電脳筆写『 心超臨界 』

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( シェークスピア )

日本史 鎌倉編 《 「神国」思想の誕生——渡部昇一 》

2024-07-19 | 04-歴史・文化・社会
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日本軍の受けた体験も深刻であった。今までは国内戦だけをやってきて、それなりのルールがあったのに、今度の敵は国際戦のベテランであった。武器には毒矢あり、また幼稚とはいえ鉄砲があった。特に日本の武士が、「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは……」といった調子で名乗りをあげているうちに、数十・数百・数千の敵軍が、集団戦法で攻めてくるのだ。農耕民族と騎馬民族の戦いなのであった。両者が戦えば、騎馬民族が勝つに決まっている。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p55 )
1章 鎌倉幕府――近代国家意識の誕生 = 元寇が促した「一所懸命」からの脱却
(2) 初の国難・元寇(げんこう)――勝者の悲劇

◆「神国」思想の誕生

クビライ・カンはこれによって、8月を期して日本攻撃を行なうことにした。

900艘(そう)の舟と、水夫など1万5000を用意するように命ぜられた朝鮮王(元宗(げんそう))は、あまりの負担の過重さにショックを受けて死んで、皇太子が即位した。これが忠烈(ちゅうれつ)王である。この前にも朝鮮は、造船のために3万人以上が徴発されていたのであって、元宗の嘆願文にもあるように、朝鮮中の人力、木材、食糧などは「搾収(さくしゅう)して余(あま)すなし」という状況だったのである。

かくして第一回の蒙古襲来、つまり文永の役(1274年)が起こった。

敵は約2万6000人、そのうち6000人は高麗兵である。10月3日に合浦(がっぽ)を出港した元軍は翌々日に対馬に上陸した。対馬守(つしまのかみ)の宗助国(そうすけくに)は80騎を率いて防戦したが、圧倒的に多数の敵軍のことゆえ、玉砕した。その後、全島が掠奪された。

9日後の10月14日、元(げん)軍は壱岐(いき)に上陸した。守護代の平景隆(たいらかげたか)は100騎を以て防戦するが、やはり数に圧倒的な差があり、最後は自殺して玉砕。また、肥前(ひぜん)の松浦(まつうら)も襲撃され、日本軍は敗れた。元軍は男を見つければ殺し、女は捕虜にしながら10月20日、筑前(ちくぜん)に到着した。主力は博多(はかた)・箱崎(はこざき)方面より上陸し、佐原(さはら)・赤坂(あかさか)・今津(いまづ)にも別動隊が上陸し、これを迎え撃つ鎮西(ちんぜい)の日本軍約5000と激烈な戦いがはじまった。

結果は敵の圧倒的な勝利である。特に敵の主力が上陸した博多・箱崎方面は、完全に蹂躙され、筥崎(はこざき)八幡宮も火にかかって炎上するという戦況であった。

この日の戦闘は早朝よりはじまったため、日没に至ると、元軍も疲労し、夜襲を恐れてか、舟に引き揚げた。ところがまさにこの夜に、突如、大暴風雨が起こり、元軍のうち、過半数に当たる約1万3000人が死んだ。これを、日本人は八百萬(やおよろず)の神の加護によるものとして「神風(かみかぜ)」と呼んだのである。

対馬・壱岐の戦(いくさ)を含めても、これはたった三日間の戦いであったが、両軍が受けた印象は深刻であった。元軍は久しく強い抵抗に遭(あ)ったことがなかった。宋や朝鮮では元軍の行くところ、風に吹かれた草のごとく、なびいたのである。それに反し、日本軍は100騎以下の少数でも、敢然と突撃したのであった。のちになって忽敦(クドゥン)は、「蒙古人は戦いに習うというけれども、日本兵以上にはやれないだろう」と言っている。

日本軍の受けた体験も深刻であった。今までは国内戦だけをやってきて、それなりのルールがあったのに、今度の敵は国際戦のベテランであった。武器には毒矢あり、また幼稚とはいえ鉄砲があった。特に日本の武士が、「やあやあ遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、われこそは……」といった調子で名乗りをあげているうちに、数十・数百・数千の敵軍が、集団戦法で攻めてくるのだ。農耕民族と騎馬民族の戦いなのであった。両者が戦えば、騎馬民族が勝つに決まっている。

それが逆転勝ちになったのは、まさにその夜の暴風雨なので、当時の人がこれを「神風」と呼んだのは実感であったろう。

クビライ・カンも武力で日本を征服することがそれほど簡単でないことを知って、もう一度日本に手紙をよこして、修好を求めたが、時宗は、スパイしに来たのだろうと言って使いを斬らせた。そして、逆襲することを具体的に検討しはじめた。一方、これとは別に、日本軍は朝鮮の南岸の港を片っぱしから攻撃した。どっちみち酷い目に遭ったのは朝鮮である。

一方、クビライ・カンは数年間の準備期間を置き、今度は前より6倍以上、十数万の大軍を派遣してよこした。これが弘安(こうあん)の役(1281年)である。

5月21日に対馬が再び侵され、それから7月27日まで2ヵ月間、沿岸各地で戦いがあった。海上では圧倒的に元軍が優勢で、日本軍は手も足も出なかったし、陸上でも決死隊が時々小成功を収めたにすぎない。平戸(ひらど)など取られ、大宰府も危なくなった。

そこに元の主力約10万が到着、いよいよ本格的侵略が行われようとしたとき、8月6日の大暴風雨があって元軍は全滅した。ふたたび「神風」である。

これで日本神国思想は上下に浸透して、独特のナショナル・アイデンティティを生んだ。この13世紀の事件が、この前の戦争の「神風特別攻撃隊」へとまっすぐ連なるのである。
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