電脳筆写『 心超臨界 』

人生は歎き悲しむよりも
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( セネカ )

歴史を裁く愚かさ 《 ドイツが克服したワイマール期の民主主義観——西尾幹二 》

2024-07-06 | 04-歴史・文化・社会
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弱い首相は、自分の地位を維持するのに汲々として国内の利益グループの利害調整に心を奪われ、外交的にはしばしば国益に反する行為に走る。わが国の政府が、さきがけと社会党(当時)への遠慮から、韓国の干渉に屈して江藤前総務庁長官その他の閣僚を馘首(かくしゅ)したという事実は、まさにそうしたことの表われである。首相の権限が弱ければ弱いほど民主主義は安泰だというのは今の歪んだ日本の考え方にすぎない。これはじつはドイツがすでに克服したワイマール期の混乱の時代における民主主義観にパラレルなのであって、国際的な水準からいっても相当に時代遅れの代物なのである。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p228 )

第4章 日本人よ、知的に翻弄されるな
3 ワイマール時代のドイツと日本の政治情況

◆ドイツが克服したワイマール期の民主主義観

ヒトラーを生んだ国において、災害の場合に関しても、いわゆるオウムのような破壊活動組織に対しても、なぜこんな大胆な措置、日本でなら横暴とも非民主的ともみられかねない措置が行われるかといえば、理由は非常にはっきりしている。むしろヒトラーを生んだ国であるがゆえにといったほうがいい。つまりそれこそがワイマール時代に対する反省なのである。

ワイマール共和国の14年間は、5つないし6つの政党が連立を繰り返したが、政党間の政策のすり合わせにきわめて多くの時間を要し、必然的に首相の権限が弱くなったために、多大の政治的空白が生じた。そして国民はそうした政治的情況にほとほと愛想をつかしたあげく、ナチスの台頭を狂喜して迎えるという手順を踏むことになるのだが、戦後の西ドイツ憲法や諸法律の基本には、この点での歴史的反省が強く働いているといっていい。

それはどういうことかというと、権限を首相に集中することが民主主義であるという考え方である。つまり首相の権限を弱体化することは、かえって独裁を生むという経験と知恵から、日本では考えられないような措置がとられてきたのである。

弱い首相は、自分の地位を維持するのに汲々として国内の利益グループの利害調整に心を奪われ、外交的にはしばしば国益に反する行為に走る。わが国の政府が、さきがけと社会党(当時)への遠慮から、韓国の干渉に屈して江藤前総務庁長官その他の閣僚を馘首(かくしゅ)したという事実は、まさにそうしたことの表われである。首相の権限が弱ければ弱いほど民主主義は安泰だというのは今の歪んだ日本の考え方にすぎない。これはじつはドイツがすでに克服したワイマール期の混乱の時代における民主主義観にパラレルなのであって、国際的な水準からいっても相当に時代遅れの代物なのである。

そこで、戦後の西ドイツ基本法は、首相の地位を強化する条項をつくって、建設的不信任という考え方を採り入れている。次の首相を誰にするかが決まらない限り、首相の交代は許されない。シュミット首相からコール首相に変わった1982年にたまたま私はドイツにいた。当時、次は誰が首相になるか分らないというような政治情況をつくることなく、もしシュミット率いる社民党が負ければ、後継者はコールであるということがはっきり確定した上で選挙が行われた。日本のように、もし選挙で自民党が負けたら、中間政党が出てきてわけの分らない人物が首相になるのかもしれないというようなことを絶対にさせないために、あらかじめ次の首相を誰にするかということが国民の間ではっきりしている。

これはイギリスも同様である。保守党と労働党の間で党首が先に決められているから、誰が首相になるかを国民は念頭に置いて選挙することになる。アメリカやフランスは大統領制であるから、もちろん国民は自分たちのトップに誰を選ぶかを最初からきちんと認識している。ところが日本はやっと二大政党らしき形になったかと思ったとたん、今回の選挙においてもその直前まで、新進党は鳩山を担ぐとか、またまた二重権力のような何か怪しげなことが起こるとかが取りざたされるばかりで、すべてが不分明のままであった。ドイツの憲法が禁じているのは、まさにこのような事態の発生である。

気分で動く日本の政治というものに対して、また中曽根氏以下10人も総理が代わるという異常さに対して、国民の中に、これではいけないという思いが生れたことは確かだろう。しかしながら日本国では、憲法でこうした異常事態発生を防いでいるわけではない。したがって今回の選挙結果も、ただたんに、とにかくもう一度同じ人に総理をやってもらおうというところに落ち着いたというだけの話かもしれない。

とはいえ阪神大震災とオウム真理教という二つの大事件によって、日本の自由民主主義社会の根幹が脅かされたとき、私たちは自由を守るためにはどのように自由を制限しなければならないかという矛盾につき当たり、新たな選択を迫られたはずであった。しかるに、そのような法意識が日本では全く発達していなかったために、自民・社会・さきがけ連立政権の油断によって、自由の危機があからさまに露呈されるに至ったのである。だから今回の自民復調の背景には、昨年の二大事件の反省と、それから生じた国民の痛切な不安というものが要因として働いていることを、決して見逃してはならない。
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