電脳筆写『 心超臨界 』

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( ジグ・ジグラー )

個人のパトスに依存しすぎた企業の危うさ――金子直吉

2024-06-22 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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日経新聞「やさしい経済学」が日本の企業家を特集しています。今回の企業家は、明治の日本企業の興隆を支えた番頭経営者のひとり、金子直吉。解説は、神戸大学教授・加護野忠男さん。以下にダイジェスト版を記します。

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加護野忠男(かごの・ただお)
47年生まれ。神戸大卒、経営学博士。専門は経営組織・経営戦略論
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年表・金子直吉
1866 土佐(高知県)に生まれる
1886 神戸で鈴木商店に入る
1894 鈴木よねから経営を委任される(柳田富士松とともに)
1899 台湾樟脳油の販売権を取得
1903 大里製糖所設立
1905 小林製鋼所買収、神戸製鋼所に改称
1912 帝国麦酒発足
1914 第一次大戦勃発、商品大量買いへ
1916 播磨造船を買収
1918 帝国人造絹糸を設立。米騒動で本店焼き打ち
1927 鈴木商店倒産
1928 鈴木の後継会社として高畑誠一らが日商(現双日)設立
1944 死去

[1] もう一つの日本型 2005.11.21
製造業の大企業を中心とした経営スタイルの特徴は、終身雇用、年功序列、企業組合といわれる。しかしこの特徴は、若い創業期の企業や流通業の企業にも認められる。その手がかりを与えてくれるのが、第一次世界大戦期に台頭した総合商社・鈴木商店の番頭経営者・金子直吉である。企業家兼経営者である金子は、神戸の新興商社だった鈴木商店のグループ事業をM&Aを通じて多角化させ、大正時代には三井、三菱を凌駕するほどの複合企業体(コンツェルン)にまで発展させた。商業の他にも、神戸製鋼所、帝人などの近代製造企業の創業の立役者でもある。

作家の城山三郎氏が小説『鼠』において肯定的な評価を与えるまでは、金子については否定的な見方が支配的であった。実際にマイナスイメージを与える側面もあった。台湾との取引では政治家の後藤新平と強いつながりがあり、政商とみられることもあった。大正時代は米買い占めの流言で本店が焼き打ちされる事件もあったことから、社会的配慮に欠ける商人と解されることもあった。さらに昭和の金融恐慌時に本体鈴木商店が破綻したことも、彼のマイナス評価につながっている。しかし、金子直吉が明治半ばから大正にかけて活躍した代表的な企業家の一人であることは否定できない。それだけではない。金子は、現場主導の分権的経営という日本的経営の一モデルを試みた企業家でもある。

[2] 近代化へのパトス 2005.11.22
マックス・ウェーバーは、近代資本主義を支えている精神的態度として二つのことを上げている。一つは、無分別な営利欲求ではなく、宗教に裏打ちされた厳しい倫理観であり、もう一つは、既存の秩序に順応せず、新しい秩序を自らつくろうとするパトス(情熱)だという。

明治の企業家、特に貿易に従事した企業家にこうしたパトスを供給したのは、明治のナショナリズムであった。明治初めの開港場では、居留地の外国人商人を媒介する商館貿易が行われていた。外国人商人が国際貿易を独占し、日本人商人から大きな利益を得ていたのである。外国人に対する裁判権のない日本の商人たちは、売上債権回収に大きなリスクを負っていた。それだけに、これを日本人の手に取り戻すべきだ、という志を持った企業家たちは、直接貿易へと導かれていった。金子もその一人であった。

幼くして明治維新を高知で迎えた金子は、もともとは政治の世界で身を立てたいという希望を持っていた。その彼を神戸の地にひきつけたのは、貿易を日本人の手にという、まさに明治のナショナリズムであった。開港場の日本人商人たちは商館貿易を通じて国際取引の知識、為替や相場についての感覚を身につけ、その能力をてこに貿易へと進出していったのである。

[3] 番頭経営者 2005.11.23
明治の日本企業の興隆を支えたのは番頭経営者たちであった。三井の三野村利左衛門と中上川彦次郎。住友の広瀬宰平と伊庭貞剛。こうした人材を抜きにして、現在のこれら旧財閥グループを語ることはできない。現に、優れた番頭人材を得続けることができなかった大阪の鴻池は相対的地位を落している。

金子直吉は1866(慶応2)年に土佐吾川郡の商人の子として生まれた。明治維新の経済混乱で生家が衰えたため、直吉は10歳そこそこで紙くず拾いを始め、間もなく丁稚奉公に出る。砂糖店から乾物屋に転職し、再び砂糖店にもどる。その後、質屋に奉公し、ここで商売の才能を磨いて、番頭までに昇進する。この質店は後に砂糖商にもなったが、店の経営はすこぶる機転のきく直吉に任せられていた。

直吉は、板垣退助、後藤象二郎らをはじめ中央政界に多くの人材を送り出した旧土佐藩の雰囲気に影響されて政治家を目指すが、結局は商人として大成することを望み、86年、20歳のときに鈴木商店に転職する。当時の鈴木商店はすでに神戸の八大貿易商の一つに数えられるほどの規模になっていた。

鈴木商店の幹部に柳田富士松という若者がいた。彼は才覚にあふれた直吉の力を認め、直吉を前面に立てるようになる。直吉がその企業家精神を存分に発揮するのは、94年に主人の岩次郎が亡くなってから。鈴木商店において直吉は単なる使用人ではなく、共同経営者あるいは経営者代理であった。主人亡き後を継いだ夫人の鈴木よねは、直吉に全幅の信頼を寄せ、彼と柳田に経営をゆだねた。1902年に鈴木合名に改組されたとき、直吉も社員(連帯責任を負う出資者)に加えられ、持ち分が与えられている。

[4] 複合企業への道 2005.11.24
主人の鈴木岩次郎が亡くなったときの鈴木商店の主力商品は砂糖と樟脳。次席番頭の金子は樟脳を担当した。これは台湾を主産地とする商品で同社と台湾、さらには台湾総督府高官だった後藤新平との紐帯(ちゅうたい)をつくる媒介ともなった戦略商品であった。樟脳は、鈴木商店の複合企業化のてこにもなった。1900年代に入ると神戸に樟脳の製造所ができる。台湾の樟脳産業をめぐる国策に協力したもので、樟脳(油)の販売から生産(再製)へと事業は発展する。同社の製造業への進出は活発になり、05年には小林製鋼所を買収し、神戸製鋼所を設立した。一方で金子は、貿易強化に向けて日本商業を設立し(のちの日商、現在の双日につながる)、取扱品目の増大に対応する。

鈴木商店は、14年に勃発した第一次世界大戦をきっかけに大きく発展する。有名な話がある。戦争で国際商品が高騰しかけた際、金子はまだ20歳代だったロンドン支店の高畑誠一(のちの日商会長)らに「Buy any steel, any quantity, at any price」と打電している。金子の凄さはこれだけではない。大戦で船不足に悩む米国は、日本の造船業に期待をかけるが、日本には鉄材が不足していた。そこで金子は米国大使に直接会い、船と鉄の交換交渉をまとめ上げた。鈴木商店は播磨造船(のちの石川島播磨重工業)を買収していたし、神戸の川崎造船所(のちの川崎重工業)とも緊密な関係をもっていた。この交渉によって鈴木の造船事業は大きく飛躍する。

大戦景気で鈴木は製造業への進出を加速させ、日本最大の商社にのしあがる。17年の年商は15億円超、三井物産は約11億円。このころが金子の絶頂期であった。

[5] 国際化と分権 2005.11.25
金子は自らと同じたたき上げの人材だけでなく、学卒の人材を重用した。分権構造は急速にグローバル化を進めるなかで当時の商社に求められた企業統治のスタイルでもあった。

鈴木商店の最初のエリート社員は金子の右腕となった西川文蔵である。彼は東京の高等商業学校(現一橋大)を卒業する直前の学園騒動で中退し鈴木に入っている。のちに神戸高等商業学校(現神戸大)からも多くの人材が入った。代表格の高畑誠一をはじめ、出光興産の創業者、出光佐三などである。学卒とたたき上げは、緊張関係をはらみつつも車の両輪のように鈴木商店を支えていた。

国際取引に際してコンセンサス(合意)を重視する経営では、商機を逸し競争に負けてしまう。交通・通信手段が未発達の明治期においてはなおさら、鈴木のような総合商社が分権経営をすすめることは理にかなっていたわけである。当時、国際化を進めた欧州の多国籍企業も、分権的連邦型経営のモデルを生み出している。

鈴木においてこの分権体制を担保していたのは、たたき上げと学卒との間の自由闊達な論争的経営とも呼ぶべきスタイルであった。分権的経営スタイルは、ともすれば現場の独断・独走を許す可能性があるが、内部での論争がそのリスクを防いだ。たとえば高畑は、広報や第一次大戦後の戦略などをめぐり独自の見解を積極的に主張するなど金子と張り合う面があった。成長期の鈴木を含めた商社の論争的スタイルは、日本企業における現場主義の参画的経営のひとつのルーツとみることができる。

[6] 無私の功罪 2005.11.28
国際化にむけた論争型の分権経営は、金子のリーダーシップを支える形で第一次大戦期までの鈴木の発展を後押しした。しかし、やがて金子本人の独走により鈴木は衰えていく。

18年に鈴木本店が焼き打ちされる事件が起きた。米買い占めという事実無根のうわさが原因である。しかし、金子は黙したまま大戦後もひたすら事業拡大の路線を突き進む。こうした独走色が濃くなったのは、金子のけん制役だった西川が20年に急逝したことにもよる。

27(昭和2)年に金融恐慌が発生、鈴木の主取引銀行だった台湾銀行が危機に陥り鈴木商店は破綻する。金子主導による過剰な事業の拡大と負債の膨張が致命的だった。特に投資回収期間の長い製造業の場合、厳しい利益管理が不可欠だった。

こうした独走は、決して珍しいことではない。有名なのは米ゼネラル・モーターズ(GM)を設立したデュラントによる過剰な拡大路線である。GMとの違いは、主に同業種での成長ではなく、異業種に積極進出したこと、買収だけではなく、回収まで時間のかかる新事業設立が行われたことである。

金子は、私利私欲で独走したわけではない。国家に代わって鈴木が多くの事業を遂行する、という企業家としての信念からであった。皮肉にもその「無私」が災いした。私欲がない分、かえってリスクに鈍感になり独走に歯止めがかからなくなったのである。

こうした歴史もたどりつつ金子の「遺産」である人絹(のちの帝人)などの事業が、鈴木の手を離れてのち、発展していくことになる。

[7] 内部統治と独走 2005.11.29
鈴木商店が分権型ガバナンス(企業統治)に失敗したように、商社の統治は難しい。その点、兼松商店(現兼松)は、独特の統治制度を編みだし、鈴木とは対照的な道を歩んだ。

兼松商店は1889(明治22)年に日豪貿易、特に羊毛輸入を目的に個人商店として設立された専門商社である。創業者の兼松房次郎は店業継承について早くから基本方針を示していた。個人商店を合資会社などに改め、長期勤続の功労者に持ち分を与えて出資者に加え、従業員持ち株制度を推進するという方針だった。長期勤続の従業員は会社の株を与えられ、退職時にそれを会社が買い戻すという制度である。

これは従業員のコミットメント(忠誠心)を高めるための制度で、導入後に従業員の定着率は上昇した。個人経営体の集合としての商社における企業統治の難しさを克服する工夫でもあった。商機をつかむには、個人の機敏な判断が必要な半面、放任にすると大きなリスクを抱え込んでしまう。独自制度はこうしたジレンマの緩和策なのである。

外国人商人に独占されていた貿易を、日本人の手にという既成秩序に対する闘争的パトスが初期の金子の原動力なっていたことはすでに述べた。のちに、その矛先は、三井、三菱という既成秩序となった大企業グループに向けられていく。第一次大戦中の17年に、ロンドンの高畑にあてられた手紙で金子は次のように書いて自らを鼓舞している。

「戦乱の変遷を利用し大儲(もう)けを為し三井三菱を圧倒する乎(や)、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是(これ)鈴木商店全員の理想とする所也(なり)」

個人のパトスに依存しすぎた企業の危うさは、国内外を問わず、現在でも随処に見出すことができる。

[8] 情熱と過剰 2005.11.30
鈴木商店の破綻の原因は、ひとことで言えば、過剰投資である。過剰ゆえに失敗したのは、米ゼネラル・モーターズ(GM)を設立したデュラントもそうであり、かつて日本最大の小売複合企業にまでダイエーを育てた中内功氏の場合も然りである。企業家の行動は単なる営利欲求では説明できない。ウェーバーの言うパトス(情熱)によって支えられている。パトスはとどまるところを知らない。その結果多くの企業家は過剰に陥るのだ。

もうひとつの問題は外からのガバナンス(企業統治)の難しさである。過剰にブレーキをかけるのは冷静な損得計算である。それができるのは通常、銀行家と社主たちである。1902(明治35)年に鈴木が合名会社化された時、創業者岩次郎の未亡人・鈴木よね(出資額48万円)のほかに、金子と柳田も社員(各1万円出資)として持ち分を認められた。辣腕(らつわん)の番頭経営者に所有権まで持たせたことが、統治を難しくしている。

他方、前にみた兼松商店(現兼松)は、従業員が主役となる企業統治制度を生み出し、適切な内部けん制を行うことができた。ただしこの制度も、成長促進にむけた環境整備のため、戦後転換を迫られ、61年には株式が公開された。

企業統治制度に絶対的に正しい解答はない。さまざまな統治制度には、長所もあれば欠点もある。それをみる時間軸の長さでも評価は異なってくる。数十年という超長期のスパンで考えると異なった側面が見えてくる。

パトスと企業統治について金子の軌跡はじつに多くのことを物語っている。
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