電脳筆写『 心超臨界 』

ひらめきを与えるのは解答ではなく質問である
( ウジェーヌ・イヨネスコ )

不都合な真実 《 なおる見込みのない病気――福岡伸一 》

2024-05-31 | 05-真相・背景・経緯
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彼女たちが活躍していた頃、つまり1500年代の中ごろ、ヴェネツィア島の最も端のあたり、ザッテレの一角に病院が建てられた。当時の病院とは治療の場所ではなく隔離の場所だった。病院とは死にに行くところだった。そしてこの病院は、梅毒に罹(かか)った娼婦たちを収容するための施設だった。


◎なおる見込みのない病気とは他でもない、梅毒のことだったのだ――福岡伸一

『世界は分けてもわからない』
( 福岡伸一、講談社 (2009/7/17)、p52 )

◆ヴェネツィア爛熟の影

須賀敦子の名前を知ったのはいつの頃だろう。彼女が作家としての短い著作活動の期間を終えてこの世を突然去って以降のことであるのは間違いない。それまでうかつにもこれほど美しい文章の存在を私は知らないでいた。

須賀敦子がその名を広く知られるようになったのは彼女が60歳を越えたあと、1990年に出版した書物によってである。読書界は瞠目した。その後、夜空の星のように、粒よりの、しかし限られた数の書物がそれこそ星座を構成するように端整な配置で刊行された。1998年の早春、彼女は惜しまれて亡くなった。私はそれを後になってから追体験したのである。そしてたちまち彼女の文章の虜(とりこ)になった。私が好きなものは『地図のない道』と題された彼女の最後の本である。

この中に「ザッテレの河岸で」という一種風変わりな作品がある。ザッテレとは筏(いかだ)という意味で、ヴェネツィア島のはずれジュデッカ大運河に面した船着場一帯のことをさす。イタリアの文学と詩を愛した須賀は、何度もヴェネツィアを訪れていた。網目のように入り組んだこの街の水路や小径にはその入り口の壁に小さく名称が示されている。あるときザッテレの河岸を散策している折、彼女はふとインクラビリと名づけられた水路があることに気づく。インクラビリ。英語に直せば、incurable 不治の病という意味だ。なおる見込みのない人たちの水路。奇妙すぎる地名に彼女はおもわず笑った。「なんだか自分のことをいわれてるみたいだ」と。しばらく後、この地名のことが心の隅に残っていた彼女はある記録を発見して驚く。ここには、重い歴史の暗がりが宿っていたのだ。

当時のヴェネツィアはイタリア文化史上、ひとつの頂点を迎えていた。頂点とは爛熟という意味において。コルティジャーネと呼ばれる女性たちがいた。通常、高級娼婦、と訳される彼女たちの交際相手は、貴族や高位聖職者に限られていた。彼女たちは美貌と肉体だけでなく、文学や詩、哲学や神学にも優れていた。そのうえ楽器を演奏し、歌が歌えるなど「文化のあらゆる分野にわたる教養を身にそなえていることが肝要であった」。彼女たちは、愛人たちの富と権力を背景に、贅をつくした。そして文字通り爛(ただ)れた生活を送っていた。そして闇への扉はいつも開いていた。

彼女たちが活躍していた頃、つまり1500年代の中ごろ、ヴェネツィア島の最も端のあたり、ザッテレの一角に病院が建てられた。当時の病院とは治療の場所ではなく隔離の場所だった。病院とは死にに行くところだった。そしてこの病院は、梅毒に罹(かか)った娼婦たちを収容するための施設だった。

梅毒は無軌道な性交渉によって病原体スピロヘータが不意に乗り移ってくることによって伝播(でんぱ)する。感染するとリンパ節が腫れ、発熱、倦怠感、関節痛が起こる。薔薇疹(ばらしん)と呼ばれる赤い斑点が顔面から手足、全身に現れる。まもなく発疹はおさまるがここから慢性化が始まる。病原体は長い年月をかけてゆっくりと心臓や脳、脊髄、神経を侵してゆく。進行性の麻痺、痴呆、運動障害、錯乱などが現れ死に至る。

当然のことながらヴェネツィアには“高級”でない娼婦たちもたくさんいた。梅毒は少なくない数の彼女たちをえじきにして広がった。むろん当時は原因も予防もそして治療法についても何もわからなかった。なおる見込みのない病気とは他でもない、梅毒のことだったのだ。水路に付けられた名前、インクラビリはまさにその名残だったのである。

須賀敦子は、ヴェネツィアのサン・マルコ広場にあるコッレール美術館に赴く。有名なヴェネツィアの娼婦を描いた絵を見るためである。「コルティジャーネ」(口絵1)。
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