電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

読む年表 明治~戦後 《 東京大空襲・原爆投下――渡部昇一 》

2024-09-14 | 04-歴史・文化・社会
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
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◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
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戦略爆撃というのも新思想であって、初めから軍事目的を限定せず、意図的に市民を大がかりな爆撃の対象にしたのは第二次世界大戦中のイギリスとアメリカが初めてである。日本はハワイなどを空襲したが、それは厳密に軍艦と軍事施設に限られていた。日本には市民を意図的に大量に殺すという思想がなかったのである。ヒトラーも、はじめはロンドン市街地空襲を禁じていたぐらいである。


◆東京大空襲・原爆投下

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p256 )

1945(昭和20年)
東京大空襲・原爆投下
民間人を空から組織的に虐殺することを考えついた英米の非道

結局のところ、東京裁判で突如として「南京大虐殺」の話が出てきたのは、日本も残虐行為を行ったという事実を連合国が欲していたからとしか思えない。もう一方の敗者であるドイツは、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所などでユダヤ人虐殺を行っていたから、ドイツとの“バランス”をとるためにありもしない大虐殺をつくりあげたというのが真相であろう。

しかし、本当に残虐であったのは、日本・ドイツと連合国のどちらであっただろうか。

アメリカは昭和20年、原爆を広島(8月6日)と長崎(同9日)に落とした。前者はウラニウム爆弾、後者はプルトニウム爆弾である。二度も落としたのは実験のためであったろうとも言われている。広島では11万以上が死に、長崎では7万以上の人が死んだ(後遺症のためになくなられた方はさらに多い)。もちろんアメリカは主として一般人が被害にあうことを分かってやったのである。日本が降伏寸前であることも知っていた。にもかかわらず、あえて原爆を落としたのは虐殺のための虐殺であり、人体における原爆の威力を実際に試してみたいという欲求の実現にほかならない。

「戦争を早く終結して犠牲を少なくするために原爆を用いた」とアメリカは自己正当化しているが、それなら初めから毒ガスを使ってもよかったはずだ。この問いに対してアメリカは沈黙しているが、毒ガスを用いなかったのは、日本も報復手段としての毒ガスの準備を進めていたからである。

また、アメリカ軍は新兵器と言ってもよいほど大型の戦略爆撃機B29を用いて日本の各都市を無差別爆撃した。昭和20年3月10日の東京大空襲だけでも10万の一般人が一晩で殺された。アウシュビッツでも10万人殺すには何ヵ月もかかったのではないか。

戦略爆撃というのも新思想であって、初めから軍事目的を限定せず、意図的に市民を大がかりな爆撃の対象にしたのは第二次世界大戦中のイギリスとアメリカが初めてである。日本はハワイなどを空襲したが、それは厳密に軍艦と軍事施設に限られていた。日本には市民を意図的に大量に殺すという思想がなかったのである。ヒトラーも、はじめはロンドン市街地空襲を禁じていたぐらいである。

英空軍は、1942年(昭和17年)3月、単にドイツ人の戦意を失わせるという目的だけで、無防備の歴史的文化都市リューベックを空襲して焼き払った(ヒトラーはもちろん報復した)。さらに、1945年2月13日にはアメリカ・イギリス両空軍がドレスデンを空襲し、おそらく世界でも最も素晴らしいバロック建築の残っていたこの都市を徹底的に破壊した。イギリスは第一波が2百数十機、第二派が5百数十機で市街地を爆撃し、さらにアメリカの450機のB29が、65万個といわれる焼夷弾を落とし、そのうえ戦闘機が機銃掃射を行った。これによって13万5千人の死者が出た。

イタリアでも、ベネディクト会修道会発生の地であるモンテカッシノ修道院が英空軍のために破壊しつくされ、修道士と避難民数百人が死んだ。モンテカッシノの丘にいたドイツ軍の司令官はドイツ兵に修道院の周辺に近寄ることを許さなかった。そして空襲の際は修道院の貴重な文献を守って疎開させている。ドイツ軍が修道院を陣地にするのは廃墟にさせてからのことである。どちら側の軍隊が文明的であったか。この一例をもってしても明らかであろう。

イギリスの歴史家アーノルド・トインビーは、戦後のこの地を訪れた時、自分の国の飛行機が西欧文明の母とも言うべきこの大修道院を破壊し、多くの修道士らを殺したことを知って、ショックを受けたと書き記している。

ユダヤ人大虐殺の思想がヒトラーの発明であるとすれば、一般市民大虐殺の思想はイギリスとアメリカの発明である。プロペラ4基の重爆撃機をアメリカとイギリスだけが開発したのは、都市爆撃の思想の有無と関係があったと思われる。この両国は、空から民間人を大量に、組織的に殺すことを考えつき、それを実行したのである。

健康な男の多くは出征していて、町に残っているのは主として老人・女・子供であることは分かっていたにもかかわらず、東京に対する絨毯爆撃にはじまり広島・長崎への原爆投下に至る空襲の思想は、一般市民、とくに日本人のなかの弱者をも殺しつくすことであった。
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