映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

俺俺

2013年06月14日 | 邦画(13年)
 『俺俺』をヒューマントラストシネマ渋谷で見ました。

(1)久しぶりの三木聡監督の作品ということで(注1)、映画館に足を運びました。
 ただ、三木監督独特の「ゆる系」「脱力系」の作品かなという予想は見事に裏切られ、かなりしっかりとしたストーリーが展開されるのは意外でした。

 主人公は、郊外にある大規模な団地で一人暮らしをする青年・永野均亀梨和也)。
 昼間は、電気店のカメラ売り場で働いています。



 ある日ハンバーグ店で食事をとったところ、隣の客の携帯電話が彼のお盆の中にずれ落ちてきます。なんと彼は、黙ってそれを自分のものにしてしまいますが、店の外でその電話が鳴ったので出ると、母親だと言うのです。
 自分がその母親の息子だと間違われているのに気付き、彼は、それをいいことに出鱈目を言って、自分の口座に100万円振り込んでもらいます(“オレオレ詐欺”まがい!)。
 そのお金をATMで引き出し、翌日家に戻ると、見知らぬ女が家の中にいて、「遅かったじゃない」と言いながら出迎えてくれるではありませんか!
 さらに、彼女(高橋恵子)は、「自分はあんたの母親で、あんたは大樹」と言い張ったあげく、家に戻ります(注2)。
 混乱してしまった彼は、その後をつけて、彼女が「檜山」の表札がついた家に入るのを見届けてから、今度は自分の実家に行きます。
 ですが、実家で彼を出迎えたのは驚いたことに永野均の「俺」、「昨日も一昨日も同じような奴がやってきた」と言うではありませんか!
 彼はその家から追い出されてしまうため、仕方なく自分を大樹としますが、そんなところにもう一人の「俺」である大学生の本山ナオ(亀梨和也)が出現します。
 永野均の「俺」と大樹の「俺」が、ナオの部屋に集まって意気投合していくうちに(その部屋を「俺山」と名づけます:注3)、外ではどんどん「俺」が増殖しているようです。
 さてどうなることでしょう、……?

 本作では、こうした「俺」の増殖の話だけでなく、他方で増殖した「俺」が逆に次第に消されていく「削除」の話もなされ、そればかりか永野均が勤める電気店にお客としてやってきた女性・サヤカ内田有紀)とか、彼の上司・タジマ加瀬亮)とかを巡る話があり(注4)、実に賑々しくストーリーが展開していき(注5)、随分と楽しめる作品となっています。

(2)本作の前半では、永野均と同じ「顔」をした人が次々と増殖し、とどのつまりは33人もの亀梨和也が出現します(といっても、映画を見ながら数えたわけではありません。劇場用パンフレットにそう書いてあるにすぎないのですが!)。
 また、本作の後半は、一見したところ、DVDで見た『リアル鬼ごっこ』の「顔」版ではないかという気がしました。そこでは、佐藤の苗字を持つ者がオニに次々に殺されていくところ、本作では、永野均似のソックリさんが次々に「削除」されていくのですから。

 でも、苗字が同じことと「顔」が同じこととではまるで違っているように思われます。
 そして、いったい本作における「顔」とは何でしょう?
 というのも、最近出た哲学者・鷲田清一氏の『〈ひと〉の現象学』(筑摩書房、2013.5)の「1. 顔 存在の先触れ」には、次のように述べられていることもあるからですが(注6)。
・「だれかの顔を見つめること、まじまじと見るということは、じっさいにだれかの顔を前にしたときにはほとんど不可能であるといってよい」(P.16)。
・「だれかの顔へのまなざしは、そのまなざしをまなざす眼にふれたときはたちまち凝固してしまい、それ以上の、見るというかたちでの探索は不可能になるということである」(P.17)。
・「顔は見られるというかたちで現れるのではないような存在ではないのか」(P.17)。
・「わたしの顔というものはそもそもわたしが見るというかたちでふれることができないものである」(P.20)。

 まあ、いずれもうなずける点ばかりです。
 ただ、ここからすると、本作における永野均は、しっかりと見ることがほとんど不可能な他人の「顔」を見て、実際にはよく知らない自分の「顔」を見出していますが、そんなことが果たしてありうるのか、ということになるのかもしれません。

 それでも、本作において亀梨和也は、至る所に自分の「顔」を見つけ出しています。
 としたら、飛躍してしまい恐縮ですが、彼は、どんな「顔」を見てもそこに自分の「顔」を見つけ出してしまうのではないか、それはまるで他人の「顔」を鏡として扱っているのと同じことではないのか、と思えてきます。
 他方で彼は、28歳になっても母親から自立できずにいますし、電気店で働いているといっても、上司のタジマとの関係は酷く悪いものです(注7)。
 こんなところから、もっと飛躍することになりますが、永野均はいわば幼児的な段階に留まったままでいて、ある意味でラカンの「鏡像段階」にあるのではとも思われるところです(注8)。
 そして、「削除」の進行は、その段階を脱して「自我」を確立していくことに対応していると見てみてはどうでしょう(注9)。

 全体として本作は、原作本(星野智幸新潮文庫)もそうではないかと思うのですが、永野均の大人へ脱皮する様子を描いているとみてはどうでしょうか(注10)。

(3)渡まち子氏は、「「時効警察」の三木聡監督らしい、オフビートな笑いと細部の小コタの遊びが満載で、標識や張り紙などをチェックしながら見るとより楽しめる」として50点をつけています。



(注1)三木聡監督の作品としては、『転々』や『インスタント沼』などを見ました。

(注2)高橋恵子は、最近では『カミハテ商店』が印象的です。

(注3)この「俺山」は、三人にとって実に居心地のいい場所になります。「三人とも嗜好が同じ。だって、「俺」なのだから!」、「もう他人とは居られない。だって、面倒くさいから!」という具合です。
でも、果たしてそうでしょうか?
 ここで飛躍すると、ここには埴谷雄高の「自同律の不快」は存在しないのでしょうか?
 すなわち、“俺が俺であって俺以外の者ではないことの不快さ”というものがないのでしょうか?周りの皆が同じ「俺」だとしたらこんなに耐えがたいことはないのではないでしょうか?
 (例えば、『死霊Ⅰ』の「一癲狂院にて」の中で、岸博士が「自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はないのです」と言うと、主人公の三輪与志は「それは、不快です」と答えたりします)

(注4)加瀬亮は、『アウトレイジビヨンド』における度肝を抜く演技が素晴らしいと思いました。また、内田有紀は『踊る大捜査線 The Final―新たなる希望』で見ました。

 

(注5)さらには、大樹の姉夫婦が殺されて、その捜査に当たるのが岩松了松重豊が扮する刑事だというお話などもあります。
 なお、岩松了は、『中学性円山』でも刑事・大谷に扮していますし、また松重豊は『アウトレイジ ビヨンド』などで見ています。

(注6)同書については、「よみうり書評」で宇野重規氏が、また内田樹氏も自分のブログに書評を掲載しています。

(注7)タジマは、何かというと、永野均のことを「契約社員から正社員に引き上げなければよかった」などと愚痴ります。もっとも問題は、タジマの性格が特異なところからきているようでもありますが(ふせえりが扮する「南さん」は、むしろ永野均を応援しているようです)。

(注8)Wikipediaには、「自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階に安住することは、幼児にとって快いことではある。この段階が鏡像段階に対応する」と述べられています。

(注9)上記注のWikipediaでは、さらに、「人間は、いつまでも鏡像段階に留まることは許されず、やがて成長にしたがって自己同一性や主体性をもち、それを自ら認識しなければならない」と述べられています。

(注10)原作は、サヤカとか刑事などは出てこないなど、映画のストーリーとはかなり違っています(特に後半部分では、「俺」が「俺」によって食べられたりしてしまうのです)。
 なお、朝日新聞掲載の書評があります。
 また、以上の思いつきに過ぎない感想は、映画の最初に登場する永野均とラストの永野均とが同一人物であるという前提に立っていますが、実際には本作においてそんなことは保証の限りでありません。



★★★☆☆



象のロケット:俺俺