崩して二頭の頭をなでた。その手を捉えてベータがしきりになめ回し、アルファが身体をすりつけてくる。榊は手を二匹のやりたい放題に任せながら、氷を浮かべた麦茶のグラスを二つ盆に乗せて、麗夢が現れるのを待った。
「で、今日どうしたんです? 榊警部」
「麗夢さん。またやっかい事を頼まれてくれないか」
「何ですの、やっかい事って」
 相変わらず朗らかにこちらを見つめる麗夢に対し、榊は礼とともにグラスを取って一息に半分ばかりを飲み干すと、背広の内ポケットから愛用の警察手帳を取り出した。おもむろにページをめくって、目的のメモを探し当てる。
「岩手県に羽黒山という所があるのをご存じですか? 麗夢さん」
「羽黒山ってたしか山伏さんが修行する山でしたわよね」
「よくご存じですな」
「ええ、先週円光さんが羽黒山で修行して来るって言ってましたから」
「何ですって? 円光さんが!」
 榊が驚きの余り立ち上がろうとして、テーブルにどんと足をぶつけた。テーブルのグラスががちゃんと揺れ、危うく倒れそうになったのを、アルファとベータが大慌てて支えた。
「榊警部、落ち着いて。話を伺いましょう」
 麗夢になだめられて、榊はようやく腰を落ち着けた。
「実は一週間ばかり前のことです。羽黒山は羽黒三山と言って霊場とされる山が大きく三つあるんですが、その内の一つに湯殿山と言うのがあります。この湯殿山は、日本でも有数の即身仏のメッカでして、江戸初期から明治にかけて生まれた、六体の即身仏が祭られている所なんです」
「即身仏って?」
「即身仏とは、修行の末に自らミイラになった仏さんの事です」
 日本のように高温多湿の風土でミイラというのはなかなか難しい。どうしても乾燥途中で腐りやすいし、できあがってからの保存も困難だ。だが、全くないというわけではない。かつて飢饉や疫病などの災厄を癒すため、人柱となって自らミイラになる事を選ぶ宗教家がいた。彼らは千日、あるいは三千、五千日と命の続く限り米などのいわゆる五穀を絶ち、木の実や松の皮だけを食べる木食という行を続ける。そうして体中の脂肪をすっきり落とし切った後、最後は水をも絶って死を迎える。現在、日本全国でそのようなミイラがおよそ二〇体余りあり、そのうち六体が羽黒三山に集中しているのである。榊はそんなミイラについての情報をかいつまんで説明した後、驚くべき話を麗夢に告げた。
「そのミイラが、ここ一週間の内に、何者かによって一体をのぞいて全部盗み出されてしまったのです」
「ミイラを盗んだ? 一体誰が、何のために?」
「そこなんです、困ったのは」
 榊は、頭を抱えて手帳の次のページをめくった。
「目的は全く不明。好事家の出来心からカルト宗教集団の犯行まで色々な仮説が検討されているのですが、今のところどれも推測にすぎません。でも、各県警に照会したところ、同じようなミイラ盗難事件がこの一ヶ月ほどの間に各地で頻発していることが判りました。こうなってくると、これが単なる出来心と考えるのは不可能です。何者かが、何らかの目的を持って各地のミイラを収集して回っていると考えるのが自然でしょう。でも、それは別に大した問題ではないのです」
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3.東京青山 麗夢始動! その2

2008-04-06 13:12:16 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 榊は言葉を切って麦茶のグラスを取り、残りをぐっと飲み干した。喉の湿りを補充した榊は、いよいよここからが本番だという風に居住まいを正し、警察手帳に挟み込んだ一枚の紙を広げだした。
「実は岩手では少数ですが目撃者があって、犯人の人相風体が少しだけ知れています。まず犯人はどうやら一〇名以上のグループであること。また、一人を除いて皆山伏装束に身を固めていたことが判っています。また、顔を隠すために天狗の面を着けていた、と言う証言もありました。ですが問題なのは山伏姿でない一人の方です。これを見て下さい」
 榊がさしだした紙は、いわゆる人相描きのコピーだった。目撃者の証言を基に再構築されたそれは、かなり顔立ちの整った一人の僧侶の顔を浮かび上がらせていた。
「これって、円光さんそっくり・・・」
 目元や顎の形などに若干の相違が認められるが、全体の印象からすればそれはわずかな誤差に過ぎない。話を聞かずにいきなりこの紙を見せられていたら、結構出来のいい円光の似顔絵だと麗夢も判断したことだろう。だが、これはもちろん似顔絵ではなく、限りなく犯人に近い、重要参考人のモンタージュなのである。
「やはり麗夢さんにも円光さんに見えますか」
 深いため息をつく榊に、でも円光さんは修行で、と言いかけて、麗夢もはっと気がついた。その、円光が出かけた先が、まさにこの岩手県羽黒山なのである。
「でも円光さんがどうしてミイラなんか」
「それは判りません。私としては円光さんにうり二つの別人がいて、そいつが円光さんを騙るためにことさら顔を見せつけているのではないか、と思いもするのですが、今のところ実状は全く不明なんです。確かめるには、本人を捕まえて直接問いただすのが一番早い。そう思って、円光さんの足取りをご存じ無いかとここを尋ねたのですが・・・」
 榊としては、円光を犯人として疑うというのは心苦しい限りに違いない。何しろ円光はこれまで暗に陽に麗夢や榊の手助けをし、事件解決に尽力してくれているかけがえのない味方である。その円光が、理由はともかく日本各地のミイラをかり集めるという猟奇的な構図の中心にいるというのは、納得できないし考えたくもない。だが、状況は円光にとって圧倒的に不利だ。その疑いを少しでも晴らそうとして麗夢の元を尋ねた榊だったが、結果として円光にかかったグレーの暗雲へより一層暗い色を差し加える結果となってしまった。
 麗夢とてその気持ちは同じである。円光に危ういところを助けてもらったのは一度や二度ではない。何よりも曲がったことや邪なことを嫌い、正義を貫き通す剛直な精神とそれを支える屈強の肉体に優れた法力。それでももの足りずに修行一途に全国を行脚する円光が、ミイラ泥棒の重要参考人というのは余りにも信じがたい。
「それで、私に円光さんの容疑を晴らして欲しい、と言うことですか?」
「いや、結果としてそういうことにもなるでしょうが、取りあえず麗夢さんにお願いしたいのは別のことです」
 榊は別のページからこれも小さく折り畳んだ一枚の紙を広げて麗夢に見せた。
「これは?」
 それは、明日から上野博物館で開催される、ある展示会のチラシだった。表題は「東洋密教の足跡」とある。インドで生まれた密教が、チベット、中国、そして日本へと伝わる課程でどのように変貌し、発展を遂げてきたのかを、各地の密教関連文物や文献、写真などを展示して概観しようと言う企画である。その中でも目玉になるのが、世界各地から集められたという、ミイラの展示だった。密教発祥の地、インドはもとより、チベット、中国、と言った関係深い土地から数体のミイラが集められた。同時に日本からは、代表的な羽黒山のミイラが一体選ばれ、はるばる東京まで運ばれている、と言うのである。
「なるほど、さっき一体をのぞいてっておっしゃったのは、この一体だけが残っていたからなんですね」
「そうなんです、麗夢さん。円光さん、あるいは円光さんに極似の犯人達がどういう積もりでミイラを集めて回っているのかは判りません。でも、そこまでして日本中のミイラを集めている連中が、この一体だけを見逃すとはとても思えない。ミイラが上野に運ばれているのはちょっと調べれば誰にだって判ることですから、連中も知っていると見て間違いないでしょう。そこで私は、警視庁の総力を挙げてこのミイラを守り、犯人を捕まえるために今夜から警備に入ります。残念ながら私は、もし相手が本当に円光さんだったとしても見逃すわけには行かない立場です。だが、心情として円光さんに手錠などかけたくはない。そこでお願いです、麗夢さん。麗夢さんにも上野博物館の警備をお願いしたい。そして何とか円光さんを我々警察より先に捕まえて、何故そんな事をするのか、手を引くことは出来ないのかを説得していただきたいんです。どうかこの通り」
 警察官としての使命と友情との板挟みに悩んでいた榊は、手をあわさんばかりに麗夢に頭を下げた。まあ頭を上げて、と慌てて榊の肩に手をかけつつも、麗夢は力強く受けがった。
「判りました。どこまで出来るか判らないけど、全力を尽くしてみます、榊警部」
「やってくれますか、麗夢さん!」
「ええ。円光さんがそんな訳のわかんない事に頭を突っ込んでいるなんてまだ信じられないけれど、もし本当なら何としてもやめさせないと。とにかくもう少し犯人達の事を教えて下さいませんか? 榊警部」
 麗夢の明るい笑顔に、榊もすっと肩の荷が下りた気がしてようやく笑顔を取り戻した。
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4.東京上野 対決 その1

2008-04-06 13:11:46 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 麗夢はあくびを堪えて時計を睨みつつ、何か動きはないかと車窓越しに辺りを見回した。時間はすでに午前三時を迎えつつある。さしもの不夜城東京においても、この時間動き回っている人間はほとんどいない。まして帝都有数の緑に覆われた広大な上野公園の一角とあっては、人影など望むべくもない。あの闇のどこかで榊警部も寝ずの番で目を光らせているのだろう。麗夢はふっと一つ軽いため息をつくと、傍らでうずくまる小さな二つの毛玉に言った。
「どう? 何か感じる?」
「にゃあ」
「きゅーん」
 アルファ、ベータは共に首を横に振った。二頭とも、目に見えない気の流れや雰囲気の変化を掴むことにかけては麗夢を凌ぐ鋭敏さを持っている。しかも円光なら、その場に居るだけで辺りの空気を浄化してしまうほど、鍛え上げた強力な法力を持つ。それだけ大きな精神エネルギーが近づけば、アルファ、ベータが捉え損ねるとはまず考えられない。
「そう・・・」
 麗夢はもう一度ため息をつくと、今日は来ないのかも知れない、と一人ごちた。もう二時間もすれば夜が明ける。それまで待って来なければ取りあえず今日は引き上げよう、と麗夢は考え、じりじりと時間の過ぎるのを待ち続けた。
 やがて夜が白々と明け始め、暗い中で気の早い鳥の声がちらほらと耳に届くようになった頃。突然ベータが立ち上がって、わんわん! と威勢良く吼え立てた。
「何ですって? 円光さんの気配?」
 麗夢とアルファ、ベータは一種のテレパシーで「会話」をする事が出来る。そのベータの訴えに、やはりそうなのか、と麗夢は軽いショックを覚えた。だがこうなっては、何としても榊警部より先に円光の身柄を確保しなければならない。麗夢は車を飛び降りると、アルファ、ベータを先に走らせ、問題の円光の気配目がけて地面を蹴った。いつものミニスカートとは違い、動きやすさに徹した赤いレオタードが上野の森を突っ切っていく。間に合わないかも、と焦りを覚えた麗夢は、見通しの利かない森を抜けた瞬間、唐突にその集団と出くわした。
「待ちなさい!」
 麗夢は肩に掛けた短いマントを跳ね上げ、さっと左脇に固定したホルスターから、愛用の拳銃を取り出した。
「逃げたりしたら撃つわよ!」
 突然呼びかけられて驚きの余り振り向いた集団は、次の瞬間、足に根が生えたようにその場に停止した。イタリアの闇の名工ジェペットの手になる銃の存在感は、十人の逃走せんとする意志を挫くには、充分すぎる迫力だった。
(確かに山伏だわ)
 麗夢は、じりじりと間合いを詰めつつ相手の風体を見て取った。頭に頭襟という三角形の小さな帽子を乗せ、ぼんぼりのような丸く白い飾り付けを胸の前にぶら下げた篠懸という大袖の上着を身につけている。足下は袴の上から脚絆でしっかりとふくらはぎを締め、時代劇でしかお目にかかれない草鞋で地面に立っている。幾人かが向けている尻には、夜目にも文様鮮やかな毛皮が結い付けられ、手にするのは円光と同じ様な一振りの錫杖である。攻撃か逃亡か、容易に見いだせない隙を探る二組の間に、緊張が無数の見えない糸となって張り巡らされた。麗夢の銃把が、十人の錫杖が、覚えず強い力で握りしめられ、掌に滲む汗でわずかの湿りを帯びていく。お互いちょっとでも気を抜けば、たちまち辺りが修羅場と化すことうけあいの瞬間、固まった十人の山伏を割って、一人の男が姿を現した。鍛え上げられた肉体をややぼろと化しつつある墨染めの衣でくるみ、錫杖を携えるその姿。眉目秀麗の典型のような目と目が視線をぶつけ合った。
「円光さん・・・」
「れ、麗夢殿か!」
 それは紛れもなく円光その人であった。アルファとベータも吼えかかったものか、無邪気に飛びついたものか判断に迷って麗夢の足下で立ちつくしている。
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4.東京上野 対決 その2

2008-04-06 13:11:39 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
「これはどういうことなの?! ミイラなんか盗んで、何をするつもりなの?!」
 いち早く自分を取り戻した麗夢が、語気鋭く円光に迫った。
「な、何故麗夢殿がその事を・・・」
 明らかに狼狽する円光に、麗夢は畳みかけた。
「さあ、馬鹿な真似は止めて、ミイラを返して頂戴、円光さん」
「・・・それはできぬ」
「何故!」
 円光はしばしうつむき、答えたものかどうか迷った。だが、結局は麗夢の瞳に睨まれて抵抗出来る円光ではない。円光は再び顔を上げると、麗夢がかつて見たことのない表情で語りだした。
「・・・拙僧、これまで麗夢殿に隠していたことがござる」
 麗夢は、深刻な悩みと憂いを浮かべた円光の顔に仰天した。
「な、なに?」
 ほんの二、三瞬の見つめあいが十数分のようにも感じられたころ、ようやく円光は二の句を継いだ。
「拙僧、・・・実は人間ではなかったのです」
「何ですって? 円光さん、何を言っているの?」
「拙僧は、拙僧は、ただの人形だったのです!」
 円光の魂の叫びは、麗夢の戸惑いをいやましに増した。
「で、でも円光さん・・・」
「だから、拙僧にはミイラが必要なのです!ミイラを二〇体、それがあれば拙僧はこの偽りの器を真の肉に換えられる。ことが済めば必ずお返し申すゆえ、それまでしばし見逃して下され、麗夢殿!」
「そんなの駄目よ円光さん! 理由がどうあれ、見逃すわけにはいかないわ! それにこの先には榊警部が警備しているのよ!」
「榊殿が・・・」
 円光は再びうつむいた。このまま踏みとどまってかつての旧交を再確認するか、一線を越えて敵として対峙するか。だが、その苦悩も自分に注がれる心配げな二〇の視線に気づいた途端、踏ん切りがついた。もともと、ことの最初から問題は自分だけですむことではなかったのだ。
 円光はゆっくり頭を上げると、まっすぐ麗夢を見つめ返した。
「すまぬ麗夢殿。道を開けて下され」
「円光さん!」
「ごめん!」
 円光は、麗夢を押しのけるようにして博物館に足を向けた。麗夢は、銃口を再び円光に向けた。
「待ちなさい!」
 その瞬間である。
 一人の山伏が円光と麗夢の間に割って入り、円光の身体に抱きついた。
「兄上様、危ない!」
「あにうえさまぁ?!」
 麗夢は目を丸くして驚いた。円光はそんな麗夢に一瞥をくれると、その山伏の肩を両手で包み込み、そっと引き剥がして自分の後ろに追いやった。
「ここは大丈夫だ。拙僧に任せて、蓮花殿は自分のやるべき事を成されよ」
「でも・・・」
「いいから、早く!」
 円光の強い物言いに山伏はびくっと震えると、麗夢をきっと鋭い憎悪の目で睨み付け、仲間の山伏と共に博物館の方に走った。
「あ、待って!」
 呆気にとられていた麗夢が慌てて銃口を山伏達に向け直した時だった。
「ごめん!」
 はっと気がついた瞬間、麗夢は自分の目が捉えた光景が信じられなかった。自分の腹に、円光の右拳が深々と突き立っているのが見えたのだ。山伏に気取られた瞬間、円光が電光石火の早業で麗夢に走り寄り、無防備になったその鳩尾を一撃したのである。
「・・・な、何で・・・?」
 麗夢は信じられない面もちで、薄れゆく視界に円光の姿を追った。
「すまぬ、麗夢殿」
 円光は、一瞬だけはっと驚いた顔をして見せた。円光自身も、自分のしでかしたことが信じられない様であった。だが、それもほんのわずかな間でしかなかった。円光は再び思い詰めた顔で麗夢を見つめると、崩れ落ちる麗夢の肉体をそっと地面に横たえた。
「アルファ、ベータ、麗夢殿を頼む!」
 二頭もこの思いもかけない展開に為す術を知らないまま、走り去る円光を黙って見つめるしかなかった。
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5.円光の謎 その1

2008-04-06 13:11:33 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 意識と無意識が混沌となって交じり合う。
 もどかしい混乱が頭を支配し、やがて、すうっと水面下から首をもたげるように意識が覚醒を促した。
 少し潤みを帯びた瞼が微妙な揺れを見せたかと思った瞬間、ぱっちりと大きな瞳が開く。
「あっ! 気づきましたね麗夢さん!」
 麗夢は何度か瞬きし、ようやく焦点をその整った顔に合わせると、惚けたようにその名前を口にした。
「鬼童さん・・・」
 ついで麗夢は起きようとしたが、すぐに鈍い痛みを腹に覚えて顔をしかめた。
「まだしばらくは横になっていて下さい。すぐに医者を呼んできますから」
 お言葉に甘えて、と再び枕に頭を乗せた麗夢の耳に、アルファ、ベータ、しばらく頼むぞと言って出ていく鬼童の声が届いた。すぐに二頭の元気な返事が聞こえてくる。が、その姿は白いカーテンに遮られて見えない。仕方なしに天井を見上げてみると、のっぺりしたリノリウムと白い蛍光灯が四角くカーテンに区切られて見えるばかりだ。そしてすぐに麗夢は、自分の傍らに点滴用のパックがつり下げられていることに気が付いた。左腕の静脈に、そのパックから下がったチューブの針が刺さり、リバテープで固定されている。そうか、ここは病院なのか、とようやく麗夢は理解した。
 でもどうしてここにいるの? 一体何があったのかしら・・・。
 しばらく麗夢は混乱し、欠落した記憶の糸をたぐり寄せ、唐突に気を失う直前の事を思い出した。
「そうだ! 円光さんは」
 麗夢は反射的に身を起こそうとして、また腹部の鈍痛でベッドに押し戻された。円光に打ち据えられた鳩尾だ。その痛みが、あの時の信じがたい光景を麗夢の目の前にまざまざと描き出した。ごめん、と言いながら自分を失神させた、円光の苦悩と憂い。そして悲痛な決意を込めた目の光。あの目には、話し合いや説得など到底受け付けそうにない強く悲しい意志が込められていた。
 (円光さん、何があったの? それにあの山伏達は一体?)
 麗夢は、自分と円光の間に割って入った山伏の事を思い出した。
 あの山伏は一体なんなのだろう。声から察するにまだ若い女性のようだった。それに円光に呼びかけたあの言葉。「兄上様」とは一体どういう事なのか。円光に妹がいたとは今の今まで知らなかったが。
 麗夢がそんなとりとめもない疑問で頭を一杯にした頃、医者を連れた鬼童が病室に戻ってきた。しばしの間、思考を中断して医師の為すがままに任せる。鳩尾を押されたときは少し顔をしかめたが、最後に手助けされて半身を起こした頃には、気分も随分すっきりとし、より整理された複雑な思考が出来るようになりつつあった。
「もう退院して大丈夫ですよ。おなかの痛みもじきに取れます」
 にこやかに医者が出ていくのを待って、鬼童は麗夢を囲む白いカーテンを引いた。開けた視線に、すぐ心配げなアルファとベータ、それに悄然とした榊の姿が映った。
「榊警部、で、どうなったんですか?」
 榊の言葉を待つまでもなく、その様子から答えはおよそ見当がついた。榊は面目ない、と頭を下げて、警備が完全に失敗したことを麗夢に告げた。
「まんまとしてやられましたよ、麗夢さん」
 榊は、かいつまんで強盗団の手口を披露した。
「夜中の三時頃でした。突然、博物館の周りからお経の様な声が聞こえてきたと思った途端、金縛りというか、警備についていた全員の身体が全く動かなくなってしまったんです」
「じゃあミイラは」
「ええ、我々が動けない内に、堂々と正面から持ってかれましたよ。後の行方も杳として知れないし、全く手がかりなし、です」
 榊はあきらめの気持ちも露わに麗夢に言った。
「僕を蚊帳の外においてするからですよ。麗夢さんまで危ない目に遭わせて」
「面目ない」
 鬼童一人加わったところで事態が改善したかどうかは極めて怪しい。鬼童は超心理物理学という一見怪しげな学問を探究する研究者である。もともと組織になじまない研究一途の変わり者だったが、実験中に研究室一つと同僚一人を失う事故を起こし、城西大学助教授の地位を棒に振った。だが、かえって大学の雑務から解放され、今では一匹狼の研究者として我が世の春を謳歌している。麗夢や榊が直面する問題に、冷静かつ合理的な判断で解決への糸口を提供し、科学の力で麗夢をサポートする貴重な存在である。ただ、麗夢の事が絡むとその氷のような冷静さに刃こぼれが生じがちなのが、円光と共通する玉に瑕と言えた。今もこうしてくどいほどの非難を口にするのも、麗夢を大事に思うあまりの毎度の脱線である。だが、榊は素直に自分の非を認めた。本来なら自分達の力で解決すべき問題に麗夢を巻き込んだのは自分であり、事情はどうあれ、それで麗夢の身を大変な危険にさらしたのは間違いないのである。
「それよりも榊警部、あれはやっぱり、円光さんでした」
 麗夢は円光を発見してから当て身を喰らうまでを詳しく説明した。
「やはり・・・。しかし、一体何故」
「円光め、許せん。麗夢さんにこんな真似をして一体何を考えているんだ!」
 榊からあらかたの事情は聞いていた鬼童も、改めて憤りをあらわにした。鬼童と円光は麗夢を挟んで綱引きを演じるライバルである。但し、その関係は恒にフェアであることを暗黙の了解として互いに心得ており、抜け駆けはこれまで一切ない。だが、鬼童としてはこれならまだ抜け駆けされた方が余程寛容になれただろう。その制止を振り切るためとはいえ、よりにもよって麗夢さんに手を上げるとは見下げ果てた奴だ、と鬼童は口を極めて円光を非難した。
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5.円光の謎 その2

2008-04-06 13:11:27 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
「それはともかく、円光さんと一緒にいた山伏装束の連中は一体何者なのだろう。円光さんは、そいつらに操られていた、と言うことはないのかね麗夢さん」
 榊の問いはあくまで円光をかばおうというものだったが、麗夢は明確にそれを否定した。
「いえ、私が感じた限り、円光さんは正気を失っていたとは思えませんでした。ねえ、アルファ、ベータ」
「にゃん」
「わん、わんわん」
 アルファ、ベータも円光の姿と同時に円光の心が放射するオーラをはっきりと見ている。それは、確かに円光が自我を喪失していたり、血迷っていたりしていないことを示していた。第一、もし円光のオーラに異常があったなら、アルファ、ベータもあれほど躊躇することもなかっただろう。つまり、明らかにいつもの円光が強い意志を持って行動していたとしか考えられないのである。
 ますます奇怪千万だ、とまた疑問の迷宮にとらわれてしまった榊と鬼童に、あ、そうだった、と麗夢は言った。
「確か山伏の一人が、女の子の声で、円光さんを兄上様、と呼んでました。円光さんは、逃げようとするその子に私が銃を向けたのを見て、咄嗟に当て身をしたように思います」
「すると、その山伏姿の娘をかばおうとして?」
「ええ」
 榊と鬼童は信じがたいと眉を顰めつつも、円光の行動の一端がかいま見えたような気がして同じため息をついた。
「円光さんに妹がいたのか・・・」
 しばしの沈黙の末、その線から円光の足取りを探れないのか、と鬼童が言った。
「円光さんに妹がいるなら、家族なり身内なりがどこかにいるんでしょう。円光さんはその辺りに潜んでいるんではないですか?」
 水を向けられた榊は、一層深刻な顔で腕を組んだ。
「それが駄目なんだ」
「どうしてです」
「円光さんは、今のところどこの誰なのかも判らないんだ」
 麗夢、アルファ、ベータが首を傾げた。
「どう言うことなんです? 榊警部」
「実は、警視庁で出来る限りの方法で円光さんの身元を洗ったんだが、何も出てこないんですよ」
 榊は、円光が犯人の一味らしいと言う情報が入った頃から、円光について色々と手を尽くして調査してみた。だが、免許登録もない。戸籍も判らない。もちろん犯罪歴も記録がない。つまり円光という人物が何者なのか、いや、日本人であるのかどうかすら判然としない、いわば幽霊のような存在であることが確認できただけであった。
「そういう意味では全くの謎の人物なんだ。円光さんというのは」
「そういえば、円光さんの本名って、聞いたことがなかったわね」
「うん、姓も知らないし、確かに謎だ」
 円光というのが出家した時の法名であるからには、それ以前に何か別の名前があったはずなのだ。だが、麗夢や鬼童が言うように、誰も円光の本名を知る者はなかった。いや、それを話題にすることすら、今まで思いつかなかった。麗夢達にとって、円光は「円光」という法名だけで十分だったのだ。
「そういえば円光さん、おかしな事を言ってたわ。自分が人間じゃないって。ミイラを使えば偽りの器を真の肉に替えられる、とかなんとか」
「どういう意味です、麗夢さん」
「さあ、私にもさっぱり・・・」
 榊の問いに麗夢も首を傾げるばかりだったが、同じように考え込んでいた鬼童がひょっとして、と言い出した。
「円光さんは、実はジュリアンのような人造人間だった、とか」
「そんな馬鹿な! 円光さんが人造人間だって?」
 鬼童の言葉は余りに唐突で、榊が声を荒げるのも無理はなかった。フランケンシュタイン公国のフロイト城での事件がいくらまだ記憶に新しいからといって、円光まで同じ様な「造られたモノ」だとはいくら何でも飛躍が過ぎる。
「私も違うと思うわ。だって円光さんの夢とジュリアンの夢はまるで違ってたもの。円光さんが人間じゃないとは、私、思えない」
「そ、そうですよね。円光さんが人造人間のはずはない。そうです。その通りです」
 麗夢にまで睨まれて、鬼童は大慌てでさっきの言葉を反古にした。鬼童自身も単なる思いつきの、ほとんど冗談として口にしただけの事であった。
「でも、円光さんって、本当に何者なんだろう?」
 ここに集う恐らく世界で最も円光と親しいはずの三人と二匹でさえ、円光について知っていることと言えば実にわずかなことだけだった。その事に改めて気がついた一同は、心底途方に暮れて天井を仰いだ。もう、偶然の目撃情報以外に追いかける術がない。だが、それは既に不可能と言って良かった。実際、これまで全国各地で大量のミイラが盗難にあっているというのに、犯人達に関する情報は驚くほど乏しいものでしかなかった。ミイラなどというかさばるものを運びながら、一体どうやって移動しているのかすら皆目見当もつかないのである。昨日、円光とその妹らしい山伏が見つかったのは、希少な例外だったのだ。
 もはや手がかりゼロで事件は迷宮入りするしかないのか、と皆が諦めかけた頃、病室のドアにノックの音が響いた。応対に出た榊は、ドアの向こうに引き続き博物館で捜査にあたっている部下の姿を見て、何か新しい動きがあったことを直感した。二言三言ひそひそと言葉を交わし、部下を帰した榊は、藁をもすがる思いの一同を振り返って笑顔を見せた。
「ひょっとしたら円光さんの行く先がつかめるかも知れない。まだ一カ所だけ、盗まれていないミイラがあったんだ」
 麗夢と鬼童は顔を見合わせると、詳しく教えてくれるよう榊にせがんだ。
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6.円光悩乱 その1

2008-04-06 13:10:49 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 日本全国を見渡してみても、近畿の山々ほど、その山肌を宗教色に塗り込めた所はそうないであろう。真言宗高野山金剛峰寺。天台宗比叡山延暦寺。山そのものがご神体という三輪明神。生駒聖天宝山寺など、主だった山はほぼ何らかの宗教と関わりを持っている。
 その中でも山伏の影は大変に濃い。
 吉野山から熊野にかけて紀伊半島を縦断する大峯山修験道や、葛城山から金剛山地に沿って展開する葛城修験二八品の行場を筆頭に、今も信仰を集めている場所がたくさんある。また、今では滅多に人のこなくなった山深い谷の奥にも、かつての信仰の跡が刻まれていることが少なくない。たとえばこの奈良、京都、滋賀の三府県にまたがる山塊は、標高こそ千メートル未満とさほどではないが、常人の足を躊躇わせるにたる、重畳とした山並みが深い森を形作っている。その谷間の奥深く、今、円光が打たれる小さな瀧の側にも、垂直に立つ崖の一枚岩に背丈ほどの不動明王が刻まれ、往事の信仰を今に伝えていた。
 辺りは蝉の声と瀧や瀬の音だけに満ちており、時折郭公の惚けたような声が聞こえると、かえって静けさが実感されるほど、絶えて人の気配がない。
 そののどかな世界の中で、一人円光は、一心に経を口ずさみつつ内心吹き荒れる動揺と戦い続けていた。しかし、いかに身を切る冷たさの瀧の清水に打たれようとも、般若心経を声高に唱えてみても、円光は一向に修行に打ち込むことが出来なかった。
 惑乱する心にただ思い出されるのは、上野公園で崩折れた愛しき人の姿ばかりである。
 とっさのことだったとはいえ、自分はなんと愚かで罪深いことをしてしまったことだろうか。
 印を結ぶ右手の拳には、まるでさっき灼熱の鉄印で焼き付けられでもしたかのように、あの柔らかな肉の感触がはっきりと残り、円光の罪の意識を刺激してやまない。
 他に何かやりようがなかったのか。
 麗夢殿、許して下され!・・・ 
 贖いがたい後悔が心を押しつぶしそうになる。
 いっそこのまま谷川の水に身を溶かし、いずれなりとも流れ去ってしまいたい。
 所詮自分は人ならぬ身の上なのだから・・・。
 自分が母なる人の胎内より生まれ出たのではない、と、月山の裾野、御浜池のほとりで道賢に告げられたその一言ほど、円光を驚かしたものはなかった。そして確に、考えてみると、ついこの間フランケンシュタイン公国で出会った人造人間は、少なくとも円光には人にしか見えなかった。あのような者が現実にいるからには、自分もその同類である可能性も無いわけでは無かろう。
 だが、いずれにしても円光にはもう後戻りする道は閉ざされていた。
 既に自分は榊の警備を排除してミイラ強奪を実行し、あまつさえ、麗夢にこの拳をふるってしまったのだ。
 ああ、どうしてあんな事をしてしまったのか。
 何故、もっと冷静に動けなかったのか。
 自然と一体になり、雑念を払う積もりの滝の行も、今の円光にはただ後悔の念を募らせるための苦行にしかならない。円光はどうしようもなく落ち込む自分を自覚しながら、為す術もないまま滝の中に立ち尽くすばかりであった。
「兄上様、そろそろ参りませんと」
 そんな円光におずおずと控えめに声をかけてきたのは、蓮花と名乗る妹の一人だった。
「もうそんな刻限か」
 円光は、内心無限地獄から救われる思いがして、滝壷から足を踏み出した。
 途端に蓮花があっと小さく声を上げて、円光から視線を逸らした。
 はて、と首を傾げて、円光は唐突に自分の格好に気がついた。滝に打たれるために、今は下帯一つになっていたことを思い出したのである。
「済まぬ済まぬ。今着替えるからしばらくあっちを向いていてくれ」
 耳まで朱に染めた妹の可憐さにふと笑みを浮かべながら、円光は傍らの岩場に畳んでおいた墨染め衣を手に取った。すると、向こうを向いたまま、蓮花が言いにくそうに円光へ話しかけた。
「・・・兄上様、一つ伺いたいことがございます」
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6.円光悩乱 その2

2008-04-06 13:10:42 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
「何かな。拙僧に答えられる事なら良いが」
「あの女の人」
「え?」
「あの、上野公園で出会った女の人、あれは兄上様とどういう御関係の方なのですか?!」
 随分言うか言うまいか悩んでいたのであろう。そのためにいざ言うと決めた言葉には、無理矢理思い切るための助走距離の分、思いの外強い口調になって蓮花の口を飛び出していた。言った方は自分でも思いもよらなかった詰問調にはっと驚いた顔になったが、言われた方も今の今までその事で思い悩んでいただけに、余計胸にこたえて、ただただ愕然とするばかりであった。
「それは、その・・・なんだ・・・。」
 円光が言葉に窮してしどろもどろになったのを幸い、勢いを取り戻した蓮花が、この機に乗じて畳みかけた。
「はっきりおっしゃって下さい! 麗夢さんとおっしゃいましたね。あの方は兄上様とどういうご関係なのですか!」
「れ、蓮花殿には関係ない!」
 蓮花の強攻にたじたじとなった円光は、虚勢を張って突き放した。だが、こうなっては蓮花も今更引くわけには行かない。
「兄上様! 兄上様がこんなところで道草を食っておいでなのは、さしずめそのお人が気にかかるからでございましょう! 大事の前に兄上様がそんな事では、蓮花も困ります!」
 げに恐ろしきは女の勘であろう。円光は再び正確に胸中を指摘されて、呆然と顔を青ざめさせた。言葉を失い、冷や汗をあふれさせる円光に、蓮花は小さくため息をついた。
「判りました。兄上様の過去はもうたずねません。ですが兄上様、これだけははっきりとおっしゃって下さい。もうあの方とは何の関係もございませんね」
「・・・」
「兄上様は蓮花を守って下さるために、あの方に手をおかけ遊ばしました。あれにてあの方のことは思い切ったと思ってよろしゅうございますね」
 いつの間にか、他の妹達も蓮花の背後に集まってきていた。滝へ行った蓮花の帰りが遅いのを不審に思ったのだろうが、円光としては更なる窮地に追い込まれたに過ぎない。程なく話の内容を察した妹達が、口を揃えて円光に迫ってきたからである。
「兄上様! いかがなされたのです!」
「早くご返答を!」
「兄上様のお気持ち、しかと伺いとうございます!」
「兄上様!」
「兄上!」
(ううう、これも御仏の与えたもうた試練の一つか・・・それとも、麗夢殿に手をかけた報いなのか・・・)
 皆の剣幕に思わず後じさった円光は、河原の石に足を取られ、どうと滝壺にしりもちをついた。同時に盛大な水しぶきが妹達にも襲いかかる。
「きゃあ!」
 口々に悲鳴を上げて、軒を連ねた蓮花達がどっと後ろに飛びのがれた。互いに互いを巻き込みあって倒れ込み、狭い河原は一時大混乱となる。
「何をしとるか、この愚か者共!」
 なかなか上がってこない一同に、業を煮やした道賢の雷が落ちた。たちまち妹達がくもの子を散らすようにさっと逃げ走る。だが、蓮花だけは逃げる際に円光の方をきっと睨んだ。
「兄上様、先ほどのお答え、いずれきっちりと伺わせていただきます!」
 円光は鼻先に滴を垂らしながら、逃げていく蓮花の背中をただ見送るばかりであった。
「円光、主も何をしておる。早く水から上がれ!」
 道賢の言葉に、円光はやっと我に返った。
 もはや悩んでいても仕方がない。取りあえず前に進まねば。
 円光は、今ひとつ割り切れない思いに不安を覚えながら、妙に現実感の乏しい一歩を、岸に上げた。
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7.京都 阿弥陀寺 最後の即身仏 その1

2008-04-06 13:10:37 | 麗夢小説『夢曼荼羅 円光地獄変』
 京都は懐が深い。
 府庁所在地京都市は、千年以上に渡って栄えた日本最大の都市、平安京の歴史をすっかり飲み込み、更に周辺へと拡大を続けている。今では既に「日本一」の地位から滑り落ちた一地方都市に過ぎないが、全世界から客を集めることが出来る日本最強の観光都市としての地位は未だに失陥していない。そのドル箱というべき観光地は市の中心街のみならず、東西南北のはずれにも広く分布している。中でも北方には、既に市域と呼ぶにはためらいいすら覚える深い山の狭間に、京都を代表する観光地がある。
 京都市左京区大原。
 かつて、遠く日本海で上がる海産物を輸送した通称鯖街道こと現在の国道367号線沿いに生まれたこの地域は、東に天台宗総本山の比叡山、西に源義経の伝説が生きる鞍馬山を控え、平家物語における悲劇のヒロイン、建礼門院の隠居所として名高い洛北の名勝である。市街から車で山道を一時間も掛けてくねくねと走る「奥」にありながら、年間何十万人もの観光客が足を運ぶ。
 だが、更にその奥まで足を伸ばす者となるとほんの一つまみに過ぎないだろう。麗夢と鬼童はそんな数少ない例外として、鯖街道を更に2キロほど北上しつつあった。
「確かこの辺りのはずだわね・・・」
 ハンドルを握る麗夢は、あれほど開けた京都の町並みが、急にシンとした山道へ変貌したことに驚いていた。深い谷間を走る道は、その両側を挟み込むように杉林が迫り、ヘッドライトの光が遮られてまるで先が伺えない。前後を走る車もなく、麗夢の駆るプジョ-205カブリオレだけが、軽快なエンジン音を唸らせて夜の山道を疾駆するばかりである。
「あ、あれじゃないですか、麗夢さん」
 助手席で、膝に地図を広げながら真っ暗な外を眺めていた鬼童は、ヘッドライトにようやくそれらしい看板が浮かんだのを目ざとく見つけて麗夢に注意を促した。麗夢も、慎重に速度を落として鬼童の指さす左手に目をやった。その先に、駐車場、とかかれた看板が一枚、杉の木に見え隠れしつつ現れる。本当に小さな看板で、知らないでいたら見過ごしてしまうような控えめな姿である。麗夢は看板とその脇に現れた細い横道を確かめると、ステアリングを左に切った。
 プジョーが滑らかに滑り込んだ道は、直ぐに少し開けた広場に繋がっていた。ここが駐車場というわけだ。十数台分ほどの山中にしては立派な駐車場の一角に愛車を止めた麗夢は、車を降りるなり、うーんと思い切りよく伸びをした。
「さすがに走り続けっていうのはこたえるわぁ」
「にゃあぁん」
「きゅーん!」
 アルファ、ベータも後部座席から飛び降りると、身体を弓なりに伸ばして疲れをほぐした。
 現在の時刻は午後11時。
 麗夢が病院で目覚めてから既に13時間が経過している。榊警部の説明を受けて直ぐに取るものも取りあえず、東名から名神高速を飛ばして来たが、はたして間に合ったかどうか。
「静かですね、麗夢さん」
 鬼童は、ぶるっと身を震わせて思わず腕を組んだ。夏の盛りではあったが、夜中の山は思いの外気温が下がる。わずかに開けた頭上には、今にも落ちてきそうな程に星々の光が瞬き重なって、天を埋め尽くしている。だが、辺りに人工の光は一つとして見あたらない。プジョーのライトを切ってしまえば、目の前に持ってきた自分の手すら見えない闇に包まれる。
「そうね、この様子ではまだ円光さん達来てないんだわ。ベータ、何か感じる?」
「わんわん!」
「そう、やっぱりまだみたいよ。ベータも円光さんの気配はまるで感じないって」
 そうですかと頷くと、鬼童はじっと闇に目を凝らして言った。
「しかし、こう暗いと円光さんが来てもはたして捕まえられるかどうか判りませんね。どうします? 麗夢さん」
「取りあえず円光さん達が狙うはずのものを先に確かめておきましょう。それからどう迎え撃つか考えないと」
 麗夢はそういうと、手にしたペンライトのスイッチを入れた。光量の乏しいライトではあったが、ここでは貴重な人工光源である。
「行きましょう、鬼童さん」
 麗夢は、先に立って参道らしい石段の方に足を向けた。その足下辺りでちらちらと四つの小さい光が瞬くのは、アルファとベータの瞳であろう。鬼童もポケットから自分のペンライトを取り出すと、いつでも点けられるように手に持った。
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