電脳筆写『 心超臨界 』

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( シェークスピア )

読む年表 古代~中世 《 後醍醐天皇即位——渡部昇一 》

2024-07-19 | 04-歴史・文化・社会
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後醍醐天皇は31歳で即位した。当時、こういう気鋭・壮年の天皇は稀であった。天皇は、皇太子となっていた邦良(くになが)親王(大覚寺統。後二条(ごにじょう)天皇の子)が亡くなると、自分の子である護良(もりなが)親王を皇太子にしたいと考えたが、執権・北条高時(たかとき)は、九十三代後伏見(ごふしみ)天皇(持明院統)の子、量仁(かずひと)親王(後の北朝初代光厳(こうごん)天皇))を皇太子に立てた。


◆後醍醐天皇即位

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p80 )

1318(文保2年)
後醍醐天皇即位
「稽古(けいこ)の君(きみ)」が打ち出した宋学の「大義名分」と「正統論」

第八十八代後嵯峨天皇が私情によって、第一皇子であった後深草天皇を退位させ、第二皇子の恒仁(つねひと)親王(亀山天皇)を皇位につけたことから天皇家の相続問題が起こった。そのため幕府主導のもとに後深草系(持明院統(じみょういんとう))と亀山系(大覚寺統(だいかくじとう))を交互に皇位につけることとした。

したがって、持明院統の花園天皇のときの皇太子は大覚寺統の尊治(たかはる)親王(後の第九十六代後醍醐天皇=1288~1339)であったが、尊治親王は気性が激しく、学問に熱心で「稽古(けいこ)の君(きみ)」と言われていた。花園天皇も一目置かざるを得ない又従兄(またいとこ)であった。

この尊治親王(後醍醐天皇)が勤(いそ)しんでいた学問というのが重要で、それは宋学(そうがく)であった。

宋学(朱子学)とは鎌倉時代に主に禅僧が宋から日本に持ち込んだもので、宋という国は蒙古族の元に押されて南に逃れた王朝だから、異民族蒙古の支配に対して自分たちこそ正統であるという意識と大義名分に敏感であった。だから宋学はとりもなおさず正統を明らかにすることに力を注いだ「正統論」の朱子学なのである。

宋学の立場から見れば、日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に対して幕府が干渉するのは許すことのできない不遜な行いであるということになる。

後醍醐天皇は31歳で即位した。当時、こういう気鋭・壮年の天皇は稀であった。

天皇は、皇太子となっていた邦良(くになが)親王(大覚寺統。後二条(ごにじょう)天皇の子)が亡くなると、自分の子である護良(もりなが)親王を皇太子にしたいと考えたが、執権・北条高時(たかとき)は、九十三代後伏見(ごふしみ)天皇(持明院統)の子、量仁(かずひと)親王(後の北朝初代光厳(こうごん)天皇))を皇太子に立てた。

これは持明院統と大覚寺統がかわるがわる皇位につくという原則にしたがった処置だから、べつに幕府が悪いわけではないが、これにも後醍醐天皇は非常に腹を立て、以後、絶対に鎌倉の言うことは聞くまいと決心するのである。これはとりもなおさず、皇位は持明院統系にわたさないということにもなる。十年交替で皇位を両統の回り持ちにするという方式は執権貞時(さだとき)の決めたことであり、宋学の大義名分論からはそれはおかしいと考えたのだ。

この正統に対する信念が、明治維新のときと同じであることは注目してよい。明治維新の志士たちも、その行動の原理は朱子学の正統思想、大義名分論によっていた。そして維新、つまり革新という名の復古運動をなしとげたのである。維新に際しては実践倫理を説く陽明学の影響がよく言われるが、陽明学的に行動に移る前に、志士たちは朱子学の名分論によって、幕府の体制を非としていたのである。

後醍醐天皇は、正統を守り、立てていくためには、当然のことながら、それに介入する幕府を討たねばならないと考え、討幕復古の計画をたてるのである。
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