電脳筆写『 心超臨界 』

現存する良品はすべて創造力の産物である
( ジョン・スチュアート・ミル )

真理のひびき 《 模倣も極致に到達すると――中村天風 》

2024-07-16 | 03-自己・信念・努力
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[箴言二十]

模倣も極致に到達すると真実と同様になる
此の真理に則(のっと)って 善いという事は極力 模倣に専念すべきである
Imitation achieved to perfection attains as good as true.
Therefore, what is good should be imitated to the utmost.


『真理のひびき』
( 中村天風、講談社 (1996/7/18)、p180 )

明治維新の直後、王政復古となったとき、ある宵、山岡鉄舟(てつしゅう)が仲よしの高橋泥舟(でいしゅう)と銀座を散歩していた。今日と違って当時の銀座は、夜店といってさまざまな品物を売る露店が今の京橋から新橋までの両側に、今の名古屋の目抜き通りよりもにぎやかにずらりとばかりに宵の口から夜更けまでも店を張っていたものである。(この風習は大東亜戦争の終戦時から取り止めになったから、今日の青年は知らないと思う。)

そのとき泥舟が一軒の古道具屋に掛けてあった軸物を指して、

「おい山岡、貴様の筆だという掛軸が売りものに出ているぞ」

というので、「そうか」といって鉄舟がよく見ると全然自分の書いた覚えのない字なので、「おい、そのかけものは誰が書いたものかね」と古道具屋の主人に訊ねると、ニヤニヤしながら、「ここに添え書してあるとおり山岡大先生の書かれたものです」とさもさも得意気(げ)にいうので、「本ものかね?」というと「真筆(しんぴつ)に間違いありません」という。そこで鉄舟が「お前は山岡という人を知っているのか」というと、「ええ、よく存じ上げていますとも」と当の本人とも知らずに平然としていうので、実はオレが山岡だといおうと思ったが、あまりにもそのかけものの字が美事(みごと)なので、「ずいぶんうまく書けているね」というと、店の主人がこういった。

「これは山岡大先生の傑作なのです。実は故あって私の手に入りましたものですが、いかがです。お求めになっては」。試みに「いくらだね?」と訊ねると、「ほんとは十両と申し上げたいのですが、今夜の初めてのお客さんですから思い切って五両にしておきます」という。山岡は笑いながら、よし求めてつかわそうと即座にそれを買い取ったので、傍(かたわ)らにいた泥舟が、「よせよ、全然覚えのないにせものなんか買うなよ」というと、「にせものということは一目で分かる。が、とても美事な筆蹟だ。それに書いてある文章がとてもよい言葉だから、オレはこれを手本にしてみるつもりだ」といって常に床の間にかけて生涯大事にしていたというエピソードがある。また、これに似た話が頭山恩師にもある。

それは翁(おう)の居室に西郷隆盛の書という額が掲げてあったのを、あるとき野田大塊(たいかい)が見て、「こりゃにせものたい」というとニコニコしながら、「にせものでも文句が善かけん、おいどんはほんものだと思うて朝夕有りがたく心の鏡として見とるよ」とこともなげにいわれた。

それを傍らで耳にした私はなるほど模倣に対する結局は、その心の思い方、その人の考え方で、よくもわるくもなるんだと、つくづくその言葉から量(はか)り知れない尊いものを直感したものである。

そしてもう一つ、痛感したことは、国外での任務に従事するため出発のとき、お別れに参上した際恩師は「できるだけ善かことは極力真似することばい、そして人にめいわくかくるような悪かことは決して真似するでなかぞ」と懇(ねんご)ろにいわれた。

これはとりもなおさず、模倣なるものは、いいかえると真似事というものは、極致に到達すると真実と同様になるという、わかりやすくいえば絶対真理があるから、できるだけ善いことのみを真似するべしと、戒(いまし)められたのであり、

「善いことはなんでもいいから真似しろ
 悪いことはうそにもかりそめにも真似するな」

ということなのである。

実際、模倣が極度に到達すると真実と寸分の相違のないようになるものなのである。

これも私の思い出にある話の一つだが、往年の有名な歌舞伎役者の十五代目羽左衛門(うざえもん)と柳橋の一旗亭で会食したとき、当時隅田川の一名物となっていた。声色(こわいろ)のものまねや(現代の声帯模写)が猪牙舟(ちょきぶね)に乗って流して来た。年配の人はよく記憶しておられると信ずるが、唐桟(とうざん)ずくめの粋な江戸ッ子風をした二人ないし三人連れで、三味線や鉦(かね)ドラ拍子木入りで舟の中から窓下に来て座敷の客に、「ヘイご機嫌さまで一席立花屋いかが?」とか「播磨屋(はりまや)と行きましょう」というようないなせなかけ声をして、当時の名優の声色を使って抛(な)げ銭をもらうという芸人が、その当時隅田川の四季を通じていたものだ。そこで興味があったので羽左衛門を一つやれというと、「待っていましたっ」と景気よく受け答えして、例の玄冶店(げんやだな)ゆすりの場を羽左衛門が中にいるのを知るや知らずやいと巧みにやってのけた。

と、それをじっと聴いていた羽左衛門が、「こりゃ私の一番調子のいいときの声とそっくりだ、実にうまいものですね」とつくづく本人が感心したが、私たちは本人がいってるのとそっくり同じに聞かれたので、まったくそのうまさに驚いたものだ。であるから、こうした真理に鑑(かんが)みられて、諸君も大いに、私の長所はもちろん、修練会で履修したすべてを極力熱心に模倣されたい。そして人の世のためになることを実行されると、それがとりもなおさず諸君を真人に作為して、大なり小なり済民救世に貢献することとなり、どれだけか大きい有意義な功徳(くどく)を積むことになるのである。

いずれにしても自己を完全に啓発し、自己を真実に向上させ人の世のため真に役立つという真人になろうためには、ひたすらこうした心がけで何でも善いことを模倣することに専念すべきである。

そして悪いということは、特に人の迷惑になるようなことはうそでも真似をしないことだ。

すなわちこのことがらを重大視して拳々(けんけん)失うなかれとわれとわが心に厳しく粛しんでこそ、天風会員としての当然の心がけだと断言する。

古(いにし)えの聖賢(せいけん)の格言にも、

「良師(りょうし)は以(もっ)て須(すべか)らく宝と為(な)す可(べ)し
  良友(りょうゆう)は以て須らく鑑(かが)みと為す可し」

とある。

この言葉は要するに、良き模倣の極致にもたらされる真価値、換言すれば自己暗示の感化を善良の方面へ積極的に応用する実際的な心がけを訓教(くんきょう)されている言葉なのである。

それゆえに、宇宙真理に順応して真人たらんとするわれらは、特に修練会を行修した人々は、常に営々として至誠実践(しせいじっせん)の模倣に志し、気取らず、ぶらず、天真流露の純真を発揮して、一念不動践行に努められることをあえて熱烈にお奨めする。
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