電脳筆写『 心超臨界 』

見事になされた仕事への報酬は
すでにそれを達成したことにある
( エマーソン )

「力(剛)の」の広瀬に対し「徳(柔)の人」――伊庭貞剛

2024-09-01 | 08-経済・企業・リーダーシップ
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


幕末維新期に危機に瀕した住友の事業を強力なリーダーシップで軌道に乗せたのは広瀬宰平である。四国の別子銅山を中心に事業再生を果たした。しかし晩年には反発も強まり、住友の組織内部では不協和音が高まったといわれる。その内部対立を収めるために選ばれたのが伊庭貞剛だった。「力(剛)の」の広瀬に対し「徳(柔)の人」と評された伊庭は、コンセンサスを重視して長期的視野に立った経営を貫き、社会的責任を全うするという、いわば「日本型経営」の理念を明確化し実践した。


◆「力(剛)の」の広瀬に対し「徳(柔)の人」――伊庭貞剛

「ニッポンの企業家――伊庭貞剛」[1]日本的経営の理念
「やさしい経済学」東京大学教授 武田晴人
( 2005.10.03 日経新聞(朝刊))

明治期、強力なリーダーの下で財閥が台頭するなか、それとは対照的に地味な存在でありながら日本経営史に大きな足跡を残した人物がいた。コンセンサスを重視して長期的視野に立った経営を貫き、社会的責任を全うするという、いわば「日本型経営」の理念を明確化し実践した住友の伊庭貞剛(いばていごう、1847―1926)である。企業統治論が盛んになるなか、彼の軌跡には再び光があてられるべき点が多い。

維新期の住友でリーダーとしてまず名前が出るのは、広瀬宰平(さいへい)である。広瀬は幕末維新期に危機に瀕した住友の事業を強力なリーダーシップで軌道に乗せ、四国の別子銅山を中心に事業再生を果たした。しかし功績が大きかっただけに、晩年には反発も強まり、住友の組織内部では不協和音が高まったといわれる。その内部対立を収めるために選ばれたのが伊庭であった。

近江で生まれた伊庭は、維新の10年間を司法官僚として過ごした後、79年に母の弟に当たる広瀬の勧めで住友に入った。「おのれの欲するところは即時断行せねば止まぬ」といわれた「力(剛)の」の広瀬に対し「徳(柔)の人」と評された伊庭は、広瀬の補佐役に適任だった。彼のそうした懐の深い資質がよく表れているのが、住友家の後継者選びだった。

当時、住友に限らず多くの商家は代々当主が世襲で家業を主宰していた。ところが別子開鉱2百年目の90年、病気療養中だった前家長住友友親と家長友忠が相次ぎ死去した。伊庭が広瀬に進言した結果、住友は将来のために、友忠の妹に名門華族の徳大寺家から婿を迎えた。他方で井上馨(かおる)らが推す政治家の子息や同格の商家からの婿取りを断ったという。住友の家格を上げ、本拠地大阪の地位を高める一方、政治や他の商家との関係は避けて経営の自律性を守るのが狙いだったといわれる。

そのとき伊庭は「住友の財産といった所で何程のものでもなく、たかが銅を吹いて(精銅して)儲けた位のもの故、潰(つぶ)してもらっても結構です」と先方を口説いたという。こうして経営者にあたる番頭たちが、会社の顔(出資者)である住友家の当主を選んだ。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不都合な真実 《 恋愛対象は... | トップ | 子どもを百㌫信頼しています... »
最新の画像もっと見る

08-経済・企業・リーダーシップ」カテゴリの最新記事