電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
きれいにするのを目的とするというよりも、掃除する作業そのものを清純の行とする新しい価値がここに生まれる。「何かのために」という目的を果たすための手段ではない。手段そのものを目的とする。手段の中に目的をそっくり包んでしまうとき、手段がそのまま目的となる。すると、目的が適(かな)えられなかったという失望も挫折感もなくなる。
◆心塵脱落(しんじんだつらく)――如浄録(にょじょうろく)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p216 )
「心塵脱落」は、心につきまとう塵(ちり)やごみ(煩悩のこと)をとりのけ、雑念や妄念を離れた安らかな心の状態をいう。心塵脱落は、道元の師、如浄(にょじょう)禅師(1227年没)の語で、師の語録の「如浄録」に見える。
心塵脱落は仏教思想の基本的なテーマである。道元は、如浄が示す心塵を「身心」と体験的にさらに深く受けとめて、「身心脱落 脱落身心」と徹底する。
脱落は、解脱に同じ。自分の持つ煩悩から自分を解放することで、本当の意味で自由自在になる機能をいう。
掃(は)けば散り 払(はら)えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落葉も
の道歌に心塵脱落のこころがよくうたいあげられている。掃除に完了はない。清掃器具や清掃技術がいかに革新されても、掃除を必要としない時代はついに来ないであろう。
塵埃(じんあい)の無くなるときは望むべくもない、とするなら、つねに清掃をつづけることが、清潔と清浄とを保つ唯一の方法となる。
きれいにするのを目的とするというよりも、掃除する作業そのものを清純の行とする新しい価値がここに生まれる。
「何かのために」という目的を果たすための手段ではない。手段そのものを目的とする。手段の中に目的をそっくり包んでしまうとき、手段がそのまま目的となる。すると、目的が適(かな)えられなかったという失望も挫折感もなくなる。
人生は要するに途中である。完了もなければ卒業式もない。永遠の途中であるといわれるゆえんである。
私たちは、心の塵を悲しむ必要はない。生きている証(あかし)が煩悩のある事実を示してくれるからだ。歎くべきことは、心塵を整理しよう、との道念の衰えであろう。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
きれいにするのを目的とするというよりも、掃除する作業そのものを清純の行とする新しい価値がここに生まれる。「何かのために」という目的を果たすための手段ではない。手段そのものを目的とする。手段の中に目的をそっくり包んでしまうとき、手段がそのまま目的となる。すると、目的が適(かな)えられなかったという失望も挫折感もなくなる。
◆心塵脱落(しんじんだつらく)――如浄録(にょじょうろく)
『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p216 )
「心塵脱落」は、心につきまとう塵(ちり)やごみ(煩悩のこと)をとりのけ、雑念や妄念を離れた安らかな心の状態をいう。心塵脱落は、道元の師、如浄(にょじょう)禅師(1227年没)の語で、師の語録の「如浄録」に見える。
心塵脱落は仏教思想の基本的なテーマである。道元は、如浄が示す心塵を「身心」と体験的にさらに深く受けとめて、「身心脱落 脱落身心」と徹底する。
脱落は、解脱に同じ。自分の持つ煩悩から自分を解放することで、本当の意味で自由自在になる機能をいう。
掃(は)けば散り 払(はら)えばまたも ちりつもる 人の心も 庭の落葉も
の道歌に心塵脱落のこころがよくうたいあげられている。掃除に完了はない。清掃器具や清掃技術がいかに革新されても、掃除を必要としない時代はついに来ないであろう。
塵埃(じんあい)の無くなるときは望むべくもない、とするなら、つねに清掃をつづけることが、清潔と清浄とを保つ唯一の方法となる。
きれいにするのを目的とするというよりも、掃除する作業そのものを清純の行とする新しい価値がここに生まれる。
「何かのために」という目的を果たすための手段ではない。手段そのものを目的とする。手段の中に目的をそっくり包んでしまうとき、手段がそのまま目的となる。すると、目的が適(かな)えられなかったという失望も挫折感もなくなる。
人生は要するに途中である。完了もなければ卒業式もない。永遠の途中であるといわれるゆえんである。
私たちは、心の塵を悲しむ必要はない。生きている証(あかし)が煩悩のある事実を示してくれるからだ。歎くべきことは、心塵を整理しよう、との道念の衰えであろう。