これも、幾度か目にしたお話だね。
>経済って成長し続けなきゃいけないの?~『経済成長という病』 平川 克美著(評者:澁川 祐子):日経ビジネスオンライン
(一部引用)
だが、とも思う。経済成長の伸びは以前ほど期待できないとわかってはいても、はたして現実に「経済のマイナスは、社会の成長ゆえの自然な流れ」とまであっさり割り切れるものだろうか。
人は希望がないと、上を向いて歩いていくことができない。そして、たいていの人が今年は去年よりちょっといい暮らしをしたい、とささやかな望みを持っている。
もちろん著者は欲望を持つこと自体を否定はしていない。ただし、欲望はあくまで「控えめ」に持つべきだと語る。とはいうものの「控えめ」によりよい暮らしを求めることと、もっとお金を儲けたいという欲望に駆られることの線引きはいったいどこにあるのだろうか。さらにマイナス成長を受け入れたとて、生活の縮小を余儀なくされるのは、結局のところ末端の者からなのではないか。そうしていま以上に格差が広がっていくならば、人は希望の置き場所をどこに据えたらいいのだろうか。
本書を読み終えて2週間。経済成長神話を信じ続けることもできず、かといって葬り去るこもできない。いまだに頭のなかは整理されていない。
=====
この評者のような疑念は、判らないではない。自分自身でも、それに似たことは感じたことがあるから。けれど、結局は個々人が自分でいくら考えたって、答えは見つからないんだろうと思う。そんなに単純ではないんだ。
まず、結論から言っておこう。
マイナス成長となってゆくのが自然な流れ、社会(や経済)の老化現象のようなものだから、というのがその通りかもしれない。すると、どんな未来が待っていると思うか?
難しく考えなくたっていい。
ごく普通に答えてみようよ。
老化のプロセスであるとするなら、それは…行き着く先は「死」だ。
「社会の死」である。
今はマイナス成長という、緩慢な死への道程ということになるだろう。だから、待ち受ける未来は「死」だ。
それが当然なのだ、ごく自然なことなんだ、ということを受け入れられるなら、死への未来に向かって歩むことを決意すればいい。人間は誰でも死ぬ。それと同じだ。社会の死だって、きっと受け入れられる、ということであろう。
具体的にイメージが湧かないかもしれないから、例で言った方がいいかな。
ありがちな例を挙げれば、「軍艦島」だ。あの島みたいに、死ぬ。
軍艦島は、かつて成長の栄華を誇っていた時期もあった。が、マイナス成長という長い下り坂を転げ落ちてゆく先に待っていたのは、島の死だ。廃墟と化した、今がその姿だ。軍艦島は、まさしく死んだのだ。これが、マイナス成長社会の未来ということだ。
これで答えが見つかったであろうか?
軍艦島の死は、いいとか悪いとか、そういう問題ではない。正しいも正しくないもない。ただ、もたらされた結果があるだけだ。誰一人済むことのなくなった島が、廃墟として残された。成長を止めてしまう世界は、こうなるということだ。これを受け入れるなら、そうすればいいだけだ。老化、そして、死。島に存在した社会は、見事に死んだ。
マイナス成長のプロセスが仕方のないことなのだ、ということなら、「派遣切り」とか「大規模リストラ」とか、そういうのは「社会の老化プロセスだから受け入れるほかないんだ、それが自然で当たり前なんだ」ということなんだろう。是非ともそれを当人たちに説いて欲しい。世間を説得して欲しい。失業者が溢れるのは、「社会の老化なんだ」と教えてあげるといい。
控えめな欲望、というのは、そうなのかもしれない。
が、「何かを変えたい」という情熱は、控えめであると成功しないかもしれない。生活を変えたい、社会を良くしたい、そういう熱望―いや渇望のようなものが根底にあるからこそ、多くの人々が新たな成長を生み出してゆくのだ。一人や二人の力では、そうはならない。欲望が備わっていたからこそ、今の日本だって築かれてきたのだ。
母ちゃんが毎日洗濯するのが苦痛で、腰は痛くなるし手はあかぎれで荒れている。
そういうのを見ていて、「何とか楽させてあげたい」と願うのは、そんなに悪いことなのだろうか?
そうやって、洗濯機とかが生み出されてきたわけでしょう?
毎日、水汲みに数キロも歩け、と言われたらどうなんだろうか?そういうのを効率的にしようね、ということで、水道が整備されてきたのだろう。多くの成長というのは、こういうものの積み重ねだ。どこの誰かは判らないけれど、「もっとこうした方がいいんじゃないか、うまくいくんじゃないか、よくなるんじゃないか」というのを、連綿と継続してきた結果なのだよ。
成長がよくない、ということなら、自分の食事を牛か馬を使うとかして、人力農耕生活をやったらいいと思う。
まず、論より証拠、自分でマイナス成長生活を営むのだ。何年継続できるか、試してみるといい。わけのわからん宗教団体っぽい気もするが、経済成長を捨てた非効率社会を堪能できるね。実際にやってみると、持続可能かどうかが判るんじゃないだろうか。
多分、人々にはいつまで経っても「悩み」「困ること」なんかが多数存在しているのだ。仏教ちっくな話になってしまうけれど、煩悩は層簡単には消えないのさ。そういう悩みや困ることなんかを解消しようとしたり、改善しようとしたりすると、それが何かの発見や発明や成長をもたらす材料となってゆくのさ。そういうのが全て解消された世界が、恐らくは理想的社会であり、定常状態が訪れるかもしれない。それ以上の進歩は残されていない、というような究極の世界だ。泥棒も貧乏人もいない、完璧な社会だろう。きっと無理だろうけど。
恐らく、定常状態に近い社会が誕生したとしても、その社会にはプラス成長が残されているであろう。そうじゃないと、本当に軍艦島みたいに死に至るからだ。振り子のように、或いは波動のように、下がったり上がったりを繰り返さないと、定常状態を保つことは難しいだろう。マイナス一方であると、後戻り不可能な何らかの下限を超えてしまうと、確実に社会の死が待っているだろう。これを回避するには、マイナス成長があってもどこかで下限域に至る前にプラス成長で浮上しなければならない、ということ。だから、プラス成長というものは残された社会だろう、ということだ。
自分自身で非効率社会を体験しなくても、ビオトープのようなモデルを実際に作ってみてもいいかもしれない。理論的によく考えて、ある閉じたビオトープを作るのだ。そこの中だけで、百年とか2百年とかの長期に渡って死に至らないような空間を維持できるなら、成長のない社会を維持できるかもしれない。でも、長期的には死が待っているんだろうとは思うけど。
経済成長のない社会を維持するのには、かなりの強固な意志と苦役を受け入れるだけの覚悟が必要だ。果たしてそんなことが可能なのだろうか?「経済成長」と呼ぶのが腹立たしいのなら、そういう評価軸を捨てて、「あなたのお役に立てる社会」ということで成長を図ればいいだけでは。それが結果的に「数値的には成長しているようです」という社会だったとしても、悪いとも思えないのだけれど。
自給自足生活を楽しむって暢気なことを言って実践しているのは、本当の「金持ち」層しかいないと思うけど。自分で農作業をして自給自足で生きていけるのは、貧乏人には殆どいないと思うよ。現代だと、そういう生活は逆に「かなりコストが高い」生活だもの。国民一人一人に土地を割り当てていったら、きっと「食べていけない」国民が大勢でるかも(笑)。昔の数千万人規模ですら、人口を支えきれなかったもんね。
マイナス成長社会は、経済成長のある社会よりもずっと過酷で怠惰を許さず、生きるのが困難かもしれない、という可能性について、考慮しておくべきかもしれない。
>経済って成長し続けなきゃいけないの?~『経済成長という病』 平川 克美著(評者:澁川 祐子):日経ビジネスオンライン
(一部引用)
だが、とも思う。経済成長の伸びは以前ほど期待できないとわかってはいても、はたして現実に「経済のマイナスは、社会の成長ゆえの自然な流れ」とまであっさり割り切れるものだろうか。
人は希望がないと、上を向いて歩いていくことができない。そして、たいていの人が今年は去年よりちょっといい暮らしをしたい、とささやかな望みを持っている。
もちろん著者は欲望を持つこと自体を否定はしていない。ただし、欲望はあくまで「控えめ」に持つべきだと語る。とはいうものの「控えめ」によりよい暮らしを求めることと、もっとお金を儲けたいという欲望に駆られることの線引きはいったいどこにあるのだろうか。さらにマイナス成長を受け入れたとて、生活の縮小を余儀なくされるのは、結局のところ末端の者からなのではないか。そうしていま以上に格差が広がっていくならば、人は希望の置き場所をどこに据えたらいいのだろうか。
本書を読み終えて2週間。経済成長神話を信じ続けることもできず、かといって葬り去るこもできない。いまだに頭のなかは整理されていない。
=====
この評者のような疑念は、判らないではない。自分自身でも、それに似たことは感じたことがあるから。けれど、結局は個々人が自分でいくら考えたって、答えは見つからないんだろうと思う。そんなに単純ではないんだ。
まず、結論から言っておこう。
マイナス成長となってゆくのが自然な流れ、社会(や経済)の老化現象のようなものだから、というのがその通りかもしれない。すると、どんな未来が待っていると思うか?
難しく考えなくたっていい。
ごく普通に答えてみようよ。
老化のプロセスであるとするなら、それは…行き着く先は「死」だ。
「社会の死」である。
今はマイナス成長という、緩慢な死への道程ということになるだろう。だから、待ち受ける未来は「死」だ。
それが当然なのだ、ごく自然なことなんだ、ということを受け入れられるなら、死への未来に向かって歩むことを決意すればいい。人間は誰でも死ぬ。それと同じだ。社会の死だって、きっと受け入れられる、ということであろう。
具体的にイメージが湧かないかもしれないから、例で言った方がいいかな。
ありがちな例を挙げれば、「軍艦島」だ。あの島みたいに、死ぬ。
軍艦島は、かつて成長の栄華を誇っていた時期もあった。が、マイナス成長という長い下り坂を転げ落ちてゆく先に待っていたのは、島の死だ。廃墟と化した、今がその姿だ。軍艦島は、まさしく死んだのだ。これが、マイナス成長社会の未来ということだ。
これで答えが見つかったであろうか?
軍艦島の死は、いいとか悪いとか、そういう問題ではない。正しいも正しくないもない。ただ、もたらされた結果があるだけだ。誰一人済むことのなくなった島が、廃墟として残された。成長を止めてしまう世界は、こうなるということだ。これを受け入れるなら、そうすればいいだけだ。老化、そして、死。島に存在した社会は、見事に死んだ。
マイナス成長のプロセスが仕方のないことなのだ、ということなら、「派遣切り」とか「大規模リストラ」とか、そういうのは「社会の老化プロセスだから受け入れるほかないんだ、それが自然で当たり前なんだ」ということなんだろう。是非ともそれを当人たちに説いて欲しい。世間を説得して欲しい。失業者が溢れるのは、「社会の老化なんだ」と教えてあげるといい。
控えめな欲望、というのは、そうなのかもしれない。
が、「何かを変えたい」という情熱は、控えめであると成功しないかもしれない。生活を変えたい、社会を良くしたい、そういう熱望―いや渇望のようなものが根底にあるからこそ、多くの人々が新たな成長を生み出してゆくのだ。一人や二人の力では、そうはならない。欲望が備わっていたからこそ、今の日本だって築かれてきたのだ。
母ちゃんが毎日洗濯するのが苦痛で、腰は痛くなるし手はあかぎれで荒れている。
そういうのを見ていて、「何とか楽させてあげたい」と願うのは、そんなに悪いことなのだろうか?
そうやって、洗濯機とかが生み出されてきたわけでしょう?
毎日、水汲みに数キロも歩け、と言われたらどうなんだろうか?そういうのを効率的にしようね、ということで、水道が整備されてきたのだろう。多くの成長というのは、こういうものの積み重ねだ。どこの誰かは判らないけれど、「もっとこうした方がいいんじゃないか、うまくいくんじゃないか、よくなるんじゃないか」というのを、連綿と継続してきた結果なのだよ。
成長がよくない、ということなら、自分の食事を牛か馬を使うとかして、人力農耕生活をやったらいいと思う。
まず、論より証拠、自分でマイナス成長生活を営むのだ。何年継続できるか、試してみるといい。わけのわからん宗教団体っぽい気もするが、経済成長を捨てた非効率社会を堪能できるね。実際にやってみると、持続可能かどうかが判るんじゃないだろうか。
多分、人々にはいつまで経っても「悩み」「困ること」なんかが多数存在しているのだ。仏教ちっくな話になってしまうけれど、煩悩は層簡単には消えないのさ。そういう悩みや困ることなんかを解消しようとしたり、改善しようとしたりすると、それが何かの発見や発明や成長をもたらす材料となってゆくのさ。そういうのが全て解消された世界が、恐らくは理想的社会であり、定常状態が訪れるかもしれない。それ以上の進歩は残されていない、というような究極の世界だ。泥棒も貧乏人もいない、完璧な社会だろう。きっと無理だろうけど。
恐らく、定常状態に近い社会が誕生したとしても、その社会にはプラス成長が残されているであろう。そうじゃないと、本当に軍艦島みたいに死に至るからだ。振り子のように、或いは波動のように、下がったり上がったりを繰り返さないと、定常状態を保つことは難しいだろう。マイナス一方であると、後戻り不可能な何らかの下限を超えてしまうと、確実に社会の死が待っているだろう。これを回避するには、マイナス成長があってもどこかで下限域に至る前にプラス成長で浮上しなければならない、ということ。だから、プラス成長というものは残された社会だろう、ということだ。
自分自身で非効率社会を体験しなくても、ビオトープのようなモデルを実際に作ってみてもいいかもしれない。理論的によく考えて、ある閉じたビオトープを作るのだ。そこの中だけで、百年とか2百年とかの長期に渡って死に至らないような空間を維持できるなら、成長のない社会を維持できるかもしれない。でも、長期的には死が待っているんだろうとは思うけど。
経済成長のない社会を維持するのには、かなりの強固な意志と苦役を受け入れるだけの覚悟が必要だ。果たしてそんなことが可能なのだろうか?「経済成長」と呼ぶのが腹立たしいのなら、そういう評価軸を捨てて、「あなたのお役に立てる社会」ということで成長を図ればいいだけでは。それが結果的に「数値的には成長しているようです」という社会だったとしても、悪いとも思えないのだけれど。
自給自足生活を楽しむって暢気なことを言って実践しているのは、本当の「金持ち」層しかいないと思うけど。自分で農作業をして自給自足で生きていけるのは、貧乏人には殆どいないと思うよ。現代だと、そういう生活は逆に「かなりコストが高い」生活だもの。国民一人一人に土地を割り当てていったら、きっと「食べていけない」国民が大勢でるかも(笑)。昔の数千万人規模ですら、人口を支えきれなかったもんね。
マイナス成長社会は、経済成長のある社会よりもずっと過酷で怠惰を許さず、生きるのが困難かもしれない、という可能性について、考慮しておくべきかもしれない。