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格差拡大論争~その2

2006年02月12日 19時02分45秒 | 社会全般
この話題がこれほど尾を引くとは思ってもみませんでした。今後の日本の行く末に大きく影響するし、教育問題でもありますしね。今日の読売新聞朝刊にも、バーンと出てた。見出しは「格差社会 データにくっきり」ですと(笑)。「スキャナー」というコーナーであるが、政治部小林記者と宮崎記者が担当でした。これが誰なのかは全く知らないのですけれども。

一応前に書いたので、その記事を。

格差拡大論争


この前、野党議員を散々貶してしまった(話題シリーズ21)ので、その効果が出たのかどうか判りませんが(笑)、メディアも一致協力して「格差拡大論争」に突入してしまったかのようです。それに、朝日新聞を非難したら、偶然ですが早速大竹先生を紙面のコメントで連投させてるし(笑、大竹―橘木論争はずっと前からでしょ)。


今後の政策課題として、「小さな政府」というのは部分的には確かに必要なのですが、一方で国民は「どう考えるか、どこら辺までの政府関与を求めるか」ということや、自分達の受益と負担の水準についても「国民的議論」が必要になるでしょう、ということを言いたかったのですけれど。昨年の経済財政白書についての記述でも書いた(経済財政白書が語るもの)のですが。もうちょっと、皆さん、前向きな議論にするようには出来ませんか?「お前が悪い」じゃなくて、「誰が拡大したか」じゃなくて、「今後、どうやって問題を解決していくか」「これから自分達はどうしたいか、どんな社会を望むのか」という視点から、次の政策を選んでいこう、という方がいいと思うね。問題意識としては、既に国民と政府とでは共有されているのですし。


野党も、「これを解決(或いは緩和する)には、こういう政策立案が必要なのではないか」という風に考えられたり出来ないものなんですかね?「何なにが、足りないのではありませんか?」という風にしないと、「小泉政権の責任だ」だけでは、相手は「いや、そうではない」と態度を硬化させがちなのではありませんか?どこまで行っても妥協点を見出せなくなり、「拡大させたのはアナタだ!」という追及をすればするほど、論点は「拡大したのは誰か」論争とか、「本当に拡大してるか」論争に陥ってしまい、目的とする「これ以上の状態悪化を防ぐにはどうしたらよいか」という所に辿り着けなくなってしまいます。政治は何の為にあるかというと、政府与党の相手の揚げ足を取ることではありません。純粋に、国民の為になる政策をどうやって考え、それを実現可能にしていく政治的手段は何か考えることです。


政府が「絶対に対策をやりませんよ」という無用な頑張りをするのならば、「やらないのは絶対にオカシイ」という主張をして論破するべきですけれど、「そういう問題点はある」ということを互いに理解しているのですから、「では、どうやってセーフティネットを確保する積もりなのか」とか、「非正規雇用の労働状況を改善させる為の政策としては、今考えている政策で十分なのか、どの程度の効果を見込めるのか」とか、「雇用改善で言えば失業率をどのくらい改善させる、といった数値目標を出してやるべきではないか」とか、そういう政策的な方法論を厳しくツッコムべきではないですか?それが身のある議論であろうと思うのですけれども。前にも書いたが、「小泉さんが悪かったんだ」ということを証明できるかどうかを争っている時間が長くなってしまうだけで、本質的には国民にとっては何にも前進しないのですから。どっちが正しいかなんて、どうだっていいんですよ、はっきり言えば。例えば「失業率改善の数値目標を掲げるくらい責任を持ってやらないのは、行政府としての責務を果たせていないではないか」ということであれば、国民の為に「約束」を取り付けられるし、政策に対する責任も担保することになるので、達成できなかった場合には勿論非難の対象に出来るのですから。


野党の戦術はいいとして、私の意見としては、「小泉政権下による政策運営によって格差が拡大した」というのは、部分的にはその可能性はあるかもしれませんが、全体では違うと思いますね。まず、「格差の正体とは何なのか」ということから始まってしまいますので、これは議論が色々ありますね。基準となるべきは何か、指標は正確に全てを表しているか、いつの時点での評価なのか、そういうことも色々と考えてみるべきですね。通常唯一の小泉政権担当の02年だけでは、「小泉政権のせいで拡大した」という結論を出してくることは出来ないと考えられますね。02~06年も拡大中かどうかも誰も証明出来てないでしょ?ひょっとして、逆に数値が小さくなっていたら、そんときはどうなの?「格差は縮小した」と言うの?有意な変化なのかどうかは分らんけれど、たった一つのデータ(02年)だけで「データにくっきり」もないでしょ?断定しすぎ。煽り過ぎだっての。


格差拡大を断定出来ない理由としては、第一に統計自体の問題というのがあります。ジニ係数が何を代表するのかという根本的な問題、数値を信頼するとして世帯構成変化とその変動寄与度がどの程度なのか、別な統計による家計調査では格差拡大とも言えない、といった意見があることです。


第二に政策担当が小泉政権だったから02年調査でそれが本当に表れたのか、ということです。通常、色々な政策があると思いますが、「即効性」の政策なんてそんなに多いとも思えないし、公約で出した政策を政権担当直後から取り組んでいったとしても、それが「調査」「委員会」「審議会」等々の様々な検討を経て、実際の形(実行可能な段階)として現れてくるのには時間がかかるし、そうした政策効果によって社会的現象として変化が出てきて尚且つ実際に認識されるまでにも時間がかかるのが普通と思いますね。そんなに急激な変化というのは、通常であれば起こりにくいと考えるのが普通なのではないのかな、と。

行政の政策には基本的に「慣性の法則」というか、いきなりの方向転換というのは難しいというような性質があると思っている。政治学者などはそういう研究をしているかもしれんが、よく判らない。何というか、「inertia」というようなものが政策には大体潜んでいそう(英語苦手なので変かも)。大方の政策は開始直後から100%の効果発揮は難しいし、新たな予算をドカンと獲得も難しいけど、逆にいきなりバッサリ切られるというのも少なそう。漸減というような感じは多いかもしれんが。だから、急に効果浸透なんてことが起こりえる訳が無いし、担当者達もある程度要領が分って効果が発現してきたとしても、それは数年後でしょ?きっと。


なので責任論をいくら考えてみたところで、「小泉政権のせいで格差が拡大した」ということを、厚生労働省の統計だけから言うことは難しいのではないかな、と。そんなことを証明する必要もなければ、理論的に証明することの方が困難と思うけれどもね。


ただ、一部には責任がある、と言ったのは、経済政策における問題ですね。今までデフレ期待とかについて記事に書いてみましたが、その中でちょっと思いついたことがあります。それは、2相性というか、デフレが2段階になっていて、その主因が別々なのではなかろうか、ということです。イメージとしては、前半がITバブル崩壊頃まで、後半はそれ以後ですね(これは後で別な記事に書いてみようと思います)。この前半と後半では、デフレの状況が異なっているような気がします。きっとうまく運営できていれば、少なくとも前半部分でデフレを脱却出来た可能性があるのでは、とさえ思えます。これは何を意味するかと言えば、小泉政権下での失敗ということです。確かに前世紀末からの問題を引きずってしまったのでしょうけれど、それでも政策的には不十分であったことは確かです。その結果が、若年雇用問題を悪化させたことに繋がった可能性はあると思いますね。そして、長期間それに対して「無配慮であった」ということもね。国民会議がフリーターを年間20万人減らすと宣言して、ようやく「どうしようか」ということが政治の場に上がってきたのですよ。


因みに、厚労省の統計発表というのは04年ですからね。

同じ読売の論調を見るとこうなっています。

広がる所得格差 : 大手町博士のゼミナール : トレンド : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

これは今日の朝刊記事と担当が全く同じ、宮崎誠記者ですからね。
いかに、メディアが便乗的なのか、ということがお分かりいただけるでしょう。これも「『下流社会』ハヤリ効果」かもしれんが(笑)。


格差拡大というのは、メディアや野党は世の中全体ということを問題視しているのかもしれませんが、むしろ同世代内での格差の方がより深刻な意味を持っているのではないか、と思っています。それは今の若年層の問題ということです。酷い言い方ですけれども、これから死に行く高齢層というのが大きな問題なのではなくて、将来の道のりが長い現在の若年層の人生を考えると、「同世代内格差」というのは重く圧し掛かるだろうと思います。その世代の活性が大幅に低下するという危惧があります。そして、それを回復するには長い時間と、その調整コストを社会が負担しなければならなくなるでしょう。そういう意味では、若年層の失業/非正規雇用者と、正規雇用者の人々との間にある格差というのは、かなり厳しいという印象ですね(これは当事者ではないのでよく分りません)。


格差が拡大してきたのが事実かどうかではなくて、既にある格差を緩和する措置をどの程度考慮するべきか、社会全体でそのコストを負担してくれる決意があるのか、そういうところの方が国民にとっては、はるかに難しい問題であろうと思います。



輸入物価について

2006年02月12日 01時48分55秒 | 経済関連
lukeさんからコメントを頂いて(リジョインダーへの回答)、お答えをと思いまして、記事に書いてみたいと思います。まず、これまでの記事で触れている部分については、割愛させて頂きたいと思いまして、お読み頂くのはご面倒と思いますがもう一度参考記事を挙げておきます。

価格とULC
デフレ期待は何故形成されたのか


始めに整理しておきたいと思いますが、コメントに単に「物価」と書いたのは正確ではありませんでしたので、お詫び致します。lukeさんが日銀の資料を示しておられる「輸入物価」と、私が「物価」と表現したものは異なっています。お示しの通り、「輸入物価」は前年比23%増というのはその通りであると思います。上の記事にも書いておりますが、輸入品の価格上昇分が消費者価格にそのままダイレクトに反映されることは近年観察されてこなかったのではないか、ということを申し上げています。すなわち、「為替変動で上昇要因となったとしても、その上昇分が(最終財である)消費者の価格には反映されてこなかったのではないか」ということです。


上昇抑制要因の主なものとしては、やはり賃金要因や生産性向上などによる「ULCの低下」であると考えています。円安局面ということだけを見れば、01年半ば~02年半ば位までは1ドル120~130円程度でありまして、特に02年前半というのは130円を超える水準であったわけですが、その時の価格上昇要因というのは企業内での吸収ということが行われてしまった可能性があり、これはULCの大幅な低下で代償可能となっていたと考えています。為替要因というのは確かに無視できる水準ではないと思いますが、それが企業物価に(或いは消費者物価に)直接的に反映されているかというと、そうでもないと思いますね。特に川上での上昇は、最終価格に決定的な上昇をもたらすとは限らないと思います。04年頃ころから既に素材価格の上昇は始まっており、相当な値上げ圧力であったにも関わらず、企業物価の大幅な上昇は見られていません。


ご指摘の「輸入物価23%増」というのは、幾つかの要因が重なったものであり、一つは為替要因、もう一つは所謂原油高(04~05年前半は円高で相殺され、それがマスクされたと思います)ですね。輸入物価に対するウェイトを計算していませんが、昨年末あたりからの企業物価上昇要因は(15年来の大幅増という報道がありましたね)この二つが遂に企業物価に反映された結果であろうかと思いますね。上昇要因の吸収というのは、初めのうちは例えば主に人件費削減(ULCの賃金要因です)で何とか吸収して顧客の要望に応えようとするのですが、いったんそういう企業努力で吸収したとしてもそこから更なる削減をすることは段々と困難になっていきます。通常企業のコスト削減余地は減っていくものであると思いますので。なので、ある程度までは努力して上昇要因を吸収できたとしても、そこから先は価格に反映せざるを得ず、企業物価上昇要因となると思います。


しかし、企業物価が上昇したとしても、消費者物価に反映されるかどうかということになりますと、これは価格設定側の考え方にもよりますし、「まだ努力の余地がある」と販売側が思えば最終的な財の価格に反映されるとも言えないと思います。輸入物価上昇ということは、為替要因ということもありますが、商品相場の影響(例えば原油高、金価格上昇、一時の投機的なパラジウム価格上昇、など)というより純粋な価格要因ということもあるので、(為替に連動していると)一概には言えないこともあると思います。

素材価格上昇局面でも、例えば鉄鉱石や石炭等の価格上昇(輸入品ですので当然為替の影響で値上がりします)があっても、これがそのまま鋼板価格のダイレクトな上昇になるかというと、そうとも言えないということですね。需要家の立場が強ければ、価格交渉で譲歩せざるを得ないからです。輸入品の価格上昇分(特に為替要因分)が、パラレルに最終製品価格というか消費者物価に全て反映されていると考えることの方が、近年では困難であると思います。石炭が2倍に値上がりしたからといって、即その鋼板を使う自動車の価格上昇を意味するかというと、いつもそれが観察される訳ではないということを申し上げているのです。


従って、中国からの格安輸入品が為替の影響を受けて2割上昇したとしても、それが実際の消費者価格の2割アップを意味するものである、というのは違うのではないのかな、と思いました。ですので、上の記事には「円安による物価上昇要因を吸収してきたのではないか」ということを書いてみました。私は元々の「中国発デフレ論」というのを(どういう主旨なのか)実は全く知らないのですが、少なくとも「中国産品がプライスリーダーである」ということは全く考えていません。ですので、「天井を形成する」という考え方がよく分からないのですが、消費者が「安い方」を選ぼうとしてしまう、ということは有り得ると思うし、競合品にとってはかなりの値下げ圧力として作用するであろうと思います。

けれども、一般物価(消費者物価ですね)が全般的に下落してしまうというのは、もっと別な「低価格戦略幻想」のようなものがないと、難しいのではないかと思ったのです。それが「企業のマインド」という意味です。


残念ながら実証というのは全くありません。ただ、企業の期待形成では「デフレ期待」が家計よりも強く出ているので、そういう企業戦略の選択結果であったのではなかろうか、という風に考えました。


追記:
bewaadさんへの新たな回答は、ちょっと勉強中(笑)ですので、別に書いてみたいと思っています。



「言葉の力」

2006年02月12日 00時22分01秒 | 教育問題
先日、日本語教育のお話がブログに散見されたのですが(内田先生のトコとか、finalventさんのとことか)、文科省が「ゆとり教育」から「言葉の力」へ方針転換ということをNagarazokuさんの記事(ながら族:Nagarazoku:Nagara Tribune)を読んで知った。これは朝日の記事に出ていたようだ。

asahi.com: 学習指導要領、「言葉の力」柱に 全面改訂へ文科省原案 - 教育

記事から一部を抜粋。




学校のすべての教育内容に必要な基本的な考え方として、「言葉の力」を据えることがわかった。文部科学省が近く、中央教育審議会の部会で原案を示す。「言葉の力」は、確かな学力をつけるための基盤という位置づけ。学力低下を招いたと指摘を受けた現行指導要領の柱だった「ゆとり教育」は事実上転換されることになる。




他方、次のような記事も。

- Brain News Network -

こちらも一部抜粋。


記事を読む限り、ここで言う「言葉」とは日本語を意味すると断定できるが、まさか近年の「国語ブーム」に便乗したのでは、と邪推したくもなる。

 だが、それは必ずしもうがった見方とは言えまい。たとえば、阪神大震災の後に、「耐震」をテーマにした施策が相次いで打ち出されたように、日本の官庁は、実は時流に乗ることに殊の外熱心であるという性格を持つ。

 裏を返せば問題が表面化しなければ動かない。万事が対症療法的で、著しく先見性に欠ける。だから熱が冷めれば途端に綻びが目立ち始める。相次ぐ耐震偽装問題の発覚も、こうした無責任さと無縁ではあるまい。

 文科省原案も、早速綻びが見られる。国語を重視する姿勢を打ち出しながら、一方では小学校での英語必修化も検討課題としていることは明らかに矛盾だろう。

 ベストセラー「国家の品格」の著者である藤原正彦氏は、著書「祖国とは国語」の中で、小学校からの英語導入について「他教科の圧縮を意味し、国民の知的衰退を確実に助長する。愚民化政策と言って過言ではない」と痛烈に批判している。まったく同感である。






このように厳しい意見もありますが、藤原先生は所謂文科省の何かの委員であり、国語教育に関してはご意見を出している立場です。あくまで推測ですが、日本人的心というか「情緒力」「愛国心」のような―まさに「言葉の力」肯定派という意味で―日本人の心を取り戻す第一歩としてこれに賛成されているのではないかと考えております。「言葉の力」は確かにあるように思えるし(わたくしも同じく情緒的と申しましょうか、笑)、これを盛り込むかどうかは数年来の協議の結果であると思います。調べてないですけど。とても行政が一朝一夕でこうした決定を行うとは考えにくいのでございます。


ですので、文科省としては勿論昨年来の「学力低下危機」という批判に晒され、「ゆとり教育」という言葉だけが取り上げられる為に誤解を招いている原因となっている、という側面もあるのではないか、と考えたとしても不思議ではないように思えます。ややもするとご都合主義とも取れなくもありませんが、お役所仕事ですので(笑)。少なくとも審議会とかのレベルでは、もっと早い段階から盛り込む言葉の選定を行なっていたであろうな、と。


こうした方針転換がどうなのか、というのは賛否あると思いますが、少なくとも現場レベルの知見や報告ということも吟味されている可能性は高いと推測しており、モデル事業などからの提言とかもあったかもしれませんね。そういうことをきっと記者たちが調べて書いているかというと、そうでもないと思いますね。


私がナルホドそうだな、と思ったのはNagarazokuさんの次の言葉でした。


経済的な格差の中で、教育におカネをかけることができる家庭と、そうでない家庭で、ベースラインに差異が生まれてしまったのは事実でしょうが、これは直接に「ゆとり型」の所為ではありませんし…。そして「ゆとり型」の中に置かれていても、やるべきこと以上のコトをやってきた人たちだって存在してるワケですから、一概にゆとり型が失敗だとか、そんな風には思えなかったりもするのです。

~中略

問題は、「社会の構成員として人間が機能するのではなく、社会を道具としてどのように上手く活用してゆくかと言うコトを、キチンと教えてないことじゃないかなぁ」と、そして「社会と言う道具はまだまだ未完成で、自分達の手で改良を続けてゆかねばならないと言う、根本的な課題を伝えてないことじゃないかなぁ」と、ゆとりの世代を横目で見ながら働いてきたアタシは、そんな風に漠然と思い続けていたりするのです。