電脳筆写『 心超臨界 』

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( アントン・チェーホフ )

不都合な真実 《 械闘という宗族間の殺し合い――石平 》

2024-05-15 | 04-歴史・文化・社会
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械闘は「宗族械闘」とも呼ばれる。その典型的なパターンは、次のようなものである。どこかの宗族と隣接する宗族との間で土地や墓地をめぐる紛争が起きる。あるいは何かの偶発的な事件がきっかけで紛争が起きる。その際に、宗族が一族の人々を動員して集団的戦闘態勢を整えた上で、その隣接する宗族の村々を襲ったり、隣接する宗族と殺し合いの合戦を展開したりするのである。


◆械闘という宗族間の殺し合い

『中国人の善と悪はなぜ逆さまか』
( 石平、産経新聞出版 (2018/12/5)、p98 )

前章では、中国伝統の宗族制度の特質と、そこから生み出された中国流の一族イズムの原型たるものを見たが、宗族のこのような特異性をもっとも端的に表している現象の一つに、宗族の伝統の一部となっている「械闘(かいとう)」の横行がある。

械闘とは何か。簡単に言えばそれは、民間の社会集団が別の社会集団との間で利害の衝突やその他の対立が生じた場合、それを法的手段によって解決するのではなく、武器(械)を用いた武力闘争(闘)によって決着をつけることである。

実際、械闘の大半は宗族間で行われているから、械闘は「宗族械闘」とも呼ばれる。その典型的なパターンは、次のようなものである。どこかの宗族と隣接する宗族との間で土地や墓地をめぐる紛争が起きる。あるいは何かの偶発的な事件がきっかけで紛争が起きる。その際に、宗族が一族の人々を動員して集団的戦闘態勢を整えた上で、その隣接する宗族の村々を襲ったり、隣接する宗族と殺し合いの合戦を展開したりするのである。

その際、本来は農民である宗族の戦闘集団が武器として主に使うのは正規の兵器でなく、日常の農作業に使われる鍬(くわ)や鋤(すき)や鎌や天秤(てんびん)棒などの農業器械である。だから、彼らの行う戦闘行為は「械闘」と呼ばれるのである。

もちろん農業器械を使った械闘であっても、鍬や鋤や鎌や天秤棒などは使い方によって立派な殺人道具になるし、械闘が多発するような地域では、一部の宗族は本気になって武装化するから、刀剣や鉄砲などの本物の兵器を械闘に用いることもある。その結果、宗族械闘はほとんど例外なく本物の殺し合いとなって多くの死傷者を出すのである。

時には、戦闘員間の殺し合いだけでなく、戦闘に勝った宗族が相手の宗族の非戦闘員に対する虐殺を行うこともあるから、宗族械闘は残酷なものである。

宗族械闘は具体的にどうのように起きて、どのように展開されるのか。ここでは、清朝雍正帝の治世下の1725年に起きた一件の宗族械闘の実例を見てみることとする。今の福建省漳州市華安県の碧渓村に住む楊氏一族と、隣接する玉蘭村に住む黄氏一族との間で行われた械闘である。

楊氏一族が碧渓村を開いてそこに住み始めたのは、北宋王朝統治下の1102年頃である。それ以来、宋朝、元朝、明朝の3つの時代を通して、楊氏一族は科挙試験の合格者を輩出したり、経済的実力を蓄えたりして勢力を伸ばした。しかし明末清初の戦乱では、楊氏一族の住む碧渓村は数回にわたって匪賊(ひぞく)や兵隊に襲われて大きな損害を被った。そして清朝になると、どういうわけか楊氏一族は科挙試験の合格者や官僚を一人も出すことができなかったので、宗族の勢力は衰退する一方となった。

楊氏一族の衰退を尻目に台頭してきたのは、隣の玉蘭村に住む黄氏一族である。黄氏一族がこの地方に住み始めたのは明朝の時代の1380年頃、楊氏一族の碧渓村開拓よりは280年も遅れた。しかし清朝順治9年の1652年に、黄氏一族の人が科挙試験における上位の合格者である進士となって高級官僚となったから、それをきっかけに黄氏一族が勢力を伸ばして台頭し始めた。しかも、その時から黄氏一族の人口も大幅に増えてきて、新興勢力として繁栄への道を歩んだ。

一方、碧渓村・楊氏一族は政治的には勢力を失ったとはいえ、600~700年間にわたってこの地方に住む豪族として依然として声望があって、新興勢力の黄氏一族よりも山林や田んぼなどの経済資源を多く持っていた。実際、黄氏一族が住む玉蘭村周辺の山林はほとんど楊氏一族の持ち物であるから、黄氏一族は長年、炊事用の薪を採るのにも遠い山へ行かなければならず、墓地を作る場所の確保にも困っていた。そして地元における楊氏一族の古来よりの声望と信用は、新興勢力の黄氏一族にとって目障(めざわ)り以外の何ものでもなかった。

こうなると、政治的に勢力を得た黄氏一族の「楊氏潰し」は自然の成り行きとなり、新旧両勢力の対立と衝突は不可避となった。もちろん、紛争を起こしたのは新興勢力の黄氏一族の方であるが、彼らはまず、楊氏一族の山林を力ずくで奪うことから始めた。
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