電脳筆写『 心超臨界 』

一般に外交では紛争は解決しない
戦争が終るのは平和のプロセスではなく
一方が降伏するからである
ダニエル・パイプス

読む年表 古代~中世 《 大化の改新――渡部昇一 》

2024-07-13 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


やがて入鹿自身が皇位を狙うまでになった。臣下が皇位を狙うなど、日本では通常あり得ないことだが、この時代にはまだ朝廷の権威が固まっていなかったと考えるべきであろう。なにしろ聖徳太子が十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)で「国に二君なく、民に両主なし」と皇室の権威を成文化してからまだ四十年ほどしかたっていなかったのだから。この蘇我氏の横暴をとくに憎んだのが、代々神事・祭祀(さいし)職をつとめ、かつて仏教受け入れ問題で蘇我氏と争った中臣(なかとみ)氏の若き秀才鎌足(かまたり)であった。


◆大化の改新

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p28 )

645(大化元年)
大化の改新
中央集権国家をめざした宮中のクーデター「乙巳(いつし)の変」

蘇我稲目(そがのいなめ)が外戚(がいせき)として皇室への影響力を強め、さらにその息子である馬子(うまこ)が、厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)と泊瀬部皇子(はつせべのみこ=崇峻(すしゅん)天皇)と力を合わせて反仏教派の物部(もののべ)氏を滅ぼし、さらに崇峻天皇を暗殺してから、蘇我氏の力はますます強大化し、政権は蘇我氏の一極支配となった。

馬子の子蝦夷(えみし)、さらにその子入鹿(いるか)の時代になると、その専横(せんおう)ぶりがいよいよ目立ち、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)も、皇位をめぐる争いによって一族もろとも入鹿に討たれてしまう。こうして聖徳太子の血を引く上宮王(じょうぐうおう)家も滅亡した。

やがて入鹿自身が皇位を狙うまでになった。臣下が皇位を狙うなど、日本では通常あり得ないことだが、この時代にはまだ朝廷の権威が固まっていなかったと考えるべきであろう。なにしろ聖徳太子が十七条憲法(じゅうしちじょうけんぽう)で「国に二君なく、民に両主なし」と皇室の権威を成文化してからまだ四十年ほどしかたっていなかったのだから。

この蘇我氏の横暴をとくに憎んだのが、代々神事・祭祀(さいし)職をつとめ、かつて仏教受け入れ問題で蘇我氏と争った中臣(なかとみ)氏の若き秀才鎌足(かまたり)であった。彼は神祇官(じんぎかん)の長官に任ぜられたのを固辞し、摂津に移って蘇我氏を討つ計画をすすめていた。

そのクーデターの中心ともなるべき人物として中臣鎌足が選んだのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)である。鎌足は皇子の蹴鞠の会に参加し、皇子の鞋(くつ)が鞠と一緒に脱げ落ちたのを拾って、跪(ひざまず)いて皇子に奉(たてまつ)った。これが縁で二人は親しくなり、心を許し合う仲になったという。二人は蘇我氏打倒計画が洩れるのを恐れ、儒学者南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の私塾にともに通うことにして、その往復の路上で策謀をめぐらした。鎌足の提案により、入鹿の従兄弟(いとこ)である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の娘を中大兄皇子の妃として石川麻呂を同志に引き入れた。

皇極(こうぎょく)天皇の4年(645)、三韓(新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高句麗(こうくり))から進貢(しんこう)の使者が来朝した。入鹿も出席してその儀式が行われ、石川麻呂が皇極天皇の前で上表文を読んでいるあいだに、潜んでいた皇子と鎌足が、佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と葛城稚犬飼連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)とともに躍り出て入鹿を斬り殺した。

息子の入鹿が殺されたことを知ると、蝦夷は自宅に火を放って自害した。このとき、聖徳太子が蘇我馬子とともに編纂したとされる『天皇記』『国記』が一緒に焼けてしまったのは残念であった。こうして中大兄皇子と中臣鎌足のクーデター(乙巳(いつし)の変)は成功し、いわゆる「大化の改新」がはじまる。

皇太子となった中大兄皇子はまず、新たに即位した孝徳(こうとく)天皇とともに群臣を招集し、「帝道はただ一つである。天はわが手をお借りになって暴虐の徒(蘇我氏)を誅滅した。これより後は君に二政なく、臣に二朝なし」と神々に誓わせた。

このころは唐の時代で、その勢力がきわめて強大であったので、このクーデターによる政権交代は蘇我氏との権力闘争というよりもむしろ、東アジア情勢に対応する天皇への権力集中と国政改革にその狙いがあったと言われる。そのために、唐の律令制を手本として中央集権国家の建設をめざしたのが「大化の改新」であった。

仏教を朝廷に入れた蘇我氏を討ったクーデターの総参謀は中臣鎌足であった。鎌足の先祖は、蘇我馬子に滅ぼされた中臣勝海(なかとみのかつみ)であり、鎌足の母もまた、同時に滅ぼされた物部守屋(もののべのもりや)の子孫であった。父系から見ても母系から見ても、仏教支持派に滅ぼされた神代以来の神道派の反撃のように思える。それが単なる国粋派の捲き返しでなかったところがおもしろいのである。

鎌足がクーデターの準備をしていたころのブレーンになったのは、聖徳太子によってシナに送られ帰朝した僧旻(みん)や南淵請安であった。中臣氏や大伴氏は元来、反大陸の国粋派であったはずだが、一度政権を握ると、鎌足は制度にならった政治機構をつくろうとしたのである。その新政府の顧問に僧旻と、渡来人の子孫であり小野妹子(おののいもこ)とともに随に派遣された高向玄理(たかむこのくろまろ)が参加していた点など、幕末の攘夷派が国政を握るやたちまち開国に切り換えたやり方とよく似ているではないか。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 読む年表 古代~中世 《 十七... | トップ | 読む年表 古代~中世 《 公地... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事