電脳筆写『 心超臨界 』

手本は人を教える学校であり
他からは何一つ学べない
( エドマンド・バーク )

活眼 活学 《 東西詩情の隔たり――安岡正篤 》

2024-07-11 | 03-自己・信念・努力
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我々の方は何とかしてよけいなものを去って、対象の生命そのものを躍動させようとする。あちらの方はなるべく細かく枝葉をつけて、よく分かるように説明しようとする。「朝顔につるべとられてもらひ水」。誰につるべをとられたか。どこからもらったか。即ち因果律的追求をする。因果関係を分析・説明しないと満足しない。これで科学には宜しいけれども、どうも詩には向かない。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p71 )
[1] 活眼・活学
4 日本人の心

◆東西詩情の隔たり

前回は文字というものから我々の民族的な特質をお話しいたしましたが、更に進んで、もう少しいろいろと精神的な方面を観察いたしますと、例えば、詩というものですが、元来、論理的な文章より、感情的・情操的な詩というものの方に、よく民族性が表われておることは言うまでもないことであります。この詩の方に、東西両民族の本領の相違がよく分かるのであります。西洋の詩は、どうも東洋人から見ると、詩という感じが少ない。西洋の詩をこっちに翻訳したり、こちらの詩歌・俳句を先方に翻訳したものをとってみますと、その点が面白く考えられるのであります。

どなたもよく御承知の芭蕉の句

  古池や蛙(かわず)とびこむ水の音

あれをいろいろに翻訳されておりますが、そのうち最もよくできておる一つをとってみますと、こういうのがあります。

  A lonely pond in age-old still sleeps……
  apart, unstirred by sound or motion……till
  Suddenly into it a lithe frog leaps. ――by Chamberlain――
  さびしい池が幾代か経た静けさの裡(うち)に眠っている
  離れて、じっと、何の響きも動きもなく、
  その時
  突然その中へ一疋の飄軽(ひょうきん)な蛙がとびこんだ。

となっておるのでありますが、これではどうも説明であって、我々の考えておる詩ではない。また加賀千代女の句に、

  起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな

というのが、あります。これも翻訳いたしまして、

  I sleep……I wake
  How wide
  The bed with none beside. ――by Page――
  私は眠る……私は起きる
  何と濶(ひろ)いことだ
  この寝床――だれも添寝していない。

これではどうもいただけない。やはり説明的・概念的かつ卑俗である。第一“I”という主語が、日本人から言えば面白くない。

  朝顔につるべとられてもらひ水

という句にしても、訳詩は省略いたしまして、

  つるべの縄をぐるっと朝顔がからんでいる。
  私はこの花の甘い秘密をどうして破ることができようか。
  私は水をもらってこよう。
  隣の井戸から。

と御親切に説明を加えておる。けれども、これでは遺憾ながら実在の生態そのものを逸してしまう。我々の方は何とかしてよけいなものを去って、対象の生命そのものを躍動させようとする。あちらの方はなるべく細かく枝葉をつけて、よく分かるように説明しようとする。「朝顔につるべとられてもらひ水」。誰につるべをとられたか。どこからもらったか。即ち因果律的追求をする。因果関係を分析・説明しないと満足しない。これで科学には宜しいけれども、どうも詩には向かない。

広瀬淡窓の話に、ある俳人の弟子が「板の間に下女とり落とすなまこかな」という俳句を作った。そうすると先生が、これは道具立てが多いと言って却下した。これでは下女が主か、板の間が主か、なまこが主か、はっきりせんわけであります。そのうち弟子が一考して「板の間にとり落としたるなまこかな」と下女を省略しました。そうすると先生は、だいぶ良くなったが、まだいかん。というので更に苦心惨憺、遂に「とり落しとり落したるなまこかな」とやったところが、先生がそれでこそ本当の句だと評したということであります。こういうところに、こちらの方の精神がよく表われております。
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