電脳筆写『 心超臨界 』

悲観論か楽観論かの問いにはこう答える
私の知識は悲観的なものだが私のやる気と希望は楽観的だ
( シュヴァイツァー )

人生を創る言葉 《 勇者に対しては――ナポレオン 》

2024-10-12 | 03-自己・信念・努力
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◆勇者に対しては、敵人なりといえども、余はこれを尊敬す


『人生を創る言葉』
( 渡部昇一、致知出版社 (2005/2/3)、p119 )
第3章 勇気と覚悟――運命を開くもの

[ ナポレオン ]
フランス皇帝。コルシカ生まれ。一砲兵士官から出世して帝位に就
く。その勢いは一事欧州を席巻したが、挫折。セントヘレナ島にて
没する。(1769~1821)

フランスのヴェルダンという場所にある監獄に、二人のイギリスの水兵が捕まっていた。ところが、この二人はうまく脱獄して、ブローニュの岸まで逃げてきた。それから先は海を渡らなければならないが、一隻のボートも見つからない。そこで彼らは材木の切れ端を拾い、小さな筏(いかだ)を作って3、4尺の布を帆にして海峡を横切ろうとした。

ところが、準備が整い、いよいよ船出だというときに発見され、捕まってしまった。

「逃げようとした水兵どもをここに連れて来い」

捕まった水兵たちがおそるおそる現れると、ナポレオンはこういった。

「この筏はお前たちの手で作り上げたのに相違ないか」

「陛下、そうでございます」

「この筏でこの海峡を渡れると思っているのか」

「はい、そのつもりでおります。もし陛下がお疑いであるのなら、私どもにこの筏を操縦させてください。そうすれば必ず本国に帰る自信があります」

ナポレオンはこの勇敢な言葉を聞いて感心した。

「よし、私はお前たちのその勇気に免じて帰国を許してやろう。縄を解いてやれ!」

そういって衛兵に縄を解かせた。さらにナポレオンはいった。

「お前たちがロンドンに帰ったならば、フランスの皇帝は、勇者に対しては敵人たりといえども、これを尊敬するのだ、といって自分たちを放してくれたといってくれよ。わかったであろうな」

ヨーロッパのよき伝統の名残りを感じさせる話である。ヨーロッパでは三十年戦争(1618~48年にかけてカトリックとプロテスタントの間で起こった宗教戦争)のときに無茶苦茶な殺し合いをした。宗教戦争の場合、敵は悪魔そのものだから、遠慮会釈なく殺したのである。戦場となったドイツのある地域では、人口が戦争前の4分の1から5分の1に減ったといわれているほどで、敵は勇敢なりといえども尊敬など一切なかった。

三十年殺し合った挙句(あげく)にどうなったかといえば、1648年にウェストファリア条約が結ばれて、宗教戦争はもう止めようということになった。そして、君主の宗教がカトリックなら、その地域の住民はカトリックにする。君主の宗教がプロテスタントなら、プロテスタントにする。それが嫌な住民は場所を移ればいい、ということに決まった。宗教の対立が戦争の原因であったのに、最後には、宗教なんか勝手に選べばいいということで終わったわけである。

そして、ここからいわゆる啓蒙思想が興ることになった。啓蒙思想の時代になると、敵を悪いものだと思わないようにしよう、という約束事ができあがった。だから、戦争をしていても、意識の上では非常に礼儀正しく戦争をするようになった。負けた相手に対して無茶苦茶な要求はしないし、決して尊敬を失わない。こういう伝統がヨーロッパにうまれたのである。

ナポレオンはもちろん、啓蒙思想以後の人であるから、勇者を尊敬するという伝統を守った。負けた王様を辱(はずかし)めるようなことは決してしなかった。イギリスはナポレオンを危険視してセントヘレナ島へ流したわけだが、これに対して「イギリスは騎士道の精神に反する」と非難する人も多かったのである。この一件は例外として、一般的にいえば、啓蒙思想の広がりとともに戦争は非常に優雅なものになった。いかにきれいに戦ったかが問題とされるようになったのである。

その名残りがヨーロッパではずっと続いていて、第一次大戦のような凄まじい殺し合いの戦いのあとでも、負けたドイツ皇帝ヴィルヘルム1世をどう裁くかという案はヨーロッパからは出なかった。アメリカは厳しく裁くことを求めたが、ヨーロッパの人たちは、勝者が敗者を裁くことはよくないといって、結局その意見が勝った。事実、ヴィルヘルム1世は裁かれないまま、自分の親類のいるオランダで平和に余生を過ごすことができた。

ところが第二次大戦後になると、様相は一変した。何しろアメリカが圧倒的に強かったので、すべてにアメリカの意見が通ることとなり、東京裁判が象徴されるように、勝者が敗者を裁くという形が定着していくのである。

ご存知のようにアメリカは新しい国で、いわばヨーロッパの伝統を飛び越してできた国である。たとえば、奴隷制度を近代以降に大幅に採用したのはアメリカであった。奴隷制度は古代ギリシャや古代ローマでは盛大に行われていたが、中世になると「キリスト教精神に反する」という理由から次第に廃止されていった。しかし、アメリカは中世を知らない国だから、古代ギリシャやローマのごとく、奴隷制度を躊躇なく採り入れたのである。

これと同様に、ウェストファリア条約以降の「勝者はあっても敵を悪いものとはきめつけない」という伝統も、アメリカは知らない。だから、敵は悪魔同然であるようにいい、東京裁判においても、そのような認識のもとに日本人を裁いた。

捕虜虐待や民間人を殺した罪を裁くことは国際条約で決められていたが、戦争した相手を裁くというのは、自分のほうだけが正しかったという立場である。これは現実にありえないことだが、アメリカはその伝統を破ったのである。国際条約に則(のっと)って裁くとすれば、民間人を殺した罪が一番大きい。ならば無差別爆撃をし、原爆を落とし、多数の民間人を虐殺したアメリカが、本来は一番裁かれるべき存在であったはずだ。

ナポレオンの話を読むと、当時のヨーロッパの戦争にはこうした寛大な面があったのだという心地よさを感じる。しかし、アメリカが力を持ってから戦争は全く変わってしまった。勝者が正義で、敗者が悪という形でないと戦争ができなくなった。これは近代20世紀の悲劇だと思うのである。

日本は、どちらかといえばヨーロッパに似たところがあるように思う。たとえば、徳川慶喜が降参したのち、あくまでも戦おうと主張して函館の五稜郭で頑張った榎本武揚は、明治政府では重用されている。何より徳川慶喜が厳しく罰せられてはいない。厳しい処罰を受けたのは、めぼしいところでは新撰組の近藤勇と小栗上野介だけである。近藤勇は、新撰組の頭領として多くの維新の志士を切ったから、その恨みを買ったのであろうし、小栗上野介は、幕府の海軍を使って大坂に逆上陸して勤皇方を全滅させようと計画したため、こんな恐ろしい奴は生かしてはおけないというので殺された。

しかし、この二人は例外的である、普通の人はみなそれぞれに見合った処遇を受けている。このあたりは「武士は相身互い」のような状況があり、また人材温存という考えもあったのだろうが、どこか敵を尊重するというヨーロッパと似た気運があったように思う。「武士の情け」というような言葉も、ヨーロッパの騎士道に通じるところがある。
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