電脳筆写『 心超臨界 』

一般に信じられていることと全く逆のことに
真実があることがしばしばある
( ブリュイエール )

日本史 鎌倉編 《 義満が示した南北朝合一の条件――渡部昇一 》

2024-08-15 | 04-歴史・文化・社会
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これに北朝の宮廷は反対した。なにも、いまさら合体しなくても、もはや京都は安泰(あんたい)である。現状維持で結構というのであった。両朝合体に熱心なのは将軍義満だけという奇妙な具合である。しかし義満が両朝に対して生殺与奪(せいさつよだつ)の実権を握ったので、両朝ともしぶしぶ言うことを聞いたのである。さて南朝側が儀衛(ぎえい)を備(そな)えて京都に帰ってくると、この様子を見た義満は、「これは降参するときのやり方ではない」と言って怒った。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p160 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(1) 政治的手段としての「カミ」と「ホトケ」

◆義満(よしみつ)が示した南北朝合一の条件

足利尊氏が幕府を創立したのは延元(えんげん)元年(北朝暦では建武(けんむ)3、西暦1336)であるが、彼が死んだ正平(しょうへい)13年(北朝暦・延文(えんぶん)3、西暦1358)になっても、世の中は治(おさ)まるどころではなかった。3年後には、京都が南朝軍によって四度目(たびめ)の占領を受けるからである。尊氏の死後、9年にして二代将軍の義詮(よしあきら)が死んだ。彼も生涯の大部分を戦乱のうちに過ごしたことになる。

その跡を継いだのが三代将軍義満であるが、彼はそのとき、まだ10歳の少年であった。

しかし、この年少の将軍の下(もと)で天下は急速に安定への方向に動きだした。執事(しつじ)となった細川頼之(よりゆき)が立派だったからである。当時の混乱期にあって、頼之がいかに深く武士たちに信頼されたかは、まことに驚くべきものであった。権力者たちも自制しはじめ、公卿(くぎょう)も心服し、一般の武士たちも落ち着いてきたのである。そして南朝の柱石とも言うべき楠木正儀(まさのり)すらも頼之を信じて足利方、つまり北朝に替わったくらいであった。

一時、義満と頼之の関係が面白くなくなったことがあったが、結局、頼之は義満を助けて、幕府と対立するような豪族を一つ一つ平定していった。最後に残ったのは南朝である。

しかし、南朝の旗色は、ますます悪くなっていた。征西(せいせい)将軍として九州に下(くだ)り、肥後(ひご)の菊池(きくち)一族とともに一時勢力のあった懐良(かねなが)親王も、弘和(こうわ)3年(1383)に没し、翌年には征東(せいとう)将軍の宗良(むねなが)親王が没し、いまや南朝を守る者は楠木一族の正勝(まさかつ)(正儀の長子とされる)のみと言ってよかった。

義満は正勝に使いを送って言った。

「南朝にはもはや見込みがない。今攻撃をさしひかえているのは、正成(まさしげ)以来の楠木一族への敬意からである。早々に降伏してはどうか」と。

しかし正勝は、この義満の申し出を断わったので攻撃がはじまった。そして、ついに千早(ちはや)城も陥落し、正勝らは十津川(とつがわ)の奥に逃げた。

正勝の祖父の正成が千早城を築いたのは正慶(しょうきょう)元年(1332)のことであった。それ以後、元中(げんちゅう)9年(1392)までの60年間、どんなに南朝方の形勢が悪いときでも、千早城が敵方の手に渡ったことはなかった。この城こそは、鎌倉幕府の大軍を長時間にわたって支えることによって建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)の出発点となったところである。

それが落ちたことは、南朝の武力上のシンボルがなくなったことであった。ここにおいて、さすがの南朝側も幕府の提案に耳を傾けざるをえなかった。

幕府としては、南朝は何といっても始末の悪い存在である。幕府に不満な者はすぐに南朝に従(つ)くので、いつなんどき形勢が逆転するかわからぬという可能性を、つねに考えていなければならなかった。それで義満も終始、南北合一(ごういつ)に熱心であったのである。

南北朝合一の条件としては、南朝の持っている三種の神器(じんぎ)を北朝に与えること、また、皇位には北条氏の時代のように両朝から交互に即(つ)くこと、また領地もほぼ北条時代のようにすること、などであった。

南朝としては、いまや条件を呑むより仕方がなかった。千早城まで陥落した以上、後醍醐(ごだいご)天皇のときの「振出し」にもどることは、それほどの損でもないと思えたのであろう。

これに北朝の宮廷は反対した。なにも、いまさら合体しなくても、もはや京都は安泰(あんたい)である。現状維持で結構というのであった。両朝合体に熱心なのは将軍義満だけという奇妙な具合である。しかし義満が両朝に対して生殺与奪(せいさつよだつ)の実権を握ったので、両朝ともしぶしぶ言うことを聞いたのである。

さて南朝側が儀衛(ぎえい)を備(そな)えて京都に帰ってくると、この様子を見た義満は、「これは降参するときのやり方ではない」と言って怒った。南朝側は「自分たちは降参するのではない」と言ったが、もはや手遅れである。
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