電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

真珠湾攻撃の真実 《 亡国の真珠湾攻撃――林千勝 》

2024-06-24 | 04-歴史・文化・社会
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10月下旬から11月初めにかけての時期に永野(修身)軍令部総長は真珠湾攻撃を裁可してしまうのです。永野修身はこの不可思議な裁可をした理由を、戦後、東京裁判の検察尋問に答えて次のように証言しています。「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったのでこちらの計画(「腹案」)に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」。すなわち、山本が辞任しないようにするためだけに、永野は亡国につながる真珠湾攻撃を裁可したという証言を後世に残したのです。


◆亡国の真珠湾攻撃

『近衛文麿 野望と挫折』
( 林千勝、ワック (2017/11/24)、p228 )

なぜ山本(五十六)はこのような国益を損なう暴挙を企図したのでしょうか。

彼は若いころの米国での留学や駐在のときから真珠湾攻撃を思いえがいていたという話があります。アメリカ軍人から真珠湾を攻撃すれば日本に勝機があるとでも示唆されたのでしょうか。いずれにせよ、真珠湾攻撃が山本の信念になっていたようです。

そんな彼をなぜ連合艦隊司令長官に任命し、しかも、まるで日米開戦を待つかのように比類なく長期間存在させていたのか、まるで真珠湾攻撃前提のトップ人事です。彼を連合艦隊司令長官に任命したのが米内光政です。

連合艦隊のなかでは、多くの反対を押し切って昭和15年末ごろに山本の一存で真珠湾攻撃が決定されました。

しかしながら海軍省軍務局や作戦部の大反対がつづきました。

これらの反対論は、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧したきわめて合理的なものでした。航空艦隊参謀隊長の大西滝治郎は16年9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ちあわせの席上次のように述べています。

「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやっても何処をやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」

「腹案」の戦略思想と軌(き)を一(いつ)にするものです。

けれども10月下旬から11月初めにかけての時期に永野(修身)軍令部総長は真珠湾攻撃を裁可してしまうのです。永野修身はこの不可思議な裁可をした理由を、戦後、東京裁判の検察尋問に答えて次のように証言しています。

「海軍省軍務局はアメリカ艦隊を待ち受けるとする伝統的な手段を好んだのです」。しかし、「山本大将は真珠湾攻撃計画が正しいという強固な考えがあり、その計画が実行できなければ部下と共に辞職するとおどしたのです」

「私はもともと海軍軍令部案(「腹案」)に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つという計画を使うことに賛同していました」

「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったのでこちらの計画(「腹案」)に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」

すなわち、山本が辞任しないようにするためだけに、永野は亡国につながる真珠湾攻撃を裁可したという証言を後世に残したのです。国益にかなう合理的な理由はなかったと言っているのです。永野は暗に「口にできない理由があった」と述べているのです。

真珠湾攻撃を裁可した永野の背後にはまさに闇があると言わざるをえません。この後、永野は冬の寒い監獄で窓を破られたままにされ裁判途中の昭和22年1月2日急性肺炎にかかります。永野は巣鴨プリズン(拘置所)から両国の米陸軍第361野戦病院に移され3日後に死去しました。まるで殺されたようだと言われています。

永野の死後、拘置所の部屋に残された裁判関係資料、手紙、諸記録等の貴重な書類は妻に引きとられました。しかし、それらがぎっしりと詰まった大きなトランクは、妻と娘が高知の自宅へもって帰る途中の列車で盗まれてしまうのです。妻は新聞広告を出してまでトランクを必死に探しましたが出てきませんでした。かわいそうに妻はこれを苦にして間もなく亡くなります。

なお、日本は真珠湾を「奇襲」したつもりでしたが、ルーズベルト大統領は山本の企てを先刻承知で、大事な空母は避難させ、旧式戦艦等を無防備で真珠湾に停泊させ、日本海軍の「奇襲」を待っていたとする説が有力です。


ルーズベルト大統領は、大統領選挙当時に戦争不参加を公約していました。戦争不参加は世論の圧倒的な支持を得ていました。ルーズベルト大統領は、この公約を180度ひるがえして日本やドイツと開戦するための口実を求めていたのです。

だからヒトラーひきいるドイツ軍は、実質上大西洋でアメリカ艦隊の艦船から攻撃をうけていましたが、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍んで百パーセント自重していたのです。

この真珠湾攻撃が亡国の道であることは、豊富な情報ネットワークをもっていて米国事情に詳しい近衛は熟知していたと思われます。近衛と山本はしばしば密に情報交換をしていました。16年9月12日にも近衛は山本と秘密裏に会っています。真珠湾をやった場合、超大国アメリカを本気でたちあがらせてしまうのですから、結局は日本に勝ち目がないと山本も認識していたでしょう。最初の1年や1年半はともかくそれ以降は見こみがないことを山本は近衛に正確に伝えていました。さらに2人の間には記録に残っていない特別な意思疎通もあったかもしれません。

現に、緒戦の勝利で多くの人々が喜びにわいていたとき、近衛はまったくひとり冷静でありました。12月8日、風見章も息子に「第一撃は立派だが、いずれ日本は負ける運命にある」と話しています。

風見と山本もきわめて親密な仲でした。風見は山本への手紙を新聞記者に感づかれないようにとの理由で、秘書ではなく、しばしば長男の博太郎に持っていかせました。山本から風見への手紙は風見自身が終戦後すぐにすべてを焼却しています。長男はのちに次のように回想しています。

「親父は終戦後3日か、4日、1週間もしないうちに手紙を全部焼いてしまった。それは徹底していて、それまでのものを全部。他人に迷惑をかけるのが一番いかんというのが、親父の考えだった。僕が見たら近衛さんの手紙、山本さんの手紙、米内さんの手紙だとか、いろいろな人の手紙がある。僕は焼くのはもったいないと思ったから、『こういう手紙は焼かずにしまっておいた方が、いいんではないか』と親父にいったらね、『そんなことを言うな。もし万が一それがもとで迷惑をかけたらどうするんだ。米軍なんて何をやるかわからんのだから、間違いがないようにこういうふうにやるんだ』」(「父・風見章を語る――風見博太郎氏に聞く」)

まず長男の目についたのは、近衛、山本、米内からの手紙だったのです。とくに数が多かったのです。「迷惑をかけたらどうするんだ」と言っていますが、山本はすでに2年以上前に亡くなっていていません。「米軍なんて何をやるかわからんのだから」と言っていますが、風見は日記や関係資料はきちんと残しています。近衛、山本、米内からの手紙を終戦後すぐさま焼いたのは、自分を守るためであったのでしょう。絶対に残してはいけない事実の一部が彼らとの手紙のやりとりに書かれていたのでしょう。あるいは、近衛、山本、米内との手紙のやりとりの多さ自体も隠しておきたかったと考えられます。

山本は自由主義的と呼ばれた左派の言論人や学者たちとも親しいつきあいがありました。昭和16年4月には、異例なことに、12人の言論人および学者グループが横須賀に入港中の連合艦隊旗艦長門に山本長官を艦船見学を兼ねて訪ねています。東京朝日新聞論説委員で風見や尾崎と親しい関口泰、政治学の矢部貞治、経済学の大河内一男など昭和研究会にいた顔ぶれです。
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