この話題がこれほど尾を引くとは思ってもみませんでした。今後の日本の行く末に大きく影響するし、教育問題でもありますしね。今日の読売新聞朝刊にも、バーンと出てた。見出しは「格差社会 データにくっきり」ですと(笑)。「スキャナー」というコーナーであるが、政治部小林記者と宮崎記者が担当でした。これが誰なのかは全く知らないのですけれども。
一応前に書いたので、その記事を。
格差拡大論争
この前、野党議員を散々貶してしまった(話題シリーズ21)ので、その効果が出たのかどうか判りませんが(笑)、メディアも一致協力して「格差拡大論争」に突入してしまったかのようです。それに、朝日新聞を非難したら、偶然ですが早速大竹先生を紙面のコメントで連投させてるし(笑、大竹―橘木論争はずっと前からでしょ)。
今後の政策課題として、「小さな政府」というのは部分的には確かに必要なのですが、一方で国民は「どう考えるか、どこら辺までの政府関与を求めるか」ということや、自分達の受益と負担の水準についても「国民的議論」が必要になるでしょう、ということを言いたかったのですけれど。昨年の経済財政白書についての記述でも書いた(経済財政白書が語るもの)のですが。もうちょっと、皆さん、前向きな議論にするようには出来ませんか?「お前が悪い」じゃなくて、「誰が拡大したか」じゃなくて、「今後、どうやって問題を解決していくか」「これから自分達はどうしたいか、どんな社会を望むのか」という視点から、次の政策を選んでいこう、という方がいいと思うね。問題意識としては、既に国民と政府とでは共有されているのですし。
野党も、「これを解決(或いは緩和する)には、こういう政策立案が必要なのではないか」という風に考えられたり出来ないものなんですかね?「何なにが、足りないのではありませんか?」という風にしないと、「小泉政権の責任だ」だけでは、相手は「いや、そうではない」と態度を硬化させがちなのではありませんか?どこまで行っても妥協点を見出せなくなり、「拡大させたのはアナタだ!」という追及をすればするほど、論点は「拡大したのは誰か」論争とか、「本当に拡大してるか」論争に陥ってしまい、目的とする「これ以上の状態悪化を防ぐにはどうしたらよいか」という所に辿り着けなくなってしまいます。政治は何の為にあるかというと、政府与党の相手の揚げ足を取ることではありません。純粋に、国民の為になる政策をどうやって考え、それを実現可能にしていく政治的手段は何か考えることです。
政府が「絶対に対策をやりませんよ」という無用な頑張りをするのならば、「やらないのは絶対にオカシイ」という主張をして論破するべきですけれど、「そういう問題点はある」ということを互いに理解しているのですから、「では、どうやってセーフティネットを確保する積もりなのか」とか、「非正規雇用の労働状況を改善させる為の政策としては、今考えている政策で十分なのか、どの程度の効果を見込めるのか」とか、「雇用改善で言えば失業率をどのくらい改善させる、といった数値目標を出してやるべきではないか」とか、そういう政策的な方法論を厳しくツッコムべきではないですか?それが身のある議論であろうと思うのですけれども。前にも書いたが、「小泉さんが悪かったんだ」ということを証明できるかどうかを争っている時間が長くなってしまうだけで、本質的には国民にとっては何にも前進しないのですから。どっちが正しいかなんて、どうだっていいんですよ、はっきり言えば。例えば「失業率改善の数値目標を掲げるくらい責任を持ってやらないのは、行政府としての責務を果たせていないではないか」ということであれば、国民の為に「約束」を取り付けられるし、政策に対する責任も担保することになるので、達成できなかった場合には勿論非難の対象に出来るのですから。
野党の戦術はいいとして、私の意見としては、「小泉政権下による政策運営によって格差が拡大した」というのは、部分的にはその可能性はあるかもしれませんが、全体では違うと思いますね。まず、「格差の正体とは何なのか」ということから始まってしまいますので、これは議論が色々ありますね。基準となるべきは何か、指標は正確に全てを表しているか、いつの時点での評価なのか、そういうことも色々と考えてみるべきですね。通常唯一の小泉政権担当の02年だけでは、「小泉政権のせいで拡大した」という結論を出してくることは出来ないと考えられますね。02~06年も拡大中かどうかも誰も証明出来てないでしょ?ひょっとして、逆に数値が小さくなっていたら、そんときはどうなの?「格差は縮小した」と言うの?有意な変化なのかどうかは分らんけれど、たった一つのデータ(02年)だけで「データにくっきり」もないでしょ?断定しすぎ。煽り過ぎだっての。
格差拡大を断定出来ない理由としては、第一に統計自体の問題というのがあります。ジニ係数が何を代表するのかという根本的な問題、数値を信頼するとして世帯構成変化とその変動寄与度がどの程度なのか、別な統計による家計調査では格差拡大とも言えない、といった意見があることです。
第二に政策担当が小泉政権だったから02年調査でそれが本当に表れたのか、ということです。通常、色々な政策があると思いますが、「即効性」の政策なんてそんなに多いとも思えないし、公約で出した政策を政権担当直後から取り組んでいったとしても、それが「調査」「委員会」「審議会」等々の様々な検討を経て、実際の形(実行可能な段階)として現れてくるのには時間がかかるし、そうした政策効果によって社会的現象として変化が出てきて尚且つ実際に認識されるまでにも時間がかかるのが普通と思いますね。そんなに急激な変化というのは、通常であれば起こりにくいと考えるのが普通なのではないのかな、と。
行政の政策には基本的に「慣性の法則」というか、いきなりの方向転換というのは難しいというような性質があると思っている。政治学者などはそういう研究をしているかもしれんが、よく判らない。何というか、「inertia」というようなものが政策には大体潜んでいそう(英語苦手なので変かも)。大方の政策は開始直後から100%の効果発揮は難しいし、新たな予算をドカンと獲得も難しいけど、逆にいきなりバッサリ切られるというのも少なそう。漸減というような感じは多いかもしれんが。だから、急に効果浸透なんてことが起こりえる訳が無いし、担当者達もある程度要領が分って効果が発現してきたとしても、それは数年後でしょ?きっと。
なので責任論をいくら考えてみたところで、「小泉政権のせいで格差が拡大した」ということを、厚生労働省の統計だけから言うことは難しいのではないかな、と。そんなことを証明する必要もなければ、理論的に証明することの方が困難と思うけれどもね。
ただ、一部には責任がある、と言ったのは、経済政策における問題ですね。今までデフレ期待とかについて記事に書いてみましたが、その中でちょっと思いついたことがあります。それは、2相性というか、デフレが2段階になっていて、その主因が別々なのではなかろうか、ということです。イメージとしては、前半がITバブル崩壊頃まで、後半はそれ以後ですね(これは後で別な記事に書いてみようと思います)。この前半と後半では、デフレの状況が異なっているような気がします。きっとうまく運営できていれば、少なくとも前半部分でデフレを脱却出来た可能性があるのでは、とさえ思えます。これは何を意味するかと言えば、小泉政権下での失敗ということです。確かに前世紀末からの問題を引きずってしまったのでしょうけれど、それでも政策的には不十分であったことは確かです。その結果が、若年雇用問題を悪化させたことに繋がった可能性はあると思いますね。そして、長期間それに対して「無配慮であった」ということもね。国民会議がフリーターを年間20万人減らすと宣言して、ようやく「どうしようか」ということが政治の場に上がってきたのですよ。
因みに、厚労省の統計発表というのは04年ですからね。
同じ読売の論調を見るとこうなっています。
広がる所得格差 : 大手町博士のゼミナール : トレンド : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
これは今日の朝刊記事と担当が全く同じ、宮崎誠記者ですからね。
いかに、メディアが便乗的なのか、ということがお分かりいただけるでしょう。これも「『下流社会』ハヤリ効果」かもしれんが(笑)。
格差拡大というのは、メディアや野党は世の中全体ということを問題視しているのかもしれませんが、むしろ同世代内での格差の方がより深刻な意味を持っているのではないか、と思っています。それは今の若年層の問題ということです。酷い言い方ですけれども、これから死に行く高齢層というのが大きな問題なのではなくて、将来の道のりが長い現在の若年層の人生を考えると、「同世代内格差」というのは重く圧し掛かるだろうと思います。その世代の活性が大幅に低下するという危惧があります。そして、それを回復するには長い時間と、その調整コストを社会が負担しなければならなくなるでしょう。そういう意味では、若年層の失業/非正規雇用者と、正規雇用者の人々との間にある格差というのは、かなり厳しいという印象ですね(これは当事者ではないのでよく分りません)。
格差が拡大してきたのが事実かどうかではなくて、既にある格差を緩和する措置をどの程度考慮するべきか、社会全体でそのコストを負担してくれる決意があるのか、そういうところの方が国民にとっては、はるかに難しい問題であろうと思います。
一応前に書いたので、その記事を。
格差拡大論争
この前、野党議員を散々貶してしまった(話題シリーズ21)ので、その効果が出たのかどうか判りませんが(笑)、メディアも一致協力して「格差拡大論争」に突入してしまったかのようです。それに、朝日新聞を非難したら、偶然ですが早速大竹先生を紙面のコメントで連投させてるし(笑、大竹―橘木論争はずっと前からでしょ)。
今後の政策課題として、「小さな政府」というのは部分的には確かに必要なのですが、一方で国民は「どう考えるか、どこら辺までの政府関与を求めるか」ということや、自分達の受益と負担の水準についても「国民的議論」が必要になるでしょう、ということを言いたかったのですけれど。昨年の経済財政白書についての記述でも書いた(経済財政白書が語るもの)のですが。もうちょっと、皆さん、前向きな議論にするようには出来ませんか?「お前が悪い」じゃなくて、「誰が拡大したか」じゃなくて、「今後、どうやって問題を解決していくか」「これから自分達はどうしたいか、どんな社会を望むのか」という視点から、次の政策を選んでいこう、という方がいいと思うね。問題意識としては、既に国民と政府とでは共有されているのですし。
野党も、「これを解決(或いは緩和する)には、こういう政策立案が必要なのではないか」という風に考えられたり出来ないものなんですかね?「何なにが、足りないのではありませんか?」という風にしないと、「小泉政権の責任だ」だけでは、相手は「いや、そうではない」と態度を硬化させがちなのではありませんか?どこまで行っても妥協点を見出せなくなり、「拡大させたのはアナタだ!」という追及をすればするほど、論点は「拡大したのは誰か」論争とか、「本当に拡大してるか」論争に陥ってしまい、目的とする「これ以上の状態悪化を防ぐにはどうしたらよいか」という所に辿り着けなくなってしまいます。政治は何の為にあるかというと、政府与党の相手の揚げ足を取ることではありません。純粋に、国民の為になる政策をどうやって考え、それを実現可能にしていく政治的手段は何か考えることです。
政府が「絶対に対策をやりませんよ」という無用な頑張りをするのならば、「やらないのは絶対にオカシイ」という主張をして論破するべきですけれど、「そういう問題点はある」ということを互いに理解しているのですから、「では、どうやってセーフティネットを確保する積もりなのか」とか、「非正規雇用の労働状況を改善させる為の政策としては、今考えている政策で十分なのか、どの程度の効果を見込めるのか」とか、「雇用改善で言えば失業率をどのくらい改善させる、といった数値目標を出してやるべきではないか」とか、そういう政策的な方法論を厳しくツッコムべきではないですか?それが身のある議論であろうと思うのですけれども。前にも書いたが、「小泉さんが悪かったんだ」ということを証明できるかどうかを争っている時間が長くなってしまうだけで、本質的には国民にとっては何にも前進しないのですから。どっちが正しいかなんて、どうだっていいんですよ、はっきり言えば。例えば「失業率改善の数値目標を掲げるくらい責任を持ってやらないのは、行政府としての責務を果たせていないではないか」ということであれば、国民の為に「約束」を取り付けられるし、政策に対する責任も担保することになるので、達成できなかった場合には勿論非難の対象に出来るのですから。
野党の戦術はいいとして、私の意見としては、「小泉政権下による政策運営によって格差が拡大した」というのは、部分的にはその可能性はあるかもしれませんが、全体では違うと思いますね。まず、「格差の正体とは何なのか」ということから始まってしまいますので、これは議論が色々ありますね。基準となるべきは何か、指標は正確に全てを表しているか、いつの時点での評価なのか、そういうことも色々と考えてみるべきですね。通常唯一の小泉政権担当の02年だけでは、「小泉政権のせいで拡大した」という結論を出してくることは出来ないと考えられますね。02~06年も拡大中かどうかも誰も証明出来てないでしょ?ひょっとして、逆に数値が小さくなっていたら、そんときはどうなの?「格差は縮小した」と言うの?有意な変化なのかどうかは分らんけれど、たった一つのデータ(02年)だけで「データにくっきり」もないでしょ?断定しすぎ。煽り過ぎだっての。
格差拡大を断定出来ない理由としては、第一に統計自体の問題というのがあります。ジニ係数が何を代表するのかという根本的な問題、数値を信頼するとして世帯構成変化とその変動寄与度がどの程度なのか、別な統計による家計調査では格差拡大とも言えない、といった意見があることです。
第二に政策担当が小泉政権だったから02年調査でそれが本当に表れたのか、ということです。通常、色々な政策があると思いますが、「即効性」の政策なんてそんなに多いとも思えないし、公約で出した政策を政権担当直後から取り組んでいったとしても、それが「調査」「委員会」「審議会」等々の様々な検討を経て、実際の形(実行可能な段階)として現れてくるのには時間がかかるし、そうした政策効果によって社会的現象として変化が出てきて尚且つ実際に認識されるまでにも時間がかかるのが普通と思いますね。そんなに急激な変化というのは、通常であれば起こりにくいと考えるのが普通なのではないのかな、と。
行政の政策には基本的に「慣性の法則」というか、いきなりの方向転換というのは難しいというような性質があると思っている。政治学者などはそういう研究をしているかもしれんが、よく判らない。何というか、「inertia」というようなものが政策には大体潜んでいそう(英語苦手なので変かも)。大方の政策は開始直後から100%の効果発揮は難しいし、新たな予算をドカンと獲得も難しいけど、逆にいきなりバッサリ切られるというのも少なそう。漸減というような感じは多いかもしれんが。だから、急に効果浸透なんてことが起こりえる訳が無いし、担当者達もある程度要領が分って効果が発現してきたとしても、それは数年後でしょ?きっと。
なので責任論をいくら考えてみたところで、「小泉政権のせいで格差が拡大した」ということを、厚生労働省の統計だけから言うことは難しいのではないかな、と。そんなことを証明する必要もなければ、理論的に証明することの方が困難と思うけれどもね。
ただ、一部には責任がある、と言ったのは、経済政策における問題ですね。今までデフレ期待とかについて記事に書いてみましたが、その中でちょっと思いついたことがあります。それは、2相性というか、デフレが2段階になっていて、その主因が別々なのではなかろうか、ということです。イメージとしては、前半がITバブル崩壊頃まで、後半はそれ以後ですね(これは後で別な記事に書いてみようと思います)。この前半と後半では、デフレの状況が異なっているような気がします。きっとうまく運営できていれば、少なくとも前半部分でデフレを脱却出来た可能性があるのでは、とさえ思えます。これは何を意味するかと言えば、小泉政権下での失敗ということです。確かに前世紀末からの問題を引きずってしまったのでしょうけれど、それでも政策的には不十分であったことは確かです。その結果が、若年雇用問題を悪化させたことに繋がった可能性はあると思いますね。そして、長期間それに対して「無配慮であった」ということもね。国民会議がフリーターを年間20万人減らすと宣言して、ようやく「どうしようか」ということが政治の場に上がってきたのですよ。
因みに、厚労省の統計発表というのは04年ですからね。
同じ読売の論調を見るとこうなっています。
広がる所得格差 : 大手町博士のゼミナール : トレンド : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
これは今日の朝刊記事と担当が全く同じ、宮崎誠記者ですからね。
いかに、メディアが便乗的なのか、ということがお分かりいただけるでしょう。これも「『下流社会』ハヤリ効果」かもしれんが(笑)。
格差拡大というのは、メディアや野党は世の中全体ということを問題視しているのかもしれませんが、むしろ同世代内での格差の方がより深刻な意味を持っているのではないか、と思っています。それは今の若年層の問題ということです。酷い言い方ですけれども、これから死に行く高齢層というのが大きな問題なのではなくて、将来の道のりが長い現在の若年層の人生を考えると、「同世代内格差」というのは重く圧し掛かるだろうと思います。その世代の活性が大幅に低下するという危惧があります。そして、それを回復するには長い時間と、その調整コストを社会が負担しなければならなくなるでしょう。そういう意味では、若年層の失業/非正規雇用者と、正規雇用者の人々との間にある格差というのは、かなり厳しいという印象ですね(これは当事者ではないのでよく分りません)。
格差が拡大してきたのが事実かどうかではなくて、既にある格差を緩和する措置をどの程度考慮するべきか、社会全体でそのコストを負担してくれる決意があるのか、そういうところの方が国民にとっては、はるかに難しい問題であろうと思います。