電脳筆写『 心超臨界 』

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( H・ジャクソン・ブラウン・Jr. )

南京大虐殺という嘘 《 南京大虐殺はなかった――渡部昇一 》

2024-08-15 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『世界政治の崩壊過程に蘇れ日本政治の根幹とは』
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実質上の首都を戦場にしたから、とばっちりで死ぬ市民はいただろう。しかし、意図的な市民虐殺の計画などあろうはずがなかった。南京を占領したときに虐殺事件があったとすれば、それはゲリラ退治であり、一般市民に対する虐殺は限りなくゼロに近い。これは長年、私が30年来主張してきたことだが、最近の研究で裏づけられてきていると思う。


◆南京大虐殺はなかった

『アメリカが畏怖した日本』
( 渡部昇一、PHP研究所 (2011/6/16)、p88 )

ここで南京大虐殺に関しても触れておきたい。

日本軍が南京を占領したのは私が7歳の年である。毎日のように南京での戦闘を撮った写真や記事を新聞で目にした。また、南京が陥落した後は、新聞記者でなくとも足を踏み入れることができたから、『キング』という雑誌の本誌や付録の記事も読んだ。そんなところで、嘘を書けるわけがないと感じていた。

もう一つ、実感として大きいのは、当時、南京で虐殺があったという噂を聞かなかったことだ。私の家の隣にいた方は、シナ事変で出征し、2年ぐらいで帰ってきた。3軒隣の方は軍曹ぐらいになって帰ってきた。このように日本人がおおぜい戦地から帰ってきているのに、どこにも虐殺の噂が出ていないのだ。

「都合の悪い情報は」必ずといっていいほど隠せないものだ。小学校6年生のとき、2級上ぐらいで高等小学校にいた上級生から、「お前たち、赤城も加賀も沈んだんだぞ」と教えられたことがあった。ミッドウェー海戦の結果は海軍が極秘としたはずなのに、偉い人がいなくて特別の情報が入らない山形県鶴岡市の田舎町で、高等小学生が知っていた。どのような経路で知ったのかはわからないが、「口に戸は立てられない」というはその通りだと痛感している。

もっとも、その話を聞いたときは不愉快な思いだけが残った。赤城も加賀も、親しんできた名前の航空母艦だったからだ。しかし、戦後、「待てよ」と思いあたった。

「兵隊さんがいくらでも帰ってきた時代に、南京虐殺の噂は聞かなかった。ところが、海軍が隠しに隠した、海の彼方に沈んだ空母の話は伝わってきた。ひょっとすると、南京虐殺のほうがおかしいのではないか」

そこで、雄松堂から出た東京裁判の資料を全部買い、南京に関するところを丁寧に読んだ。ひっかかったのは、マギーという牧師の証言である。

マギーは日本軍の残虐行為をいろいろと挙げたが、伝聞ばかりだった。アメリカ人の弁護人が、実際に目撃した事実を尋ねたら、殺人はなんと一件しかない。安全地区に駆け込もうとしたシナ人の青年がいて、日本軍の歩哨(ほしょう)が「止まれ」と制したのに止まらなかった。それで後から撃たれた。これだけである。

それから、強姦に関しても一件だ。空き家に日本の兵隊と中国人の若い女性がいて、日本の兵隊はマギーを見るとあわてて逃げ出した。銃剣を忘れていったので、マギーは銃剣を持って追いかけたという。

これでは行為をやった前か後かがわからない。やった後としても、金を払っているかどうかわからない。さらに、外人の顔を見ただけで、大事な銃剣を忘れて逃げ出すのだから、よほど厳しく軍律で禁じられたことの証拠である。

泥棒は、空き家から日本軍がアイスボックスを運び出しているのを見たなどの1件である。

マギーは安全地区で赤十字のリーダークラスに属し、市内のどこでも歩きまわれた。その人が目撃した事例がこれだけなのだ。エール大学を出たエリート牧師が神に誓って行った証言だから、そこに嘘はないだろう。

また、当時、南京にいた人たちが書いた犠牲者数はせいぜい3万ぐらいである。それも民衆だけなのか、兵隊を入れた数なのかは区別されていない。戦争だから戦場で殺すのは手柄であり、当たり前のことである。それから、敗残兵を殺すのもそうだ。南京での戦闘で死んだ兵を含めて3万ぐらいなら、それは考えられる数字だと思う。

もちろん、捕虜を殺した場合は不当な行為だが、捕虜と投降兵は違う。捕虜になる資格について南京事件では問題にされることがほとんどないけれど、捕虜というのはきちんと手続きを取ってはじめて、その資格が得られる。まず、平民でないことがわかるように、必ず軍服を着ていなければいけないし、武器は外に持たなければいけない。ピストルを懐に隠していたら、捕虜となる資格はない。それから、複数の兵がいる場合は、リーダーがいなければならない。そういう条件を満たして降参すれば、捕虜になる資格を請求することができる。それ以外は投降兵とされる。

南京を守備する唐生智将軍が逃げ出さず、麾下(きか)の兵を率いて「降参しました」といえば、そっくり捕虜として受け取られたのだが、唐生智は逃げてしまった。それでも、上官クラスがそれぞれ、部下に軍服を着せたままで、武器を外にもたせて降参すれば、捕虜となることができた。ところが、敗残兵の中には一般市民から着物を奪い、それを自分が着て安全地区にもぐり込んだケースが少なくなく、また安全地区には武器が隠されていたりした。これはゲリラ戦をするということである。当然、正規軍は掃討しなければならなかった。いうまでもなく、それは正当な行為である。

しかし、アメリカのほうでは「虐殺があった」と書いた新聞が出ている。そのコピーを私に送ってくれた人がいた。読んでみると、「シカゴ・トリビューン」だったが、虐殺があったといっても2、3千人が殺されたという程度である。ゲリラの死者数を含んでいるとすれば、妥当な数字かもしれない。

近年、国民政府の資料が出て明かになったのは、日本軍の残虐行為をあれこれと書いた「マンチェスター・ガーディアン」のオーストラリア人記者が蒋介石政府の宣伝部から金をもらっていたことだ。他には、南京の大学で教えていたアメリカ人たちが蒋介石から金をもらっていたこともわかった。

実質上の首都を戦場にしたから、とばっちりで死ぬ市民はいただろう。しかし、意図的な市民虐殺の計画などあろうはずがなかった。南京を占領したときに虐殺事件があったとすれば、それはゲリラ退治であり、一般市民に対する虐殺は限りなくゼロに近い。これは長年、私が30年来主張してきたことだが、最近の研究で裏づけられてきていると思う。

南京陥落後、日本陸軍は講和することを強く近衛首相に求める。そもそも陸軍は華南の戦に反対だった。石原莞爾はそのため参謀本部の作戦部長を辞めさせられている。南京陥落後、参謀次長の多田駿中将(参謀総長は皇族)は涙を流して近衛に講和を求めた。しかし、近衛は「蒋介石政権を相手にせず」という声明を出して、大陸の戦は泥沼状態になった。この時の近衛の判断を決めさせたのは、彼のブレーンと言われる人たちで、彼らはコミンテルンの指示に従い、日本軍を大陸で消耗させる努力をしたのである。ブレーンの一人尾崎秀実はスパイとして後に死刑になった(ゾルゲ事件)。戦後は平和への努力者として見られている米内光政海軍大臣も、このときは戦争継続を主張したので、彼とコミンテルンとの関係を疑う論者もある。
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