映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

くちづけ

2013年06月04日 | 邦画(13年)
 『くちづけ』を新宿バルト9で見ました。

(1)こういう「感動」を売りにしている映画は、これまでの経験からどうかなとの躊躇いはありましたが、監督が堤幸彦氏なのでまあいいかと映画館に行ってみました(注1)。

 ですが、やっぱりこの映画は受け付けませんでした。

 映画の舞台は、埼玉県にあるグループホーム「ひまわり荘」。



 医師の国村先生(平田満)やその奥さんの真理子麻生祐未)、娘・はるか橋本愛)などによって運営されていて、1週間に1度見舞いに来る妹・智子田畑智子)と会うのを生きがいにしている「うーやん」(宅間孝之)などがいます。



 そこに、知的障害者である娘・マコ貫地谷しほり)を抱えた漫画家・「愛情いっぽん」(竹中直人)がやってきて、スタッフとして雇われることになります。
 智子に結婚話があったり、「うーやん」とマコが結婚すると言い出したりと色々の騒ぎが持ち上がります。



 さあ、ひまわり荘はいったいどうなってしまうのでしょうか、……?

 知的障害者を抱える親の問題とか、知的障害者の犯罪などといった厳しい現実の姿を、ユーモアのあるストーリーの中で描き出していると言えるのでしょう。
 俳優陣も、主演の貫地谷しほりをはじめとして皆なかなか頑張っていると思います。

 ですがこの映画は、まるで“いわゆる新劇”の舞台そのものなのです。
 それもそのはず、本作は、「うーやん」を演じる宅間孝之が、劇団で演じるべく書き上げた戯曲に基づいているのですから。
 さらに、本作の脚本も彼自身が手がけている上に、堤監督も「できるだけ舞台に近く撮ろうと考えた」とのこと(公式サイトの「Production Note」)(注2)。
 これでは新劇っぽくなるのは当然のことながら、だったら、なぜわざわざ映画版を製作するのかわけがわかりません。劇は劇として劇団に任せておけばいいのではないでしょうか。
 わざわざ映画版を制作するというのであれば、演劇ではできないような映画ならではの新たな視点から描いて行く必要があるのではないかと思います。

 なにしろ、ほとんどのシーンが「ひまわり荘」の談話室だけなのです(注3)。
 そして出演者が、最初から、まるで劇場の舞台にいるかのように、大仰な身振りをし、かつまた物凄い大声で喋りまくるわけで、見ている方はどんどんしらけてしまいます(注4)。
 あるいは、知的障害者の姿をリアルに描き過ぎると、重いテーマを扱う本作が一層重くなってしまうということから、演劇仕立てにしたのかもしれません。でも、映画を作るというのであれば、別のやり方で描き出す必要があるのではないでしょうか(注5)?

(2)以下はかなりのネタバレになってしまうので気をつけていただきたいのですが、ラストの方で、「いっぽん」が、自分の死期を悟ってマコに対してある行為に及んでしまう点にも問題があるのではと思います。
 ここは議論が大いに分かれることでしょう。ですが、クマネズミには納得がいきませんでした。
 というのも、「いっぽん」が、マコを一人の独立した人格として扱わずに、まるで自分の持ち物として見てしまって、自分の判断だけで行為に及んでしまったかのように思われるからです(注6)。
 確かに、自分が死んだあとに一人で残されたマコに待っているのは、犯罪者になるか、あるいはホームレスになるかの道だけなのかもしれません。
 「いっぽん」にしてみれば、マコがそんな境遇にはまり込むことが耐えられなかったのでしょう(注7)。
 でも、そんなことなら、「いっぽん」は、なぜここまでマコを一生懸命育ててきたのでしょうか(注8)?
 それに、この場合には、予め医者に死期を告げられていろいろ考える時間が与えられているからいいものの、例えば、「いっぽん」が交通事故などによって突然の死を遂げた場合にはどうなるのでしょう?
 否が応でも、マコは一人で生きていかなくてはいけなくなります。そしてそれは、マコの人生であって、「いっぽん」が先取り的に摘み取ってはならないのではないでしょうか?

(3)渡まち子氏は、「舞台をそのまま見ているような演出に、正直、疲れてしまうのだが、それでも、実際に起こった事件をヒントにしたというこの物語は、悲しくて温かい涙を誘う感動を届けてくれた」として60点をつけています。



(注1)と言って、堤氏の監督作品として最近見たのは『BECK』とか『劇場版TRICK』くらいにすぎませんが。

(注2)同じ「Production Note」の中では、「堤監督は随所にささやかなリアリティーを足している。例えば、袴田がフレームアウトする時、「枝豆といちじく、むしってこよう」と言わせたり」していると述べられているところ、クマネズミには、こんな場面こそ“いわゆる新劇”ではないかと思ってしまいました。このシーンで感じる新劇臭さは、ひまわり荘のスタッフの袴田を演じる岡本麗が演劇人であることや、堤監督自身も堤幸彦劇団を率いて舞台演出をしてきていることにもよるのではないでしょうか?

(注3)本作では、庭とか2階の「うーやん」の部屋の中など、談話室以外の場面も描かれていますが。

(注4)大雑把に言えば、雨の場面を描く場合、舞台であれば仕草などによって如何にも雨が振っているような雰囲気を出さないと観客に伝わらないと考えられる一方、映画ならば実際に雨を振らせてしまいますから、そんなに誇張した演技は必要ないという違いでしょうか。
 映画の中で、如何にも雨が振っています風の大げさな演技をされると、見ている観客は、その押しつけがましさにしらけてしまいます。

(注5)以前見た『今度は愛妻家』も、戯曲を映画化したもので、かなり演劇っぽい作品でしたが、主な出演者が皆映画人だったこともあり(豊川悦司や薬師丸ひろ子)、新劇臭さを感じませんでした。
 本作の貫地谷しほりや竹中直人などは映画人でしょうが、宅間孝行らの演劇人に引っ張られたのでしょうか、大層新劇っぽく振る舞っています(若い橋本愛までも、最初からテンション高く大声でしゃべっています)。

(注6)ただマコは、「いっぽん」が死ぬことが分かったのか、「いっぽんが死ぬならマコも死ぬ」「生きていけないもん、だからマコも死ぬ」などとまで言います。
 ですが、「ずっと7歳の子どものまま止ってしまっている」「マコの心」(公式サイトの「Story」)は、人間の死を十分に理解できるのでしょうか(本作の冒頭の場面からは、「うーやん」でさえ分かっていないように思われます)?

(注7)「いっぽん」は、国村先生に対し、「万が一にも、マコには、浮浪者にも、犯罪者にもなってもらいたくない」と言います。

(注8)あるいは、「いっぽん」は、「うーやん」がマコと結婚してくれれば自分に変わってマコの面倒を見てくれるだろうと考えたところ、「うーやん」が妹・智子に引き取られてひまわり荘を出て行ってしまったためにそれが適わなくなって、あのような行為に及んだのかもしれません。
 でも、「うーやん」だって事情は「いっぽん」と事情は変わらないわけで、いつまでもマコの面倒を見てくれるとも限らないのではないでしょうか?
 それに、面倒見のバトンタッチをする相手は「うーやん」以外にも現れるでしょうから、前途をそんなに悲観視することもないのではと思われます。



★★☆☆☆




象のロケット:くちづけ