電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
笑いとばすほうが人には合っている
( セネカ )

真理のひびき 《 人は自己のために活きると同時に――中村天風 》

2024-07-06 | 03-自己・信念・努力
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[箴言二十八]

人は自己のために活きると同時に
亦(また)常に 人の世のために 活きることを忘るべからず
Man should not forget that while he lives his life for his own interest,
he must live always for the benefit of society.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p258 )

この箴言もまた読んで字のごとしである。多くいうまでもなく、われわれは無人の地に孤独の生活を営んでいるのではない。すなわち他の人々と共にその生活を共同的にあえてなしているのである。

である以上は、自分のことだけを考えての生存や生活の方法では、万物の霊長たる人間としての本来の面目に対して、全然その意味をなさないことになる。

否、ただ単にその意味をなさぬばかりでなく、そうした人生では決してその人にとって順当な人間としての幸福は何としても招かれようはずがない。

それは今もいった通り、人間というものは孤立の存在というものを絶対に許容されないという厳しい天理があるためなのである。

そもそも「孤立」ということと、「独立」ということとは、全くその意味を異にしている。もちろん、独立ということは、正しい自覚をもつ人間として最も尊い人生状態である。がしかし、孤立は前述の通り天理に背反(はいはん)する無価値のものである。

である以上、自分のことのみ考えて、他の人々のことを考慮の中に入れない人生観や生存生活の方法というものは、自分ではむしろ気付かずとも、それはとりもなおさず孤立とほとんど五十歩百歩、いささかの異なりがない状態なのである。

したがってそういう考えをもつ人には、何としても本当の人生幸福は来ない。否、幸福のみか人間としての天分の発揮すらもできないという惨(みじ)めな結果さえ来る。

そうなったら人間はいったいどうなるだろう!

ただ万物の霊長という名のみの存在で、その生涯に何の光も価値もないただ苦しみ患(わずら)うだけの惨めなものになり終わる。

いつも説示の際にも力説する通り、人間の一生なるものはただ一回限りのものである。

その一回限りのものを、無意味に活きたのでは、極言すれば畜類にも劣るといわねばならない。

だからこそ、いささかなりとも人生に正しい自覚をもつ者は、常にこの箴言の現示する通り、できる限りの誠意をもって人の世のためを思い、それを実行することをその心としなければならない。

ところが、ここに特に真剣に注意したいことは、この「人の世のために尽くす」という言葉が、概して一種のお題目になっていて、少しもそれが価値高い実行に現実化されていない人が往々にしているという事実である。

たとえば適切な例でいうと、現に多年の病苦や人生苦を心身統一法という絶対真理で救われた無限の喜びや感激を、ただ自分独りのものとして、一向に他にその幸福を領けようとしない人があるのである。

否、私はそういう人のことを、人間の尊い聖なる情熱の冷めている、いわゆる冷酷な人ともいうべきであると思う。もちろん数ある会員の中にこの種の唾棄(だき)すべき人はそうたくさんはいないが、ときにたまたま散見する。他の人にこの真理を伝えようとしない人は、要言すれば人の世のためを思うという純聖なる人類愛がその人の心の中に燃えていないからだといえる。その人々の弁解の言葉は、いつも判で押したように「いくら勧めても来ないから」とか、「ああいう人の好意を無視する人などには勧めたくない……」とか、なんのかのとの言い訳があるようであるが、とどのつまりは人間の聖なる思いやりという気高い情熱が冷えた、エゴイスティックな気持ちにその人の心が堕してしまっているからであるといわねばならない。

ある恩情なり情誼(じょうぎ)に接して、それに報いたいと思わない人は、およそ侵してはいけないコンペンセーション(代償)の法則を無視した人である。

そして、そういう種類の人は、必ずややはり当然のコンペンセーションの法則の厳格な支配を受けて、疾病苦なり運命苦に必ずしばしば襲われる。

しかも、なおかつその原因に気付かずに、その疾病はこういう原因からだとか、その運命苦はある経済条件が原因だとか、あるいは経営上のミスだとか、あるいははなはだしいものになると「責」を他人に負わして、誰々のためにこうなったとか等々、少しもその原因が自分の心の中の思いやりとか感恩感謝という正しい情念の欠乏、または冷却からだという本当の理由にその反省が向けられようとしない。

否、反省しようにもはっきりいうと、心それ自体が遺憾ながらその機能性を失っているために、いいかえれば感応性能のアンバランスのために自己の心境に対する正当な判断ができないので、あくまでも自分の現在意念に、換言すると自分の今の考え方にいささかも間違いがないと、誤った断定を誤っていないと誤っているのである。しかも少しもそれに気づかないのが、そういう人の共通性なのであるからである。

しかも事実において、最近の世の中には、残念ながら、その種の人がますます増加の傾向さえあるのである。

だからこそ、あえて自問自答をおすすめしたい、果たして皆さんはいずれの種類に属する人か? ということを。

これは本当に真剣に内省検討してみてほしい! 中には「理屈は充分理解して『わかって』いるが、なかなか人の事にまで手が延びぬわ」などと平然という人すらある。

私もかつてインド哲学の研究中、こういわれたことがある。「君は朝から晩まで自分の病苦ばかりを苦悶しているが、たまには人のことも考えたらどうだ?」と。

その当時の私は人のことを考える気持ちなどいささかもないくらいに、自分の病苦に苦しんでいたものだから、「病が恢復してから人のことも考えましょう」と平然としていったものである。すると、「現在でも考えられるじゃないか?」というから、「現在そんな余裕なんか私の心の中にはありません」といったら、「君は情けない人だね、自分がやるせない病苦を感じたら、こんな苦しみを他の人が感じたらどうだろう? さぞつらいことであろう……でもこの苦しみを自分だけで味わっているのがせめてもの幸いだと思えないかね……いいえ! そう思うような人間らしいゆかしい他愛心が君の心に燃えてくると、もっともっと早くその病も恢復するのだがなあ」と熱意をこめていわれたとき、はっと私は、なにか厳しいものを心に感じた。

それもそのとき以前の私なら、あるいはその尊い言葉を一笑に付して、何ものをも感じなかったかもしれない。詳しくいえばそのとき以前の私は医科学のみを専攻しただけに、心の態度と自然良能の密接な関係などという物質科学以上の純粋科学のあることを認識していなかったからである。しかし、幸いにもその言葉を耳にしたときは、物質科学以上の純粋科学にようやく目覚めかけていたときだけに、すなわち科学的迷妄(めいもう)に相当の自覚を感じていたときだったから、実際、はっと大きい手応えを心に感じたものである。

であるからそれからというものは、同じ痛みでも苦しみでもこれが自分ひとりの苦しみであり、痛みであるのがせめてもの幸いだ、この老人にもしもこの苦痛があったら、さぞや可哀想であろうと、私の傍らにひごろ親しく近侍(きんじ)している老爺に思いやりの心をかけるように発心(ほっしん)して以来、まったく不思議なほど苦痛も軽減してきて、恢復度も目に見えるようになってきたのである。そして今さら精神態度の生命力に及ぼす実際を、事実に体験させられて驚いたものである。

しかし諺にいう通り、事実が最後の証明者である。まったく一事が万事のたとえの通りで、こうしたことが反省のきっかけとなって、心の態度の改善に心がけて以来、今やまさに誇るべき健康美と運命境に恵まれるに至ったのである。

そしてひたすらに自分の幸福を思うにつけて、人々の幸福を思わざるをえない思いやりの心情が自然と私の心に湧き出てきて、この聖業を思い立って以来現在に至るまで、おかげにも半世紀にわたって、人の幸福のために営々としていられるという至幸至福の日々を送りえている。それだけに皆さんにおいても、要はこの箴言にある通り、もちろん、自己のために活きる方策や方法に努力する必要は蔑(ないがし)ろにできないが、と同時に常によきにつけ悪しきにつけ、人の世のため、人々の幸福を考えて、いいかえれば思いやりの心をゆたかに自分の心のものとしてほしい。他の人々もあなたと同様に尊い生命に活きているのであるから。それにはもう一度じっくりと私の著書『真人生の探求』の結論辞を熟読してほしい。そして万物の霊長たる人間の真価を発揮し、その本然に安住するように正しく考えることを推奨する。
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