電脳筆写『 心超臨界 』

今日あなたはあなた自身である
それは真実を超えた真実
あなた以上にあなた自身である者などいない
ドクター・スース

読む年表 戦国~江戸 《 秀吉死す――渡部昇一 》

2024-08-29 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


秀吉には若いときから多くの側室がいたのに一人も子ができず、今なら80歳ぐらいに相当する56歳という年齢になってから秀頼が生まれたことが、秀吉の晩年を卑小にしたように思われてならない。せっかく関白にした甥の秀次が邪魔になったので切腹させ、その遺児、正室、側室、侍女合わせて三十名を処刑した秀吉は、若いときの秀吉ではない。ただただ幼い息子に家を継がせたいと願うだけの老いぼれ爺になってしまった観がある。


◆秀吉死す

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p128 )

1598(慶長3年)
《 秀吉死す 》
惜しまれる秀吉の哀れな最期

秀吉の死に方はじつに英雄らしくなかった。豊臣家を残したくて「秀頼を頼みます、頼みます」と前田利家や徳川家康たちに泣いて頼みながら死んでいる。名著『近世日本国民史』を書いた徳富蘇峰は「人間の価値はいちばん値段の高いところで見なければいけない」と言った。秀吉は山崎の合戦から賤ヶ岳の戦いあたりまでの秀吉で見るべきだし、桂太郎なら日露戦争のときで人物を計るべきだというのだが、最晩年の秀吉は惨めで情けない老人であった。

秀吉は日本史の中でいちばんの英雄と言ってよいであろう。何しろ、足軽から身を起こし、関白太政大臣として日本全土を統治したのだ。信長も家康も、出発点は大名であった。

信長のように敵を潰すことよりも、秀吉は相手を降伏させることを重んじて、その場合は本領安堵(ほんりょうあんど)をしている。「敵を殺さなければ済まぬ」という戦国的、また信長的発想と、秀吉の発想はまったく違っていた。秀吉にはある種の“明るさ”があった。

秀吉は北野に大茶会を催し、聚楽第に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、醍醐に花見し、金銀を気前よく分け与えた。信長は比叡山を焼き、高野山を攻め、本願寺と戦った。秀吉は比叡山延暦寺も高野山金剛峯寺も再興し、本願寺を優遇した。大仏を建てたことも昇平(しょうへい)の気分を世の中につくり出した。刀狩りを行って農民の武器を取り上げ、その鉄を大仏殿に使ったのは象徴的でさえある。

朝鮮出兵については、小林秀雄の指摘の如く、それがまったくこれまでにない戦いであること、つまり「事変の新しさ」がわからなかったことと、秀吉に老衰が始まっていたことを考慮すべきである。とくに、秀吉が淀君に男の子を生ませたことが、彼の知力を曇らせた。

秀吉には若いときから多くの側室がいたのに一人も子ができず、今なら80歳ぐらいに相当する56歳という年齢になってから秀頼が生まれたことが、秀吉の晩年を卑小にしたように思われてならない。

せっかく関白にした甥の秀次が邪魔になったので切腹させ、その遺児、正室、側室、侍女合わせて三十名を処刑した秀吉は、若いときの秀吉ではない。ただただ幼い息子に家を継がせたいと願うだけの老いぼれ爺になってしまった観がある。それを人間的という見かたもあると思うが、私は悲しく思うし、あわれである。ひと口で言えば惜しい。私は小学6年生のときに「豊臣家なら鎖国をしなかったであろうから大東亜戦争は不要であったろう」という主旨の作文を書いた。それから70年ほどの時間が経つが、今でも私はそう思っている。

こうして、我慢に我慢を重ねていた家康にようやく出番がまわってきたわけである。秀吉の享年62、家康56歳であった。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人間通 《 改革官僚——谷沢永... | トップ | 読む年表 戦国~江戸 《 関ヶ... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事