電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

日本史 古代編 《 「出藍の誉れ」――日本の漢文学/渡部昇一 》

2024-09-14 | 04-歴史・文化・社会
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


すべての漢字は、潜在的には日本語のボキャブラリとして使えるものという観念が定着した。現在、諸橋(もろはし)(轍次(てつじ))博士の作られた『大漢和辞典』(大修館)は、シナのものを含めても世界最大の漢和辞典というが、こういうのが日本で出来るのは、漢字はわれわれのものになっているという感じがあるからである。こういう意識は奈良期にはじまり、平安朝にすっかり身について、当然のことと思われるようになったらしい。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p259 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(2) 遣唐使廃止――内的成熟の涵養(かんよう)

◆出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れ」――日本の漢文学

女性文学は、平仮名が女手(おんなで)と呼ばれることからもわかるように、それは主として仮名文学の世界、つまり純粋の日本文学の世界であった。もちろん和歌は依然として最も大切な文学形式であり、勅撰集の選者もすべて男であった。しかし男は、日本語の物語文学を書くよりは、そのエネルギーの多くを漢文学に集中した。

奈良時代に、和歌の『万葉集』よりも、漢詩集である『懐風藻(かいふうそう)』のほうが早く出来たように、平安時代には、最初の勅撰和歌集の『古今和歌集』(905年)よりも早く、最初の勅撰漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』(814年ごろ)が嵯峨天皇(第五十二代)の御代(みよ)に出てから、次の淳和(じゅんな)天皇の御代にかけて、三種の漢詩の勅撰集が出、一つの詩集に178人もの作者が登場していることは、当時の男たちがいかにインテンスィブ(徹底的)に漢詩漢文を読み、それを書けるようになるまで勉強したかの証拠である。もちろん、女も漢文の勉強はしたのだが、主力は男であった。

このために、唐までの全シナ文学を、日本人はわれわれの古典として感じうるようになったのである。

それは、中世以降のイギリスやドイツ人などが、ラテン語に対して抱いた感じ、特にルネサンス期の人たちが、ヨーロッパの古典文学に抱いていた、あの感じと似ている。16世紀のエリザベス女王の宮廷の人たちは、自国の『ベオウルフ』(8世紀ごろ成立の叙事詩)などの存在も知らず、またチョーサーに対してよりは、ホラテウスなど古代ローマの詩人に対して、より親近感を持っており、全ラテン語のボキャブラリは潜在的に英語のボキャブラリと、当時感じられたが、それと同じことを日本も経験したのである。

すべての漢字は、潜在的には日本語のボキャブラリとして使えるものという観念が定着した。現在、諸橋(もろはし)(轍次(てつじ))博士の作られた『大漢和辞典』(大修館)は、シナのものを含めても世界最大の漢和辞典というが、こういうのが日本で出来るのは、漢字はわれわれのものになっているという感じがあるからである。こういう意識は奈良期にはじまり、平安朝にすっかり身について、当然のことと思われるようになったらしい。

空海(弘法大師)が唐に行ったとき、両手で字を書いてみせたという。片手で書いたのでは上手に書いて感心してもらっても限度がある。それで両手で書いてみせたというのだ。もちろんエピソードであって、本当であったかどうかわからない。しかし、唐の才人たちが、「これほどの人は華人にも稀である」と感嘆したことは本当である。

華麗な駢儷体(べんれいたい)の漢文というのは『古事記』の序文にもあるが、空海は24歳のときにこの形式で『三教指帰(さんごうしいき)』を書いていることは、今さらながら、その才能に驚くのであるが、この文体は韓退之(かんたいし)や柳宗元(りゅうそうげん)が出てきてからは、シナでも作る人がなくなったものである。当時のシナに行って、こういう文章を書いてみせたら、日本人が擬古文(ぎこぶん)をすらすら書いてみせるアメリカ人に(そんな人がいたらの話だが)驚くほど、驚いたことは十分想像できる。

特に空海が遺した『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』は現存する限り、東洋最古の修辞学習である。これは厳密な意味で空海の創作というわけではない。

シナの六朝(りくちょう)以来、修辞のことがうるさくなり、多くの本が出たのであるが、空海はそれらを参考にしながらこれを作ったのである。

ところが、そういう本がシナではほとんど残っておらず、空海のものが今では、なくなった多くの本の唯一の抜萃(ばっすい)という面があるので、シナの学者にも珍重されている。これも日本人の、もの持ちのよさを示す一例となろう。

またこのため、和歌のほうにも盛んに歌論が生じ、日本は独特な文学批評の歴史を持つに至るのである。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 読む年表 明治~戦後 《 GH... | トップ | 日本史 鎌倉編 《 現代生活に... »
最新の画像もっと見る

04-歴史・文化・社会」カテゴリの最新記事