電脳筆写『 心超臨界 』

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不都合な真実 《 梓潼県の「貞孝節烈総坊」の衝撃――石平 》

2023-08-26 | 04-歴史・文化・社会
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既婚の女性が夫に死なれたとき、彼女に残された道は二つだった。一つの道は、もし、夫の残した跡継ぎの息子がいる場合、女性は嫁ぎ先の家にそのまま残って、寡婦の立場で夫の遺子を育て上げなければならない。それは普通「守節」というが、「守節」を貫いた女性は「節婦」と呼ばれ、社会一般に高く評価される。場合によっては朝廷からも表彰されるのである。だが、もし死んだ夫に遺子がいない場合、あるいは遺子がいても男の子でない場合、未亡人はどうするか。残される道は一つしかなかった。すなわち、嫁ぎ先と実家の両方の家族と社会一般の圧力の下で、夫に殉ずる形で自らの命を絶つのである。


◆梓潼県の「貞孝節烈総坊」の衝撃

『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』http://tinyurl.com/yymgaozm
( 石平、PHP研究所 (2019/3/16)、p21 )

そのころ偶然に、長く忘れていた儒教の一面に触れる機会があった。そして私は、その体験から、大変な衝撃を受けることになったのである。

四川省の北部に梓潼(しとう)県というところがある。中国の戦国時代からすでに名前が知られている。歴史のある地方である。私の大学の親しい同僚にこの県の出身者がいて、夏休みに彼の誘いで遊びに行ったのだった。

そこで、彼に県内の名所をいくつか案内してもらったのだが、その中の一つが、地元で「碑坊街」と呼ばれる場所だった。

「碑坊」というのは中国の伝統的建築様式の一つで、門の形をしている建築物である。日本の仏教寺院の山門や神社の鳥居と似ていて、その中間のようなものであるが、機能的には「門」として使われるのではなく、現代風にいえば要するに「記念碑」である。清王朝までの歴代王朝においては、歴史上の重要人物やその事績を表彰し記念するために碑坊が全国のあちこちでよく建造されていた。しかし文化大革命にその大半が取り壊されて、今では一部しか残っていない。

梓潼県の「碑坊街」には、清朝末期に建てられた碑坊が現在まで残っていたため、街全体が観光名所となっていた。その碑坊の正式名は「貞孝節烈総坊」という。全国に現存する碑坊の中でも、とびきり大きなものの一つである。

同僚の案内で「貞孝節烈総坊」に近づくと、まずはその重圧感に圧倒された。高さはおよそ10メートル以上あり、4本の太い石の柱で支えられていて、彫刻などの装飾は豪華絢爛である。

碑坊の真下で同僚の解説が始まったのだが、この「総坊」は清朝の光緒帝の時代、朝廷からの命令によって地元出身の143名の女性を表彰するために建てられたという。この143名の女性の名前は、実際に碑坊の中心部分にきちんと刻まれていた。

朝廷は、いったいどうして、辺鄙な一地方にすぎない梓潼県の女性たちを表彰したのか。それは、碑坊の名前の「貞孝節烈」の四文字の示すとおりである。彼女たちが地元の「貞女」「孝女」、そして「節婦」「烈婦」だと認定されたので、碑坊に名を刻まれて表彰されたのである。

同僚の説明を聞くまでもなく、「貞女」「孝女」の意味は何となくわかった。だが、「節婦」「烈婦」とは何か、そのときの私にはまったく見当もつかなかった。すると、歴史学が専門で地元出身の同僚が詳しく解説してくれた。

同僚の解説によると、礼教(すなわち南宋時代以来の新儒教)が支配する明朝や清朝の時代、女性が結婚して夫に先立たれた場合、原則的には再婚が許されなかった。礼教の「礼」がそう決めているからである。

既婚の女性が夫に死なれたとき、彼女に残された道は二つだった。

一つの道は、もし、夫の残した跡継ぎの息子がいる場合、女性は嫁ぎ先の家にそのまま残って、寡婦の立場で夫の遺子を育て上げなければならない。それは普通「守節」というが、「守節」を貫いた女性は「節婦」と呼ばれ、社会一般に高く評価される。場合によっては朝廷からも表彰されるのである。

だが、もし死んだ夫に遺子がいない場合、あるいは遺子がいても男の子でない場合、未亡人はどうするか。残される道は一つしかなかった。すなわち、嫁ぎ先と実家の両方の家族と社会一般の圧力の下で、夫に殉ずる形で自らの命を絶つのである。

このような行為は「殉節」と呼ばれて、それを成し遂げた女性はすなわち「烈婦」(烈女ともいう)と呼ばれる。「烈婦」「は「節婦」よりもさらに高い評価を受け、「殉節」がよりいっそう名誉なこととして、朝廷により表彰されるのである。
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