電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

不都合な真実 歴史編 《 歴史書が触れることのない歴史――渡辺惣樹 》

2024-09-14 | 04-歴史・文化・社会
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FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)の政治家としての最大の問題点は、ヨーロッパでもアジアでも火花が散りつつ本格的な戦争が始まってもおかしくない状況を前にして、その強力な国力(潜在的軍事力)を背景にした仲介を忌避したことである。小さな火種を大火に煽り延焼を狙う。そのような外交を進めた。


◆歴史書が触れることのない歴史

『戦争を始めるのは誰か』
( 渡辺惣樹、文藝春秋 (2017/1/20)、p314 )

現代では多くの人々の心に、この時期(第二次世界大戦勃発前)にはまだ顕在化していないホロコーストのイメージが染みついている。曇った心のプリズムを通して、ヒトラーやナチスドイツを見てしまう。それがヒトラードイツはアプリオリに悪の国だとする解釈の原因である。しかし本書で書いたように、あの大戦の真の原因はベルサイユ体制の不条理であり、チェンバレンの愚策(ポーランド独立保障)であった。そしてまたポーランドのあまりに頑なな対独外交であった。

戦後の釈明史観に立つ歴史書は、できるだけこの点に触れないように歴史を語る。第二次世界大戦は、多くの犠牲を払って構築したベルサイユ体制と国際聯盟指導による集団的安全保障システムを破壊した全体主義国家(日独伊)の他国への侵略が原因であると書く。本当のことを書いてしまうと、連合国が作り上げた戦後体制の正当性が崩れる。敗戦国を一方的に断罪した二つの戦争法廷(ニュールンベルク、東京)の根拠も失われる。だから歴史修正主義に立つ歴史家は徹底的に嫌われてきた。

【 同、p293 】

FDR(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)の政治家としての最大の問題点は、ヨーロッパでもアジアでも火花が散りつつ本格的な戦争が始まってもおかしくない状況を前にして、その強力な国力(潜在的軍事力)を背景にした仲介を忌避したことである。小さな火種を大火に煽り延焼を狙う。そのような外交を進めた。対日外交でそのやり方が露骨さを増すのは1941年に入ってからであったが、対ヨーロッパ外交ではFDRの好戦的な外交は1938年から39年にかけて既に進められていた。

FDRの戦いを煽る外交をヨーロッパで担ったのは彼の意を受けたウィリアム・ブリット駐仏大使だった。1944年から47年まで海軍長官を務めたジェイムズ・フォレスタルが次のように記録しブリットの動きを批判している。

「私(フォレスタル)は(ケネディ)駐英大使に、1938年以来、ルーズベルトとネヴィル・チェンバレンの間で交わされた会話の中身を尋ねたことがある。大使は次のように分析していた。1938年当時のチェンバレンの考えは、ヨーロッパの戦いにイギリスは関与しない、ヒトラーとの戦いに干渉するようなリスクは冒さないとしていた。イギリスとドイツは、何らか(直接の)紛争がないかぎり戦うことはなかった。ブリット米駐仏大使が、1939年の夏、ポーランド問題ではドイツを絶対に阻止しなくてはならない。と主張した。これがなければヒトラーは、ロシアと戦っていたはずだった」

ブリット駐仏大使は1939年1月14日、一時帰国していたワシントンでポーランド駐米大使イェジ・ポトツキ伯爵と会談した。この会談はFDRの指示によるものだった。ブリット大使は、ドイツとの戦争という事態になれば、アメリカは英仏の側に立って能動的に干渉する準備ができていると語った。これだけで、FDRはヨーロッパの和平を維持する仲介者ではなく、それを乱す当事者になることを望んでいたことがわかる。ブリット大使が何を語ったかの詳細は、ポトツキ大使の本省への報告(1月16日付)でよくわかる。

「ブリットとの会話を通じて、ヨーロッパ危機に対するアメリカの対応については、ルーズベルトの指示で、すでにはっきりと決まっているようだ。彼はその考えをフランス外務省に伝えるとのことである。他のヨーロッパ諸国にも同様の考えを伝えるらしい。私はブリット大使とおよそ30分間話すことができた。以下がその会話の要点である」

「(私は)ルーズベルト大統領の指示によって、全体主義国家にははっきりとノーの考えを伝える。アメリカ政府は戦争準備を始める。陸海空の軍事力をしだいに強化し、そのために12億5000万ドルを計上する。英仏両国は全体主義国家とはいかなる妥協もしてはならない。それが大統領の意思である。国境を変更するいかなる交渉もしてはならない」

「アメリカは倫理的にも、孤立主義と決別し、万一戦争となった場合、英仏の側に立つ。アメリカはこの目的達成のために資金を投入し、戦争に必要な資源は確保する」

ブリット大使は赴任地のパリに戻ると(1939年2月)、ポーランド駐仏大使ユリウシュ・ウカシェヴィチ(Juliusz Lukasiewiez)に対しても、「戦いが始まればアメリカはすぐにでも英仏の側に立って参戦する」と語り、アメリカ(FDR)の決意を伝えた。

FDRはポーランドへの圧力をかけながら同時にチェンバレン政権への工作も進めた。3月15日、FDRは、英国ハリファックス外相に対して、イギリスがその対独外交方針を変更しなければ、米国世論は反英国に傾くと脅した。FDRは、ドイツから英国大使を引きあげ外交関係を断つことまで要求した。しかし、ハリファックス外相は、「英国民は外交の重要性についてはよくわかっている。アメリカ国民ほど無知ではない」と皮肉交じりに答え大使を召還する愚策はとらなかった。アメリカは1938年11月には駐独大使ヒュー・ウィルソンを召還し、対独外交を麻痺させていた。その愚かな外交にイギリスは追随することを拒否した。
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