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医療不審死の問題

2006年08月24日 15時43分16秒 | 法と医療
昨今の医療訴訟増加や刑事事件への発展などを受けて、厚生労働省が考える、ということのようです。

医療不審死、厚労省が08年度にも究明機関設置へ 社会 YOMIURI ONLINE(読売新聞)


「不審死」というのもよく判らないのであるが、患者の家族側からの提訴のような場合ということでしょうか。病院側からの説明で納得すれば「不審」でない、ということなんでしょうか。医療側は死亡理由は大体判っているので、不審でも何でもないことが多いのではないでしょうか。でも、実際には過失であるかもしれないし、仮にそうであっても隠そうとすることが多いから、ということでしょうね。それは罰をうけてしまうから、ということでもあります。


専門外ですけれども、一応書いてみようと思います。私自身が被害者とかその家族になったことがないので、当事者以外に何が判るんだ、というような批判があるかもしれませんが。

参考記事:
サンバの幻想?

出生時の過誤と裁判


上の参考記事にも出てきましたが、ADRという方法は既にあります。ただ、「過失があったのではないか」と考える患者やその家族にとっては、気持ちが晴らせない、という側面はあるかと思います。「どうして死んだのか」などの真実に迫れないからであり、過失と同等の苦しみをその行為者に与えないと、被害者感情の救済ができにくいから、ということも有り得るかもしれません。一般的に「悪者探し、犯人探し」傾向があるように感じられますし、「お前が悪いんだろう!謝れ、土下座して謝れ、詫びろ!!」という感情も理解できなくはないです。事故などの責任追及とかで、報道関係者の姿勢なんかを見ていると、それが垣間見られるように思います。なので、ADRという解決方法では不十分である、という面もあるかもしれません。


医療の賠償責任保険ですけれども、存在しないと思っている人々もおられるかもしれませんが、既に存在しています。これも、以前の記事のコメント(医療費削減と過失の狭間)にちょっと書きました。長期の裁判になってしまったりしたら、双方多大な労力を必要としますし、例えば小さな個人経営の診療所であれば、休むことになってしまい経営的に困るでしょう。それに、「裁判になっているらしいわよ」とかの評判が立てば、誰も来なくなりますから経営できなくなるかもしれません。なので、面倒な裁判に巻き込まれるくらいなら、たとえ自分にミスがなかったとしても、保険で払って解決した方が楽だと考えることも十分有り得ます。日本での訴訟件数や賠償額はアメリカのような状況にはなっていないため、まだ少額の保険料で済むハズです。しかし、今後訴訟件数が増加していく一方であれば、そのコストはアップするでしょう。


医療訴訟 - Wikipedia


公的な病院に勤務していれば、被告は大抵病院を運営する主体が含まれます。例えば国立病院ならば、国が訴えられ賠償金を払わされることになるかと思います(今は国立病院はなくなったけど。特別法人だったかな)。しかし、民事訴訟で負けた場合、国が払った賠償金の殆どが、国から医師個人へ請求されるのが一般的ではないかと思います。なので、医師個人は自分で任意の賠償責任保険に加入することが多いのではないかと思いますが、実態はよく知りません。個人経営の診療所であれば、当然加入すると思いますね。


医療側はこうしたコストアップを引き受けざるを得ないのですが、これを価格転嫁することはできません。価格統制によって診療報酬の殆どが決められているからで、安全面とか訴訟面などのコスト増は全て人件費などの他の経費削減によって対応せざるを得ないのです。となれば、リスクは増大する、時間の制約は多い、責任だけは重い、ということになります。多くの医師が多額の収入を得ていると考えている人たちも結構いると思いますけれども、公的病院は公務員と同じく決まった給料しか貰えないし、病院長なんかの特定ポストに就けばアップするかもしれませんが、その数がべら棒に多いとも言えないでしょう。また、個人開業ということもありますが、大抵は開業するまでに大学病院の医局などに在籍していて修行をしていなければならず、開業するにも初期投資は多額の費用がかかるでしょう。45歳くらいで開業できたとして(平均は忘れたけれど、40歳過ぎだったはずです)、せいぜい20年くらいしかできないのです。その上、退職金も勿論ありません。なので、開業している20年間で全ての投資額を回収し、なおかつ退職金と同等の資産が形成されていなければ割りに合わないでしょう。故に、個人開業医は減少しており、勤務医が大幅に増えています。それか、儲かる美容外科とか、揶揄の多いコンタクト眼科医なんかになれば、そこそこいいのかもしれませんが、殆どの医師たちは思ったほどの高給取りにはなっていないと思いますけど。テレビなんかで、「セレブ」だの何だのと大金持ちが多いと思っている人もいるでしょうが、そんなのは全体から見ればごく僅かでしょうね。


安全の為のコストというのは、患者の数が少なくてもかかってしまいます。例えば、高額な検査器機(CTとかMRI やエコーとか)は、利用する患者数が多ければ多いほどペイしやすいですよね、当たり前なんですが。なので、病院自体の(初期)投資がある水準でかかってしまうため、田舎とかの人口の少ない地域では経営的に苦しいのは当然です。産科もそうですよね。利用する潜在的な患者数が多ければ、例えば聖路加みたなリッチでゴージャスな出産もできるかもしれませんが、地方でそんな金を払ってもいいと考える人も非常に少ないし、そもそも利用する人数が少ないのですから、大した設備投資はできないのです。ところが、人員配置も、安全上のためのコストも、ある程度の水準でかかってくてしまうのです。福島県の産科医の事件では、産科医が「1人で手術したのが」過失であった(一般外科の医師と伴に手術はしていたけれど)、とか言われるのです。多くの国民は金は安い金額しか払わないが、イメージして求めている医療水準は、それこそ名医と同じ最高水準が当然である、というような気がします。それは土台無理な話なのではないかと。


<ちょっと寄り道:因みに、妊娠・出産というのは「疾病」ではありませんからね、基本的には。正常な生体反応の一部に過ぎないです。なので、保険医療とも直接的には関係ない部分がありますね。特別な状態ならば保険適用になる範囲もあるのかもしれませんが。帝王切開とか。普通は、出産費用の大半は健康保険から事後的に給付されるので、実質的には殆ど保険医療に近いとも言えますけど。
昔から「難産」という事態は、婆さんたちの知恵の中で危険性が知られてきたのだけれど、今の人たちにはそういうことが理解できないのだろうと思う。病院でならば、必ず安全なはずだ、という誤解があると思う。>


病院を利用する患者層を「周囲1時間圏内」(車や電車などの交通手段で)と仮に考えて、地域特性(疾病の発生率とか偏りとか・・・)はないものとして、受診可能性というのは人口に依存するでしょう。小児科であれば、その地域にいる子供が1000人いれば、疾病発生確率に応じて受診してくる、というようなことです。なので、大都会は有利ですね。医療費の収益は基本的に地域によって「値段」に違いがない(一般的には保険診療における診療報酬)ので、売上は患者数によって決まります。つまり、患者数が多ければ収益は多くなり、少なければ減るのは当たり前です。全くいい加減なのですけど、1人の医師が潜在的患者層を300人受け持つと仮定すれば、人口の多い地域では3人とか(もっとかもしれないが)の複数医師が存在しても経営できるということになりますが、田舎の病院になってしまえば1人しか配置できない(ゼロかもしれないが)ということは普通に起こりえますよね。それに、田舎の病院だからといっても、エコーはなくていい、とかにはならないので、同じ器械を1億円で購入しても、人口の多い地域ではこれを900人が利用するのと、田舎で300人が利用するのでは、全く意味が違うのですよ。でも、安全とか医療の診断技術とか、そういうのを都会も田舎も同等に保たねばならんのですよ。月に1回しか撮影しないCTであろうと、月に1,000回撮影するCTであろうと、投資額は同じ(全く同じ器械なら)であり、万が一何か問題が起こって撮影してなかったら「過失」認定なのですよ。「現在の医療水準に照らせば、当然撮影しなければならない」ということになるわけですから。なので、田舎の方が医療資源への投資は大きな負担になるに決まってるのです。


でも、安全や質の向上を目指すなら、投資せざる得ないのですよ。そして、医師の人員さえも、患者数ではまかないきれないけれど、「配置してくれ」ということなのですよ。もしも、1人でやったことが過失だった、となってしまうなら、田舎では引き受けられない、ということが更に多くなるでしょう。何でも「都会の病院に行ってくれ」ということになるでしょう。


外科医が100人いて、50番目のところが「平均的」な能力を有する外科医であるとしましょう。1番が名医中の名医ということで、下の方に行けばちょっと腕が落ちるね、とか、難しい手術は担当できない、とか、そういうことであるとしましょう。過失追及というのは、患者サイドとしては、1番か少なくともトップ10くらいの人の能力でやってくれ、とか思ってるのではないかと思われ、名医がやっていれば「ひょっとすれば助かったかもしれない」という後付けの理屈で責任が追及されるのではないかと思えます。実際どうなのかは不明なのですけれども。水準が一定の医療は望ましいけれども、それを行うのには限界があります。医師個人の能力は実際には異なっているのですよ。名医になれるまでやらないで、ということなら、そこに到達するまでのコストを社会全体で負担するしかないんですよ。「黙っていても名医が誕生する」と思っているのなら、それは無理ですね。


医療側が結果責任を問われるのは判ります。その責任を負っている職務であることも。でも、裁判官だって、間違えたりしてるじゃないですか。医師は一生涯の中で一度もそれが許されない、ということですよ。裁判官は間違って判決を読み上げようとも、刑期を間違えようとも、罪に問われないし、過失責任を取らないでしょ?しかし、医師は違うんですよ。間違って処方箋を書いたら、過失です。刑事責任も追及されます。何が違うと思いますか?医師は処方箋を間違えて書き、もし服用した患者が死んだら業務上過失致死罪です。裁判官が判決を間違って書くのと、ミスの種類に違いがありますか?

その負ってる責任と、報酬は比例するのでしょうか?私には判らないのですが。


普通、大学を卒業してからある程度使える医師になるまでには、かなりの時間がかかります。公務員はサービス残業が多くて大変なんだとか、民間はもっと苦しいとか、言ったりしますが、医師たちも大体そうだと思いますよ。昔は過酷な環境だったのですが、最近は判決などの効果で労働者の待遇に近くなってきたと思いますけど。よく若い医師の過労死なんかが報道されたりしましたが、家に帰れない日が続くことなんてザラにあったでしょう。連日の泊り込みは、普通ですよね。当直とかじゃなく。給料だって、特別高給という訳でもないですからね。大学の医局に残っていたって、ポストがないのだから、給料なんてまともに出ないですからね。助手とかの決まったポストに就けるのは、極々限られた人たちだけです。多くは日雇い労働者と同じ扱いを受けて、ひたすら修行するしかないのですよ。医局の関連病院とか地方の病院に出されたりして、決まったポストに就くことができれば、ようやく公務員程度の給料が貰えたのだろうと思いますけど。そういうのを10年とか20年とかやって、その後にようやく回収作業に取り掛かれるかな、という程度ではないでしょうか。講談社の社員の方がはるかに高給取りですよ(笑)。


大学医局の徒弟制度みたいなのは、それなりに機能していたと思いますが、若い時代にはそりゃ過酷だったろうと思いますよ。そういう下働きの兵隊がいることで、ようやく医療制度というのが成り立っていたのですよ。地方の病院が医師不足になってきているところがある、というのは、昔は医局が関連病院としてそこの人事権を持つ代わりに、医局員に給料を確保するというちょっと歪んだシステムが作られていたのですよ。ところが、医局支配は崩れてきて、派遣するべき医師を持つ組織がなくなってしまったのでしょう。その結果、誰も来ないということが起こってきているのでしょうね。


昔は、こうした徒弟制度の中で、若手は奴隷のようにこき使われ、それでも何かの使命感があって、そういう期間を耐え忍ぶことができたのではないかと思います。下っ端の「兵隊」というのは、医師たちの善意によってのみ成り立っていたのです。今はどうなのか知らないです。研修医制度にもなったし、医局支配は緩んだので、随分と改善されてきたのではないかと思いますが。その結果、合理的な行動をする割合が増えてきてるのではないかと思いますけど。どうなんでしょうか。大体知人などから聞く話しか判らないので、実態は現場の人間に聞いてもらった方がいいと思います。




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