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イルカはサメになれない~補足編

2007年03月13日 21時53分27秒 | 俺のそれ
さすが内閣府(なーんてね、笑)。最近頑張っていますね。大変勉強になる資料があったので、挙げておきます。

今週の指標 No792

これをもって、単純な考察や結論を導くのは困難かもしれませんが、中々良い分析であると思います。グラフで見た方が判りやすいですが、一応、サマリー部分を一部引用させて頂くと、次の通りです。


具体的には、日経NEEDSから取得できる東証一部上場企業の財務諸表から個別企業のパネルデータを用いて、賃金交渉モデルに基づき実証分析を行った(詳細は備考参照)。先行研究によると、企業の雇用調整速度は、赤字に陥るなど企業の存続が危ぶまれる状況で早くなること、また、内部者(従業員)の影響力が強いと調整速度が遅くなることが知られている。 そこで、検証仮説として、債務を抱えた企業ではその存続が危ぶまれることから賃金抑制度も強くなるのではないか、その際、内部者の影響力が強い企業では賃金抑制は弱く、株主など外部者の影響力が強い企業(機関投資家の持ち株比率が高い企業及び株式の安定保有比率が低い企業)は賃金抑制も強いのではないかと仮定した。

検証結果(図3)をみると、企業計でみて債務の存在は賃金に対して抑制的な効果を持つ。しかし、株主から影響を受けやすいと考えられる企業とそうでない企業に分けて分析すると、前者の場合のみが賃金に対して抑制的な効果を与えることが分かる。 この結果は、企業経営に対する株主の影響が相対的に強い企業では、債務の高まりが賃金を抑制する一方、株式持合い等によって株主の経営に対する影響が相対的に弱い企業では、従業員の利害が優先され、債務が高まったとしても、賃金がそれほど抑制されないことを示唆している。


これには良い面と悪い面があると思われる。統治の問題として、「経営が甘くなりやすい」というようなことが起こりやすくなるのかもしれない。平たく言えば放漫経営だ。しかし一方では、従業員に対する分配効果が高くなると考えられ、優秀な企業経営者の下においては、債務負担以上のリターンを得られる限り経営的な問題は発生せず、従業員の忠誠心や労働意欲という別な形で貢献が得られる可能性も考えられる。


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続々・イルカはサメになれない~株主と従業員

外国人投資家が日本株を多く保有するようになり、従業員は給料を削られる(=賃金抑制効果)ようになってしまった、と前の記事に書いたのが、あながち大外れでもなかったのだな、と思った。



私の考え方としての大前提を書いておく。
売上が減るとかで業績が悪い時、「首切り」とか減給で対処するのは、誰でも考え付く方法なのであまりに普通である。一般の家庭であっても、収入が減ってしまった場合に「父ちゃんの小遣い」をまず減額、次に息子・娘の小遣いを減額、みたいなことは誰でも考えられるし、実行可能性は容易だと思える。それは平凡な主婦であってもできる、ということ。やりくり上手とは、父ちゃんや息子・娘の「不満度」をほとんど変えることなく、家族が気付かないくらいに収入減少分をカバー(どこかで節約している、ということだ)することなのである。でも、収入が減ったからと言って、いちいち息子や娘を放り出すかね?「おまえは何処かへ行ってくれ」とか、果たしてできるのか?そういうことをどうしても考えてしまうのだ。そりゃ、本当に会社が苦しくなったら、人員整理も止むを得ない場合はあるだろう。けれど、それは「最終手段」であって、経営側が死ぬほど努力をした結果なのかと言えばそうでもないんだよ。リストラした人数が多い方が経営者の評価として上がる、というのは、どう考えても解せないのですよ。

それは要するに、首切りに伴う「苦痛」や「摩擦」はかなりあるだろうから、それでも「俺は実行できるぜ」と言って、やってのけられるヤツが「優秀な経営者」みたいに言われるのだよ。非情さを持ってりゃいいのかよ、って話になってしまう。それは、本質的にはオカシイんじゃないか、と思うのですよ。以前書いたのだけれど、トヨタの奥田さんを割りと信頼していたのは、従業員を見捨てることをしなかった経営者だったからだ(成果主義は日本にとって本当に良かったのか?)。実際見たことも会ったこともないので、本当の実力や評価は知らない。私の買いかぶりに過ぎないのかもしれない。だが、リストラしないという姿勢を明確に打ち出したことは、企業経営者として高く評価されるべきだと私自身は思っている(企業経営に関わる経験がないからそんなことが言えるだけなのかもしれない)。企業経営者として守るべきものは、必ずあるはずだ。

ところが日本の経営者たちの多くは違っていたのだ。


退席しますので、後で追加したいと思います。


「そろばん」はスポーツ

2007年03月13日 18時29分25秒 | 俺のそれ
finalventさんが触れていた(finalventの日記)ので、ちょっと便乗。


昔は塾というと、習字かそろばんくらいしかなかった(ウチの近所では)。小学校の時、やむなく週に1回とか通っていた。民家の普通の部屋で、ゴロゴロと子どもが集まり、狭っ苦しい中で、折りたたみの長い机に3人横並びとかで、正座してやってた。級があるだけで、学年とか全く関係がなかった。後から入ってきた子なんかだと、学年が上であっても級が下という子は普通にいたので、特別な意識とかはなかった。級が上がっていくのが早い子もいれば、そうでもない子もいたが、それで差別的とかイジメとか全くなかった。恐らくそんなこと、誰も気にも留めていなかったろう。検定に合格すると、みんなの前で順番に名前を呼ばれて賞状を手渡され、よく判らないけれども全員拍手をしていたように思う。

年長の子どもたち(とは言っても、その当時で6年生くらいだったろうが、随分と大人っぽく思えた)は、無駄話とかふざけたりとかしないで真剣にやっていたので、年少の子たちはそういうのを見て何となく「ちゃんとやらなくちゃ」みたいな雰囲気を学んでいたように思う。読み上げ算とかやる時、しーんとした中で黙々とやる、みたいな。塾のおばさん(と言っても、当時で30代くらいだったろうか?)が厳しく注意しなくても、何となくそういう具合になっていた。

<寄り道:最近の学校では授業中に騒がしくて、先生が注意してもおしゃべりを止めないとか、全校集会みたいな時に校長先生が話をしていてもうるさい、といったことがあるらしい。>


そろばん塾の先生のお母さんがいて、多分民家の居間でやっていたので塾の日には居場所がなくなるのであろう。ストーブの脇の長イスに座って編み物などをずーっとやっていたりして、時々そのおばさんの近くに座ることがあると、何故か褒めてもらえたりした。そのおばさんは愛想のいい人であったので、「もう暗算できるの。頑張りなさいね」みたいなことを、そばに座った子どもたちの誰にでも言うのであった。

中学の同級生に算盤十段というヤツがいて(別な珠算塾であったので、全く知らなかった)、鬼のような暗算を披露された記憶がある。よく「瞬殺!」みたいな表現をアニメか何かで見かけるが、まさしくそれだ。直ぐに答えが出る。見る、答える、みたいな感じ。コイツは一体どうなっているのだろう?とか不思議であったが、勉強の成績はありふれていて、特別どうということはなかったのも何故なのかと思っていた。当時、全国で通算50人も存在していなかった「十段」というのが同級生にいるというのは、結構スゴイと思っていた。

自分は暗算が大の苦手で、イメージングが全くクリアできなかった。どうしてなのか判らないが、きっと水泳で息継ぎができないのと似ているのかもしれない、と思った。乗り越えるキッカケが掴めないまま過ぎていたのだと思う。なので自分としては、暗算は捨てていた(笑)。応用問題でいいや、と逃げていた。結局そのまま過ぎ去ってしまった…。悔いが残る。

学校の算数の授業で、小学校2年生とか3年生くらいの頃に、算盤があったように思う。数回だけやった記憶がある。その時、世の中にはボタンを押すと「珠がそろう」算盤があるということを、初めて知った(笑)。普通は、人差し指で端から端まで「ジャー」ってやらなければならないのだが、クラスの中にボタン式でそれができる算盤を持ってきていた同級生がいたからであった。どうでもいい記憶だ。


本題の暗算のことを書いておこう。個人的印象なのだが、多分、暗算だけに限らず、そろばんというもの自体が、およそスポーツ的なものに近く、訓練のやり方でかなりできるようになり、その大半がイメージングのトレーニングに費やされるのではなかろうか、と思った。十段の同級生を見ていてもそういう感じがした。


それから、「計算技能世界一決定戦」というのがここ数年あるらしく、時々ニュースに出るが、確か日本人の暗算チームが強かったように記憶している。この大会は電卓だろうが、算盤だろうが、どんな計算機を用いてもいいのだが、最も早く正確に答えを出せればいいのである。つまりは暗算が最強、ということになりやすいのだろうと思う。電卓のキーを押す時間よりは早い場合が多いであろう。ルート計算とかは電卓有利かもしれないな。ちょっと想像がつかないのだが、非常によく訓練された暗算スペシャリストは、計算機操作よりは有利、と思う。

こういうのは、恐らく脳の鍛え方の「何か」なんだろうな、と思うので、題材としては面白いと思う。>茂木先生いかがでしょうか?



知識人へのリスペクト…?

2007年03月13日 12時42分39秒 | 俺のそれ
昨日はあれこれと変なことを書いてしまったが、もう少し書いておきたい。

白ウサギ殿が気分を害されたのであれば、それは本意ではない。しかし、何かの行動、言説といったものが悪影響を持つに至るのであれば、そうしたことは当然自制するべきであると思っている。知識人へのリスペクトを失わせているのは、それらの言説をばら撒いている「自分たち」である、ということへの自覚を持ってもらいたい。特に教育的立場にあるような人間が自らそういう行為を行うことが、どういう風に伝播するか、それがよい影響を持つのか、何かの創造に繋がっていくものなのか、大人におかれては全て判った上でのことであると思う。それ故、非難しているのである。

「ふざけてはいけない」とか思っているわけでもないし、「好きなことを書いて何が悪い」という意見もあるとは思うが、現実に言及していい範囲とそうでない範囲というのはあるのではないかと思う。それとも、知識人への信頼を失わせることを望んでいるのであろうか?インテリを自認するのであれば、言説の「中身」を批判するべきではないのか?「文学者の○○は癇癪持ちなので、書いてる内容は間違いだ」といった批判をするであろうか?デンパ艦長はこれと似たような言い方―「マクロの専門家ではない~や○○」のような表現―をするが、こういうのを「肯定する」というのは如何なものか、としか思えないのである。素人が言おうが、専門家が言おうが、別に関係ないだろうし、中身が大事なのではないのか?デンパ艦長の物言いや豪語癖については、これまでに何度か苦言を呈してきたが、当人がどれほど自覚的なのかは判らない。まあ、そういう程度の品性であろうことは容易に想像できる。


「クルーダス」氏にしても、もてはやされていい部分と、芸では済まない部分というのが当然あることは重々承知しているであろうし、実際過去に訴訟にまで発展している歴史をお持ちの方ですので、周りがとやかく言う必要もないであろう。デンパ艦長とのバトルの時にクルーダスの意見を支持したのは、「クルーダスという人間」の支持をした訳でないし、彼の人物像について賞賛の意を表明した訳でもない。ただ単に、主張の内容を見た結果「なるほど」と思ったに過ぎない。許容されうる言論の範囲から逸脱して、ただの「個人の否定」に過ぎないものは排除されるべきであろう。その意味においては、彼の反論は対抗言論であると思えた。しかし、罵倒や個人否定をやりたいのなら、どこかの下らない掲示板にでも出かけていって、同じレベルの連中を相手にして、いつまでもガキみたいに好きにやってろ、と思う。


いずれにせよ、目立つ方々には極力「antisocial」な行為は避けて頂きたいと思う。