電脳筆写『 心超臨界 』

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( チャールズ・モーガン )

日本史 鎌倉編 《 「錦の御旗」の発見者・足利尊氏――渡部昇一 》

2024-05-24 | 04-歴史・文化・社会
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尊氏は使いを後伏見(ごふしみ)法皇に送って、自分が官軍であるということを示すために院宣(いんぜん)を下さるように願い出た。後醍醐天皇は大覚寺統であり、後伏見法皇はもちろん持明院統である。この持明院統のほうでは、建武の中興以来、政治的にはまったく片隅に置かれていて欲求不満を感じていたところだったので、大いに喜ばれて、さっそく尊氏に院宣を与えられたのである。これで尊氏側も、錦(にしき)の御旗(みはた)を立てられることになったわけであり、京都側にとってはひどく具合の悪いものになった。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p120 )
2章 南北朝――正統とは何か
=日本的「中華思想」によって起きた国家統合の戦争
(3) 日本史のキーワード
「錦(にしき)の御旗(みはた)」と「七生報国(しちしょうほうこく)」

◆「錦(にしき)の御旗(みはた)」の発見者・足利尊氏(あしかがたかうじ)

この前の戦争のことを多少知っている外人は、当然のことながら、日本の天皇に対して深い関心を持っている。特攻隊をはじめとして、彼らには信じられぬほど忠誠な兵士を生み出すと同時に、命令一つで、ゲリラ一つなく全軍を降伏させることのできる日本の天皇というのは、ひじょうに興味ある対象なのである。

しかし、日本の若い世代の天皇に対する尊敬心が、古い時代に比べるとうんと小さくなっていることに注目して、近い将来において天皇制はなくなるかもしれない、という希望的観測を立てる外人記者も少なくなかった。数年前までの、外国の雑誌に出た日本に関する記事を読むと、たいてい例外なくそのようになっている。

しかし彼らの観測も、三島由紀夫(みしまゆきお)の出現以来少しおかしくなったし、最近(昭和51年3月)、児玉誉士夫(こだまよしお)に軽飛行機で突入した前野某(まえのぼう)の出現によって、さらにその観測は怪(あや)しくなってきた。ポルノ俳優という意外な職業の人間が「天皇陛下(へいか)万歳」を唱(とな)え、「七生報国(しちしょうほうこく)」の鉢巻を締(し)めて捨て身の攻撃をするとなると、今後も同じような連中が、いつ、どこから飛び出してくるかわからない。

こういうメンタリティがどこから出てくるのか、また、それが国民にとって幸福なメンタリティかどうかまったく別として、それが根強く存在することは事実なのである。戦後の啓蒙教育もそれをどうすることもできなかった。

新聞に大きく採(と)りあげられた事件でも、「天皇陛下万歳」と「七生報国」が一緒に出てきたことが戦後三度ある。

60年安保騒動のあとに社会党の浅沼(あさぬま)(稲次郎(いねじろう))委員長を刺殺した山口二矢(やまぐちおとや)少年と、三島由紀夫と、今回の前野某である。

「七生報国」というのは、七たび生まれ変わってくるというわけだが、戦後30年の間に三回よみがえってきている。その不思議な生まれ変わりの思想が、南北朝の時代に生じたことは見逃すわけにはいかない。というのは、この時代ほど勤皇(きんのう)思想が意識されながらも、同時に天皇の地位が不安になった時代は、それまでになかったからである。

天皇の地位が、実際上の権力者の意志によって左右できることを示したのは、北条泰時(やすとき)であった。彼は、幕府を倒そうという宮廷側の計画であった承久(じょうきゅう)の変に関連した、三人の上皇を島流しにし、仲恭(ちゅうきょう)天皇を退位させて、後堀河(ごほりかわ)天皇を立てたのである。

この泰時の故知(こち)に倣(なら)って、北条高時(たかとき)は、元弘(げんこう)の変のときに大覚寺統の後醍醐(ごだいご)天皇を捕えて隠岐に流し、持明院統の皇太子量仁(かずひと)親王を即位せしめた。これが光厳(こうごん)天皇である。しかし間(ま)もなく建武の中興が起こったため、光厳帝は廃され、後醍醐天皇が復帰したのであった。

さて、建武の中興に反感を持った武士たちに担(かつ)がれて兵を挙(あ)げ、朝廷に叛(そむ)いたものの、尊氏は結局は敗北して九州に落ちざるをえなかった。

このときに反省したことには、「日本においては天皇を担いでいなければ、結局は敗れる」ということであった。

いつもならば朝敵が官軍になることはむずかしいのだが、当時は簡単だった。大覚寺統と持明院統が分かれているのだから、もう一方を持ってくればよい。尊氏は使いを後伏見(ごふしみ)法皇に送って、自分が官軍であるということを示すために院宣(いんぜん)を下さるように願い出た。

後醍醐天皇は大覚寺統であり、後伏見法皇はもちろん持明院統である。この持明院統のほうでは、建武の中興以来、政治的にはまったく片隅に置かれていて欲求不満を感じていたところだったので、大いに喜ばれて、さっそく尊氏に院宣を与えられたのである。

これで尊氏側も、錦(にしき)の御旗(みはた)を立てられることになったわけであり、京都側にとってはひどく具合の悪いものになった。

この意味において、尊氏は「錦の御旗」の軍事的価値を認めた最初の武将であるかもしれない。このこと自体、宋学の正統理念が、何となく広く社会意識になっていたことを示すものである。

世の中を動かすのは「社会意識」という、一見、つかまえどころのないものなのであって、この社会意識を正しく認識したり、また、それを利用できる者が政治的に有利な立場に立つことは、今も昔も変わらない。
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