電脳筆写『 心超臨界 』

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ジョッシュ・ビリングス

歴史を裁く愚かさ 《 江戸時代における「自己集中の智恵」――西尾幹二 》

2024-08-25 | 04-歴史・文化・社会
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ユーラシア大陸の東端と西端がほぼ同時期に永い暗闇からめざめ、より巨大なものの支配から解放されたのである。近代的発展はヨーロッパの場合にも、日本の場合にも、自己自身への集中と蓄積、そして、自分を抑えていたものが取り払われた自己解放の自由という性格を持つ。ただし、結果は同じでも、方向は逆だった。ヨーロッパは外へ向かって爆発し侵略したが、日本は自己へ向かって集中し防衛した。日本における同じ時代の現象を人は呼んで「鎖国」というが、私は「鎖国」の実在そのものを疑っている。私はこれを「自己集中の知恵」と呼ぶ。


『歴史を裁く愚かさ』
( 西尾幹二、PHP研究所 (2000/01)、p96 )
第2章 なぜ私は行動に立ち上がったか
2 新しい歴史教科書の創造

◆江戸時代における「自己集中の智恵」

ヨーロッパ各国は古代から一貫して独立した純粋文明を保ってきたわけではない。前にも述べたように、なにかに依存し、なにかから借りたり学んだりしながら成長発展し、15~18世紀に自己確立したのである。

それと同じように日本もまた、古代シナに依存し、借りたり学んだりしながら成長発展し、ある一定の時期に、固有の文明を確立した。それは必ずしも明治維新の時期ではない。それよりもはるか前に遡る長い道程の、ヨーロッパに必ずしも勝るとも劣らない歴史の必然性を経過した足跡を留めているに相違ない。そう考えなければ、明治維新以後の余りに急激な発展はどうあっても説明できない。

もとより古代の日本でも、聖徳太子の時代にシナに対し対等の意識をもったとよくいわれる。国民としての政治的自覚が早くもこの時代に芽生えたことは紛れもないだろう。

けれども政治的自覚はたしかにあったと思うが、文化的自覚はさらに時を要する。また日本独自の文化がさまざまな姿で多様に見出されるようになっても、成熟洗煉(せんれん)にはさらに多大の時間を必要とする。シナの影響が完全に切れるということはなく、一説には日本民族としての精神的自立の自覚は蒙古襲来に負うところがきわめて大きく、南北朝から以後少しずつ自己の文明への目覚めがあったと説く人もいる。

今までの歴史教科書はこのような難しい、しかし興味深い問題をせめて生徒たちの前に提起だけでもしてみるという試みをまったく行なっていない。簡単に解決のつかない問題をともあれ考えさせるという試みをするのが歴史の教科書では大切なのである。

一般にシナからの政治的独立は早く、文化的独立には時間を要し、経済的独立はある一定の時期に可能になった。そう考えていくと、ヨーロッパがイスラムの桎梏(しっこく)から解放され、自己自身を確立した時代とそう遠くないほぼ同時期に、わが国にもシナからの解放と自存自立という現象が成り立っていたと想定するのもあながち無理ではないかもしれない。

ユーラシア大陸の東端と西端がほぼ同時期に永い暗闇からめざめ、より巨大なものの支配から解放されたのである。近代的発展はヨーロッパの場合にも、日本の場合にも、自己自身への集中と蓄積、そして、自分を抑えていたものが取り払われた自己解放の自由という性格を持つ。

ただし、結果は同じでも、方向は逆だった。ヨーロッパは外へ向かって爆発し侵略したが、日本は自己へ向かって集中し防衛した。日本における同じ時代の現象を人は呼んで「鎖国」というが、私は「鎖国」の実在そのものを疑っている。私はこれを「自己集中の知恵」と呼ぶ。

この世紀における日本列島の周辺の状況を考えると、「守り」が最大の「攻撃」であった。しかも管理された必要な情報は長崎の出島を通じて驚くほどの速度と密度をもって集積されていった。渡航は禁じられても、海外の関心に関する言論封殺はなかった。西洋事情に関する書物の出版点数は、江戸時代に入って以後、かえって増えている。『紅毛雑話』には鰐(わに)の絵までがのせられている。吉宗の時代には1頭のほんものの象が長崎から江戸に旅し、途中「従四位広南白象」の高い地位を与えられて天皇に拝謁、さらに東海道から江戸へかけての道すがら、民衆の海外への好奇心と夢をいやましにかき立てた。

将軍吉宗は27頭のペルシア馬を輸入、オランダから馬術師も呼んで、平時とはいえ、日本の軍馬の改良に励んだ。日本の馬は当時小型で、見すぼらしかった。彼はまた海外の学問情報にも敏感で、必要な分野ごとに学者を配置し、プロジェクトチームを作って問題を分析、解決する、いわば現代に先駆ける情報開発を行った。

顕微鏡も天体望遠鏡もほぼ発明と同時期に輸入されているし、『解体新書』(1732年)はドイツ語の原書が出されてから、オランダ語に訳され、日本人が入手するまでに40年の時差しかない。19世紀に入ると、この時差は一段と縮まっている(私の専門である哲学者ニーチェはドイツ本国でセンセーションを引き起こす直前の段階――1893〈明治26〉年――に第一情報が日本に届いている。明治になるとかように反近代の思想情報にまで、本国人より早く反応する環境の整備は、江戸時代に準備されていたと考えるのが順当である)。

周知の通り日本は金、銀、ことに銅の当時における世界一の産出国であった。最初は絹織物、木綿、砂糖、香辛料などアジアの物産を買い求めた点で、16、7世紀のヨーロッパと競合している。日本は元禄文化そのものを買い取ったといっていい。娘さんのさした簪(かんざし)には地中海の珊瑚が使われ、木香(インド)、乳香(アラビア)、安息香(スマトラ)などの薬用香料が愛好された。幕府は年貢収入の2割に相当する絹織物を買いつけた。

かくて享保年間に経済逼迫し、吉宗は輸入を抑制し、海外からむしろ生産技術の知識を得て、国産化を急いだ。薬用朝鮮人参の国産化にまで手を出したのも銀の流出を恐れたからで、日光で人工栽培に成功している。

日本が持てる財宝で熱心に買ったのは、結局、海外からの情報であった。シナや朝鮮と異なる点である。そしてそれが江戸から今日に及ぶ日本人の伝統であり、近代化の基盤形成を決定づけた。単なる物真似をしたのではない。「守り」こそが「攻め」の国際環境下にあることを知り尽くした生存闘争の形式だった。

その代わり海外の遠い、直接無関係な情報にも徹底して通じておく必要があった。『和蘭風説書』としてまとめられた有名な本があるが、フランス革命からリスボンの大地震までが詳しく報じられている。

福知山の大名朽木昌綱(くつきまさつな)は、オランダ出島の商館長から入手した世界地図などを頼りに、『泰西輿地圖説』という世界地理の本を書いた。じつに詳しい内容である。その中に当時のパリの正確な市街図がある。見たこともない。外国(とつくに)の、想像もつかない街並を心に思い描きながらの作業であったであろう。

大正や昭和初期の知識人が、見たこともないセザンヌやモネに憧れ、ルーブルのどの部屋にドラクロアの何があるかまで知りつくし、西洋人以上に西洋の名画の美食家になった人が少なくなかった事実とどこか照応する。江戸期に近代日本人の原型がすでにあると言ってよいであろう。

1840年のアヘン戦争に日本は『阿片風説書』を出し、直ちに警戒心理を強めた。朝鮮では9カ月も経って、使節が李王に報告書を奏上したが、簡単で、貧弱な内容だったので、国際情勢の急変に気がつかなかったとは、よく比較される例話である。
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