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多くの賛成意見よりも一つの反対意見の方が役立つかもしれない

2007年06月17日 15時41分55秒 | 俺のそれ
これまで書いてきたシリーズものの記事(自分勝手なシリーズなんですけど、笑)で共通するかもしれないと、どことなく感じていた。割とよく見かける自分の立場とは反対の人たち(以後、単に「反対派」と呼ぶ)が出している意見は、自分の考えや意見をまとめるのに役立つように思える。これら反対意見がなければ、自分自身の考えも深まりにくいかもしれない、ということだ。

過去に取り組んできたものでは、例えば人権擁護法案、郵政民営化問題、上限金利問題、などがあった。自分の立場としては、反対―賛成―賛成(規制に賛成)であったが、何れも反対派の意見の方が自分自身の理解には役立ってきた。現在話題になっている「ネットイナゴ」関連とか、ブックマークコメントとか、そういったテーマでも、恐らく自分が賛成する側の意見を探して補強するよりも、反対意見をよく見て考えた方が近道ではないかと思う。

私の印象として、自分と同じ賛成派の意見は、既に考えた論点・理由か、逆に役立たないか間違いやウソを含むものであったりすることが多いのではないかと思う。勿論、反対派の意見にも多くの間違いやウソは含まれるが、それらは検討すれば見破れるとか否定しやすいので、マイナスにしか作用しないのである。賛成派においても、同様の効果を持ってしまうのではあるが。反対派の意見というのは、主要な論点や意見であることは確かであり、理解してもらう(誤解を解く)ことができれば、収束とか実現に向けて突破していける可能性は出てくるのではないかと思う。

ただ、反対派が主張する論点を否定できたとしても問題解決に繋がるとも限らず、最後には「自分ならこうする」という意見を言うのが望ましい。無力化してしまった野党にしても、必ず「反対、反対」というのだが「ではどうするか」というのをまともに出していたことなどなかった。最終的な目標地点は、反対運動をやって相手側陣営を撃破することではなく、「ある問題」にどう対処するかということを目指しているのだから。それが政治、特に政策決定過程に現れてこなかったのは、その程度の知識人しか存在しなかったから、ということであろう。要するに、「神学論争」に明け暮れていただけ、ということ。


いつもの変な例で申し訳ないが、考えてみる。
いま、ある会員制サークルがあるとする。このサークルでは会費を集めて運営しているが、ある時お金が500円余ったのでその使い道をどうするか議論となった。主な意見では「ゴミ袋を購入しよう」という希望が多かったとする。やや少数派の意見としては「ゴミ袋よりペンセットを買おう」というものがあれば、双方とも、いかにゴミ袋、或いはペンセット購入の方が有利か説明したり、相手側主張を否定する為の意見を出したり、ということが行われるわけだ。この場合に、もしも「ゴミ袋を購入するか否か」を話し合って「ゴミ袋購入」を否定したとしても、それに代わる「500円の有効な使い道の具体的意見」を出さない限り、「ゴミ袋を買うか否か」の出発前の地点に戻るだけなのである。なので、「ゴミ袋を買うのは反対、ペンセットを買う方がいい」という意見表明をするのが望ましい、ということだ。

<やや外れるが、参考までに言っておく。
このサークルの会計係がいて、本当は500円余っているはずだったのに、「いや、残ってないよ」と言いながら、実は裏でコッソリ「コップ酒」を購入して飲んでしまっていた、ということがあるとする。多数派の意見として「ゴミ袋を購入して欲しい」という要望があるにも関わらず、それを購入しないばかりか、自らの為に優先して500円という予算を配分して使ってしまうということだ。このような時に、「会計係の為だけに500円を回すのはおかしい」、「みんなのお金が横取りされた」といった意見が出ても不思議ではないだろう。これを「会計係の特権なのだから当然」という感覚は、大きくズレてますね、というだけの話だ。政治的志向などには全く無関係に批判できるし、意思決定できるだろう。自ら思考せずに他人の意見を拝借するしか能がないにも関わらず、自分だけが悟ったかのようなことを言う人間がいるが、まことに滑稽である。
「ヤレヤレ、作品○○の本当の良さってのは~が××に述べてるように~~だから、そういうのは無知で鈍い大衆には分かりっこないんだよねー。」
で、自分の意見ではどうなの?あなたの評価は?それを言ってごらんなさい、と思うね。自身の意見はカラッポじゃん、ってこと。
訳知り顔の評論家然ってのは、賛同する気にはなれないな。結局自分自身は「何を、どう感じ、考えるか」であって、「よく判んないけど、面白かったー」という意見の方がまだ好ましく思えるが、誰かの意見を着飾らないと表明できない人もいるのだろう。>

まあ、何れにせよ、「ペンセットを買うのは絶対反対」とか「ゴミ袋だけは絶対イヤだ」とかの意見を出されることは仕方がないので、相手側主張を否定する理由を説明するか、自説を説明していくかしかない。提示した論点とか説明がある程度説得的であるならば、決定に際しては意味のあるものとなろう。説得的な論点・説明をあまり示せなければ、それが実現できなくなる、というだけの話である。


もしも大衆の判断に依存するのみでしか決定してこなかったのだとすれば、日本の政策決定過程に関わる人々―議員や官僚・役人や学者・有識者等―は誰がなっても大体同じであり、いてもいなくても結果はあまり違いはない、ということであろう。それとも、それら決定過程の人々の大半が迎合主義的で、特別にそういう人を集めてきたということなのであろうか。

大衆に働きかけて考え方を知ってもらう、大衆迎合を回避するべく決定過程を作りあげていく、決定過程に関わる人々について別な人選を行う、などといった取りうる方策はあるだろう。それなのに、ポピュリズムでしか批判できないというのは、ただ単に問題解決を考えていないだけなのではないかと思う。意見や主張が採用されなかった原因・理由というものを、自らに求めるのではなく、常に他の誰か―ありがちなのは「一般大衆」ということか―の愚かさに求めるしかできないのである。