電脳筆写『 心超臨界 』

どんな財産も誠実にまさる富はない
( シェークスピア )

日本史 古代編 《 死者の権利と時間的民主主義――渡部昇一 》

2024-07-19 | 04-歴史・文化・社会
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デモクラシーは、なるべく多くの人に投票権を持たせて、その意見を政治に反映させることにかかっている。(中略)投票するのはもちろん現在生きている人たちがするわけであるが、そのとき、死者のことを考えるのが正統主義のセンスである。G・K・チェスタトン(イギリスの思想家・小説家)は、これを時間的民主主義の拡大と名付けている。普通の場合、民主主義の拡大というのは、選挙権の水平的拡大に対して用いられてきたわけだが、彼は死者の意見を考慮すること、つまり伝統として残されたものに、しかるべき敬意を払うことが時間的に民主主義を拡大することになると考えたわけである。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p84 )
1章 神話に見る「日本らしさ」の原点
――古代から現代まで、わが国に脈々と受け継がれたもの
(6) 「伝統への敬意」こそ民主主義の精神

◆死者の権利と時間的民主主義

ここで「死者の権利」ということにちょっと触れなければならない。日本史の特徴を考えるときは、これがきわめて重要だからである。

日本人が死んだ先祖のことをいつも気にしていることは、明治に日本に来た外人の目にはひどく異様に見えたものらしい。それでラフカデオ・ハーンなども、日本の特徴を、「死者の支配(レグヌム・モルトオルム)」と言っているくらいである。

デモクラシーは、なるべく多くの人に投票権を持たせて、その意見を政治に反映させることにかかっている。昔は君主が、次に貴族が、それから有産階級が、というふうに投票資格が拡大され、それが無産者や女性にまで及んだのが、今日の欧米や日本の民主政治である。投票するのはもちろん現在生きている人たちがするわけであるが、そのとき、死者のことを考えるのが正統主義のセンスである。

G・K・チェスタトン(イギリスの思想家・小説家)は、これを時間的民主主義の拡大と名付けている。普通の場合、民主主義の拡大というのは、選挙権の水平的拡大に対して用いられてきたわけだが、彼は死者の意見を考慮すること、つまり伝統として残されたものに、しかるべき敬意を払うことが時間的に民主主義を拡大することになると考えたわけである。

たとえば伝統的な教会の祝祭日は、何百年もの間、一般の庶民が喜んで祝ってきたのであるから、合理主義的な風潮が出てきたとき、その勢いにまかせて、あっさりと廃止してしまったりするのは、正統意識、つまり時間的民主主義の原理に反するとチェスタトンは言う。

このチェスタトンの意見は、明治41年に出された『正統思想(オーソドクシイ)』(最近春秋社より福田・安西氏の新訳が出された――『正統とは何か』)に明快に述べられているのであるが、その後のイギリスの歴史の流れを見ると、チェスタトンの言ったことの正しさが証明されたように思われる。そして彼の意見は、今日の日本のデリケートな問題を理解するうえにも、役立つのではなかろうか。

たとえば『地鎮祭』の問題である。公立の建物を建てるときに特定の宗教に儀式を使うのは憲法違反だという。そういう理屈は成り立ちそうに見える。しかし、日本人は有史以前から建物を建てるときはそういうことをしてきた。延べ何十億、何百億の日本人はそうすることに賛成であった。そういう習慣は、積極的に有害であるということが歴然としていない限り、一握りの人が作った法で圧殺すべきではない、というのが正統のセンスである。それに公共建造物の地鎮祭をキリスト教の一派や仏教の一派でやるならば、憲法違反にもなろうが、神社の神主さんがやるのならばかまわないだろうというのが、日本の庶民のセンスである。

これが憲法違反なら、天皇の存在自体が憲法違反ということになる。何しろ神の子孫ということになっているのだから。

しかし天皇は憲法第1条に認められているから、信教に関する憲法20条と矛盾することになる。したがって、現行憲法の第1条を削るか、第20条を削るか、どちらかにしなければならないことになろう。それは日本国民の大分裂を招くことは必至であるから、国民の統合を目的にして作られた憲法の精神自体に反することになってしまう。

それに大部分の国民は今、憲法に手を付けること自体に反対のようである。というようなわけで、どうしようもない。しかし地鎮祭が違憲ならば、法の論理はまっすぐに天皇自体を違憲とするのだ。日本憲法の内部にこのような矛盾を抱えていることは、きわめて不快なことである。どうしたらよいのか。
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