ぶうちゃんのリハビリ日記  自由へ続く道

持ち前の負けず魂で、医師には不可能といわれた一日も早い社会復帰を目指すリハビリ親父の日記です。

発病から今まで その16

2006-02-26 13:47:34 | 健康・病気

織田さんいつもコメント有り難うございます。ここの所リハビリを始め、色々な事が立て込んで更新できませんでした。<(_ _)>

前に『私は色々な人に守られ、励まされていて、それが私のリハビリの原動力になっています。』と書きましたが、何よりも励まされ、頑張ろうと思ったのは『家族の笑顔』でした。自分で言うのもなんですが、今までバリバリ仕事をしていた夫や父親がろくに話す事もできず、自分で食べる事もできずに食べさせてもらっている、それもボロボロこぼしながら・・・そして紙おむつまでして。今、思うととどれだけ不安だったか。それでも私の病室に来るときはいつも笑顔を絶やさなかった家族。後で聞いた話だが、家内は私が倒れて三日後に肉体的疲労と心労で倒れ、診療室で点滴をうって貰いながら私の看病を続けてくれてたそうで、家内や娘達のそういう姿を見て看護士さん達がミィーティングを開いてくれるきっかけになったそうである。

ある日、理学療法士のK先生が変った車椅子を持ってきてくれた。背中の部分がリクライニングするのである。前にも書いたが、私の麻痺はケイ性麻痺で身体がちょっとした刺激で筋肉や筋が突っ張ってしまうので車椅子には座れず、リハビリ室にはストレッチャーで通っていたが、K先生が私が乗れそうな車椅子を見つけてきてくれたのである。K先生の手を借りて車椅子に乗り移り、一ヶ月ぶりにリハビリ以外で病室を出る事ができた。それも天井ではなく前を向いて・・・車椅子でナースステーションの前を通ったときの看護士さん達の歓声と拍手を今も鮮明に覚えている。

さて、次の日からこの車椅子でのリハビリ室通いが始まったのだが、これがまた大変だった。


発病から今まで その15

2006-02-14 18:34:52 | 健康・病気

小太ママ、いつもコメントを有り難うございます。

さて、ここまで入院してから3週間位だったと思います。少しずつ声は小さいものの段々と先生や看護士さんは勿論、家族達と会話が出来るようになってきたが、一言喋る度に息をしないと苦しかったし、思った事がなかなか言葉にならなかった。それでも一生懸命に聞き取ろうとしてくれた皆さんの優しさが嬉しかったし『頑張ってちゃんと話せるようになろう』とする原動力になった。しかし『楽あれば苦あり』である。今まで『気管カニュレ』からチューブで吸痰していたのが鼻や口から吸痰する様になった為、ただでさえ苦しい吸痰が余計苦しくなってしまった。(@_@;)しかし、あいうえおボードを使わなくて良いということの嬉しさの方が勝っていた。『普通の事が普通に出来る』素晴しさと言うか物凄さ『病気の数は千万と有るけれど、健康な身体はひとつしかない』と言う事をベットの上の動かない身体で実感していたのを覚えている。身体的なリハビリは、起立台とストレッチを中心に進んでいた。


発病から今まで その14

2006-02-12 15:09:58 | 健康・病気

つかママ、コメントありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

さて、キザミ食もたまに咳き込みながら順調に進んでいたある日、脳外科の先生が喉を切開して挿入しているプラスチック製のチューブ(カニュウレイ?未だにあやふや(^_^;))の先端に付けるバルブを持ってきた。先生が言うには『声帯の代わり』をして音を出す物だそうで、C市立病院では始めて使うものらしい。先生が取扱説明書を読みながら私のチューブに取り付けてくれたのだが、何度取り付けても息が出来なくなりバルブが飛んでしまうのだった。そこで一度チューブを抜いてバルブを取り付けてみることになったのだが、色々やっているうちに喉に開けた穴が小さくなってきてバルブをつけたチューブが入らなくなってしまった。そこで仕方なく女性用の細いチューブを挿入した。しかし、相変わらずバルブをつけると息が苦しくなり、バルブが飛んでしまう事の方が多かった。するとどうだろう咳をした瞬間、女性用の細いチューブなので気管とチューブのわずかな隙間から息が漏れて、声帯を震わせて音が出たのであった!先生が『バルブを使わなくても声が出る。大丈夫だよ!一緒にチューブも抜いてしまおう』と言ってくれた。話せないと言われていた私に話す希望が見えてきたのである。しかし、声に対する戦い始まったばかり、声帯を閉じる力が弱く最初の頃書いたとおり、息こらえが出来ず吸った息がそのまま鼻から出てしまうので、家族や看護士さんとの話はまだ、あいうえおボードと口を読んでもらっていた。


発病から今まで その13

2006-02-07 14:00:50 | 健康・病気

私は2月2日に誕生日を迎えました。今日、訪問歯科の先生と歯科助手の方から『千羽鶴』を頂きました。先生ほか歯科助手の皆さんが『リハビリに頑張って一日も早く良くなるように』との祈りを込めて折ってくれたそうです。私のリハビリに対する頑張りは、前にも書いた様にこういう方々の『真心』が原動力になっています。

さて、キザミ食への挑戦が始まった。最初は三分粥、味噌汁はとろみ剤を入れて・・・おかずは魚の骨をとってほぐしたもの。それでも自分の口から、しかも自分で噛んで食べる食事のうまかった事!勿論、手は動かず口も利けないため、眼で食べたいものを合図して食べさせてもらっていたのだが、数日続けるうちに何というかうまく表現できないが、身体の奥から『生きよう、頑張って治そう』という力が湧いてきた。まさに『食は命なり!』である。


発病から今まで その12

2006-02-05 13:30:55 | 健康・病気

今回は、その2に対する悠さんの質問にまず答えたいと思います。臨死体験や幽体離脱の経験は幸か不幸かありませんが(笑)助かる人と助からない人の差に仁ついて、興味ある話を見つけましたので紹介します。福島県立医科大学の助教授で、循環器・血液内科の研究と教育に携わりながら、大学病院で診療に当たってる方の話です。この方は、アメリカの有名なスクリップス研究所で3年間最先端の研究生活を送って、帰国されてから自ら、『冠攣縮性狭心症』を患い、そのときの経験から患者さんと『同苦する医師』として再出発した経歴を持っています。その方が言うには『多くの患者さんに接した経験から、治療に効果が出て病気を克服していける人には、あるひとつの共通した傾向がある。それは、感謝の思いを持っていることです。医療スタッフや家族など自分にかかわる人たちに感謝出来る人は、不思議な事に病気を乗り越えて行く人が多い。感謝のある人は、本人が意識している、していないにかかわらず、何のために生きているのかという自分の原点を見つめながら生きているように思う。生きているということ自体への感謝が、自分にかかわる人たちへの感謝となり、それが皆のために早く元気になろうという生の意欲を強くする。病気に負けない!という勇気を湧きあがらせ、自分自身を鼓舞していく。だからこそ、患者さんたちに自らを鼓舞する勇気を与えるのが、医師としての大事な使命と思っている。また感謝の人には笑顔がある。その笑顔が、私たち医療スタッフの力を100%、いやそれ以上に引き出します。医療というのは、患者さんと医療スタッフとの信頼に基づくチームプレーである。だからこそ、感謝・勇気・笑顔といった人間的要素が極めて重要な役割を果たす。』と言っています。(私は今、とても素晴しい医師や理学療法士の先生やかかりつけの先生、看護士やトレーナーの方、そして訪問看護の看護士の方に恵まれています。(^_^)v)そしてC市立病院のある看護士さんの話『今まで出来ていたんだから必ず、また出来るようになるから頑張れ!』『梅干を思い出してみてごらん。ほら、梅干って聞いただけで、唾液が出てきたでしょ。心に思っただけで、身体に変化が現れるんです。心と身体は一体なんです。心からよーし行くぞ!って強く強く決めたら、身体もそうゆう風に変ってゆく』と話してもらった事があります。私も、都合9ヶ月を超える入院生活を通して、色々な患者さんに出会いました。不幸にして意識障害のある方、意識のない方・・・でも私は思うんです。そういう方もきっと心の奥、無意識の中でも良くなりたい、治りたいときっと思い続けていると。だから、意思を表現できない人のためにも家族や医師や看護士の方は諦めないで下さいと。(チョット生意気な事を書いてしまいました。)

さて『看護士は見ていた』シリーズ。今回ばかりは、看護主任に怒られた。『気持ちは判るけれど、何かあったらどうするの!』もっともである。この主任、私と同じ年齢でやたら元気がいい、怒られた時は気が遠くなりそうだった。(笑)それから看護主任の監視の下、リンゴの薄切りに挑戦した。数日たって看護主任が脳外科の先生とリハビリ科の先生と理学療法士の先生を連れてきて、私にリンゴを食べて見せるように行った。その結果、食事をキザミ食に変えてみようということだった。最初は良くて『植物人間』と言われた私が、キザミ食ではあるが胃に穴を開けることなく、普通に近い食事が採れる様になったのである。