ぶうちゃんのリハビリ日記  自由へ続く道

持ち前の負けず魂で、医師には不可能といわれた一日も早い社会復帰を目指すリハビリ親父の日記です。

発病から今まで その10

2006-01-29 14:08:10 | 健康・病気

小太ママ、いつもコメント有り難うございます。

さて、ストレッチャーに乗ってのリハビリが始まった。看護士さん6名がかりでストレッチャーに乗せて貰い(その頃の私の体重は90キロあった。(^_^;))1Fのリハビリ室に点滴や導尿の袋やチューブをぶら下げて行った。まず最初にやったリハビリは『起立台』(自動で立ち上がるベッドの様な物)だった。暫くベットで横になったままだったのでチョット変な感じがしたが、起立性の貧血は幸いなことになかったし血圧も正常だった。それを10分、終わるとベットに横になってのストレッチ、これが痛かった。人間、こんな短時間で体の筋肉が落ちてしまい、関節が硬くなってしまうのかと驚いた。このリハビリが暫く続いた。

チューブを通しての栄養補給も始まっていたが、私は生まれつきばく瀑状胃(胃が滝のように立っている)で普通の人の半分の大きさしか胃の大きさが無いため、これが結構苦しかった。胃の許容量ではなく、栄養の必要量でお構いなしに流れ込んでくるからだ。ある日、一番下の娘が(私は三人娘の父親です。)『パパ何か食べたいものは無い?』と聞いたので、例のあいうえお板で『プリン』と答えた。私はそれまで、プリンだとかゼリーの様なプルプルしたもの大嫌いだったのだが、そのときはなぜかそう答えてしまった。すると暫くして娘が病院の売店からプリンを買って来て私に食べさせたのである。私は食べられるかどうか心配で、恐る恐るプリンを口に入れてもらった。すると何とプリンを飲み込めたのである。ところが娘と二人で喜んでいる所を『看護士は見ていた』である。(笑)看護士さんいわく『プリンが食べれるならミキサー食が食べれるかもしれない』と言う事で、ミキサー食への挑戦が始まった。

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発病から今まで その9

2006-01-25 14:54:08 | 健康・病気

ひとひとさんコメント有り難うございました。これからもよろしくお願いいたします。

さて、ナースステーションでのミーティングの内容は『梗塞の患者としては、C市立病院始まって以来の重症患者の私に対してどのように看護にあたるか』が議題だったそうで、看護士の皆さんでチームを作ってくださり、『自分たちで出来る精一杯の看護とリハビリをしよう』という結論だったと退院間際に聞いた。先生や看護士の皆さんの懸命な治療や看護のお陰で、血中酸素濃度も改善され酸素マスクをはずす事ができた。理学療法士のK先生も毎日病室に通ってくださり、リハビリを続けて下さった。そして、リハビリを始めて幾日か経ったある日、何の気なしに指を動かすと左手の人差し指がかすかに動いたのである。私は嬉しくて家族は勿論、部屋に来る看護士さん達に一生懸命動かして見せたのを覚えている。K先生も喜んでくれ、『明日から1階のリハビリ室でリハビリを始めましょう!』と言ってくださった。

次の日からストレッチャーでのリハビリ室通いが始まった。

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発病から今まで その8

2006-01-23 19:26:11 | 健康・病気

まいさんコメント有り難うございました。頑張りますので、たまに覗いて下さいね。

さて、蛙の様に膨らんだ私のお腹は医師の診断で『腸内に異常にガスが溜まっている』という事であった。私は苦しくて苦しくて仕方が無く、尾篭な話で恐縮だが医師の判断で浣腸をする事になった。暫くしてガスと倒れる前に食べた『残骸』が出てお腹は楽になった。(すみませんm(__)m)医師が来て聴診器でお腹の音を聞いていた時に『あれ、腸が動いているね。これだったら流動食で栄養が採れるかもしれない』と言ってくれたのである。早速、次の朝鼻からチューブを胃まで入れて流動食による栄養の摂取が始まった。とりあえず、胃に穴を開けて栄養を採る事は避けられた。

人間として生きていくうえで好むと好まざるにかかわらず、色々な出会いがあると私は思います。物理的であれ物質的であれ・・・でも、人生に一番影響があり、その人の人格の厚みを増すのは人との出会いだと私は強く感じています。これから、入院中から現在に至るまで私は色々な人に出会います。元気を貰ったり、奈落の底に突き落とされたり、元気を分け合ったり・・・この人たちとの出会いが今の私のリハビリに対する原動力になっているのです。この後、徐々に登場してくるので乞うご期待!

さて、その頃3Fのナースステーションで一つのミーティングが開かれていた。

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発病から今まで その7

2006-01-20 18:05:50 | 健康・病気

小太ママ、織田さんコメント有り難うございます。私のブログを読んで頂いている方がいらっしゃるという事は、私にとって非常に励みになります。これからもよろしくお願いいたします。

さて、個室に移ってからも私の容態は一進一退を繰り返し、点滴も心臓に直接?(近くの血管かも知れないが、医学的知識が無いので(笑))しているような状態だった。そのような状態の中で私にはひとつ気がかりの事があった。それは発病当時、私は数億円規模のプロジェクトを担当しており、業者との打ち合わせや見積もり交渉も済んでおり注文書発行する寸前だった。2000年当時は不況の真っ只中であり、業者にとっては注文が入るか入らないかは死活問題だったのである。私は今までの打ち合わせや見積もりの金額交渉に応えてくれた業者に報いたかった。そこで、会社に連絡を取って病院に後任者に来て貰い、例の『あいうえおボード』をつかい、アイコンタクトで申し送りを行った。時間は3時間近くかかり、さすがに数日間容態は悪化した。(笑)

さて、リハビリは個室に移った日から始まっていた。私の麻痺は『ケイ性麻痺』といってダラーンとなる麻痺ではなく、筋肉が緊張して硬直してしまう麻痺だった。私の入院したK県C市立病院にはリハビリ科があり、理学療法士のK先生が毎日病室に来てくれて、手足の曲げ伸ばしからリハビリの第一歩が始まった。

個室に移って数日経った夜、お腹が苦しくて眼が覚めた。

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発病から今まで その6

2006-01-15 14:10:27 | 日記・エッセイ・コラム

ICUにいる時に思った事が二つある。ひとつは、この病気が家内や娘達ではなく自分でよかった。こんなに辛い思いを家族にさせたくなかった。そしてもうひとつは、『絶対にこの病気を克服するんだ』という事だった。正直に言って、この先どうなってしまうのか等々心の中は不安でいっぱいで張り裂けそうだったが、家族のためにも勿論、自分のためにもこのままで終わりたくないという気持ちがつよかった。最近、ネットサーフィンをしていたら、こんな事が出ていた。『プラス思考は脳にも影響を与える。脳からエンドルフィンというホルモンが活発に分泌され、免疫力が高まる。』とカナダ・モントリオール大学前学長のシマー博士が言っている。『このエンドルフィンという『脳内モルヒネ』の効果、プラス思考によって心の中に『完治の結果』をイメージし、確信する事で脳が身体に命令を下し、病気と戦わせる。』とも言っている。また『ヘッド・ファースト 希望の生命学 春秋社』という本の中でアメリカのカズンズ博士が自らの膠原病や心筋梗塞を克服した経験から『机上の理論ではなく、希望、目的意識、固い決意などは単に脳の中だけの話にとどまらない。それらは電気化学的刺激となって免疫系の働きに大きな役割を演じ、ひいては人体全体の有機的活動に大きくかかわってくるのである。絶対に治すという信念が刺激となって、脳が身体を治癒するための処方箋を書く』という記事が出ていた。後に転院するY市立医大のM医師に言われた『病気を治すのは八割は患者の力だよ。私達は残りの二割で患者さんに協力するんです。』まさにこの事なんだなぁ!と感じて、又やる気が湧いてきた。

コメント (4)
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