ばあさまの独り言

ばあさまから見た世の中のこと・日常生活のこと・短歌など

顔が語りかけて来るもの

2014年10月09日 | 随筆・短歌
 図書館から、また日本の名随筆集を借りて来ました。今回は、「顔」について、市川崑が編集したものです。今から28年前に第一刷が出されています。過ぎ去った時間がもたらしたものや価値観の変化を考えたり、その中の普遍的なものに思いをめぐらせつつ読みました。
 表紙を開くと、初めに土門拳の中宮寺の弥勒菩薩の、お顔の部分を写した写真が入っていました。これは私が一番好きな仏像です。「顔」と言った時に直ぐに編集者の脳裏に浮かんだのが、この微かに微笑んでおいでの菩薩像だったのでしょうか。私は嬉しさのあまり、しばし呆然と見つめていました。
 私は、他人の顔について興味が薄い方で、出会っても直ぐに忘れてしまいます。歳を取って比較的狭い社会に住むようになって、これでは二度目にあった時に気づかず、失礼にあたる事があると思うようになりました。覚えが悪いのは昔からですがそんな自分を嘆いています。
 市川崑は、「顔は人間の表玄関である」と書いています。そして映画監督として、人間の顔を写しただけで、「その人物の感情や心理や、ある時は環境まで描く」とありました。そして「重要なのは眼であり、アップになった顔を見るとき、だれもが無意識に眼をみている」といいます。さすがに名監督だけあって、鋭い観察眼です。
 眼は口ほどにものを言い、と云う言葉がありますが、その通りであることは、ある年齢になれば誰でも気付くことです。
 私は、若い頃の自分の顔に比べて、老いた自分の顔を鏡で見る時、その輪郭も眼も次第に実母に似てきたと思うようになって、嬉しくもあり、またDNAの不思議さを思います。丸くて大きかった眼と長かったまつげは、眼の周りの皮膚がゆるみ、まつげは薄くなり、眼はだんだん細くなった感じです。年々皺が増えて来る顔を鏡で見る時、「40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て」と言われますから、この顔がこの眼が、これ迄過ごして来た私の生き方を映し出している訳で、来し方の様々を感慨深く省みることになります。
 家族に度々完全主義だと言われます。それが自らを苦しめることになっているので、もっとゆったりと生きるようにいわれます。どうもきちっとしていないと気が済まない、ほんの僅かな失敗でも気にして自分が許せない、確かにそんな性格だと感じています。完全を求める性格というのは、ある意味では幼稚であり、心にゆとりを持てない性格だと言えます。
 今日は息子が何気ない会話の中で、「歳をとることは、そう悪い事ばかりではない筈だ」と言いました。「そうだ」と思い、歳を取るにつれて、良い事を心の中で探し続けて行きたいと思いました。
 随筆の中で、石井鶴三(彫刻家・画家)は「顔は人を偽ることが出来ません。話しを言葉だけで聞く人は、真相を誤る事がありますが、顔から聞く時は、先ず誤ることがありません」といっています。三島由紀夫は「美容整形この神を怖れぬもの」という題で、当時有名だっ東京の美容整形病院について書いており、この病院で働いている人が皆美しいこと、院長も「私も直しました」と言います。三島の一番素朴な疑問は「親から貰った生まれながらの顔をそんなにいじくり回して」という古くさい疑問だと書いています。 しかし、さすがに三島は、「美容整形」の思想が、未来社会の一つの重要なモラルになりそうな予感さえもっている。精神のことなんか置き去りにして、外面だけ美しくしようという考えは、人間の抱く一等浅はかな考えのようだが、この「浅さ」が曲者なのだ。あらゆる「深い」思想が死に絶えたあとに、もっとも「浅い」思想に「深み」が宿るかもしれないのである。といっているのです。これは三島独特の鋭さのように思えます。しかし、一方では、この美容院の美容整形のいかがわしさを指摘していて、モラルの体系も深いところでガタガタと崩れていくような気がする、といっています。
 私は、現在のグループ歌手の二重まぶた、パッチリ眼をつくるアイシャドウ、つけまつ毛などを思い出します。今や、男性までも整形したり、化粧するのがさして珍しくない時代になりました。
 テレビを通して、女優や歌手の化粧から、私もあのように、と思う人が増えたといえます。高齢者の中にも、美容整形が忍び込んで来ました。
 福原鱗太郎(英文学者・随筆家)は、既に「日本の女の人は、顔の流行型に従って、みんな同じようになってくる傾向があり、まことに味気ない。イギリスでは、ただ美しいだけではなく、性格を持った顔というのがよいのだそうだ」と述べています。
 私も年老いた人の、有りのままの皺の一つ一つに、自分の歴史が刻み込まれていると思うと、そこに手を加えることは、自分の生きて来た歴史を改ざんするように思えます。私の敬愛する人達も、矢張りそうだと、テレビや写真を見てそう思っています。 
「自分の顔に責任を持てる人」とは、表玄関である顔と、奥の間の生活とが一致したことを言うのではないか、と市川崑は最後に書いています。共感を覚えると同時に、私もそうありたいと思うのです。
 顔は、その表情を変えるとき、眼が語り、顔が語り、心の中からにじみ出てくるものが美しい時、その人の本当の良さに気づき、その考えに感動したり、真価が解るというものではないでしょうか。それは皺も語りかけるものの一つであり、老いた人間の美しさの一つである気がします。
 スポーツ選手はみな美しいと感じるのは、私一人ではないでしょう。一途に頑張るひたむきさが、その顔にはつらつとした輝きを持たせ、心の中からの美しさが、人々を引きつけるのでしょう。
 伊丹万作(映画監督・伊丹十三の父)は、「生まれたままの顔というものはどんなに醜くくても醜いなりの調和がある。医師の手にかかった顔というものは、無残や、もうこの世のものではない。もしこの世の中に美容術というものがあるとすれば、それは精神的教養以外にはないであろう。顔面に宿る教養の美くらい不可思議なものはない。」と言い、「人間が死ぬる前、与えられた寿命が終わりに近づいたときは、その人間の分相応に完全な相貌に到達するであろう。・・・要するにその人の顔に与えられた材料をもってしては、これ以上立派な顔を造れないという限界のことを言う」と書いています。
 もしそうだとしたら、私ももっともっと教養を深めていく必要があります。しかし、美しくなるために教養を積むわけではなく、日々の生活の質を高めて、その積み重ねを大切にして行きたいと考えています。年齢に相応しく無理をせずにです。
 赤ちゃんの澄みきった清純な瞳を通して、その奥の間に仏を見る思いがします。盤珪禅師の説く「赤児の仏心」を思うと一人一人の子供が尊い存在、そして大切な存在に思えます。私も歳老いて、その心に再び近づけるように努力しなければ、と思うのです。
  
言ひさしの言葉に心透けたるか若葉映せし君の深き眼(某誌に掲載)