電脳筆写『 心超臨界 』

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この世で恥ずべきものはない
( ゲーテ )

読む年表 古代~中世 《 公地公民制の施行――渡部昇一 》

2024-08-16 | 04-歴史・文化・社会
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「改新の詔」には地方行政の整備(国郡(こくぐん)制度)なども含まれているが、その中心となるのは「公地公民制」であった。これは私有財産を廃止ということでもある。つまり、すべての土地と人民は公有化する、すなわち天皇に帰属するものとした。それ以前は、天皇も豪族もそれぞれ私的に土地・人民を所有し、支配していた。「改新の詔」第一条はこれを禁止し、私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものであった。


◆公地公民制の施行

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p32 )

646(大化2年)
公地公民制の施行
失敗に終わった私有財産廃止と土地国有化

蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)が討たれた、時の天皇(女帝)皇極(こうぎょく)天皇の4年を大化元年とし、翌2年、「改新の詔(みことのり)」が出され、「大化の改新」が始まった。この「大化」が日本初の元号と言われる。

これによって日本は唐の法制の影響を受けた律令国家となり、その後に出された大宝律令(701)、それを改めた養老律令(718)によって、一応の完成を見た。

「改新の詔」には地方行政の整備(国郡(こくぐん)制度)なども含まれているが、その中心となるのは「公地公民制」であった。これは私有財産を廃止ということでもある。つまり、すべての土地と人民は公有化する、すなわち天皇に帰属するものとした。

それ以前は、天皇も豪族もそれぞれ私的に土地・人民を所有し、支配していた。「改新の詔」第一条はこれを禁止し、私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものであった。

ところが、この制度はうまくいかなかった。「公地公民制」の基本であり、律令制の根幹でもあった「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」は、天皇のものである公地を公民に貸し与えるという形をとった。そのために戸籍をつくり、細かい規定にしたがって農民に土地を分け与えたが、その土地は6年後には返還しなければならなかった。これは猛烈な反発を生んだようだ。

農民は土地を大切にし、土を肥やして多くの収穫をあげようとするものだからである。苦労して育てた田畑が6年後に取り上げられることがわかっていたら、熱心に畑を耕し、土地の改良などするわけがない。農業は社会主義ではうまくいかないようなのだ。

奈良時代前期の723年には「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」が発布された。これは溝や池(灌漑(かんがい)施設)を新たにつくって開墾した土地は三世(本人・子・孫、あるいは子・孫・曾孫)まで所有を許す、ただし、既存(きそん)の灌漑施設を再利用して墾田(こんでん)した場合は一代限りとする、というものであった。

しかし、そのわずか20年後の743年、聖武(しょうむ)天皇の時代には、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)」が出され、新たに開墾した土地はすべて私有が認められた。ただし、身分によってその広さは異なり、10町から5百町までという開きがあったから、貴族や寺院は広大な土地を私有することができた。

こうして結局、「改新の詔」からはじまった土地政策は失敗した。大化の改新の土地国有化は、およそ百年後には実質的に廃止されたことになる。

とはいえ、いったんは豪族の土地もすべて公地化したのだから、旧来の豪族の勢力は衰退した。そして、律令制度による中央集権国家の官僚たちが、代わって力を持つようになった。彼らは自分たちやその一族に便宜をはかって土地を私有し、かつ広げるようになった。

こうして新しい貴族たちが生まれ、気がついてみたら、中臣鎌足(なかとみのかまたり)を始祖とする藤原氏が圧倒的に多くの土地を所有し、力を持っていた。これも歴史の流れというものであろう。
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