映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

さよならドビュッシー

2013年02月07日 | 邦画(13年)
 『さよならドビュッシー』を渋谷ヒューマントラストシネマで見ました。

(1)昨年はドビュッシー生誕150年ということで、ブリジストン美術館に『ドビュッシー 音楽と美術印象派と象徴派のあいだで』展を見に行ったり、同展についてのエントリーの末尾にも書きましたように、この映画の公開を待ち望んでもいました。

 物語の主人公は16歳の橋本愛)。同い年のいとこのルシア相楽樹)と同じ家に暮らしています。
 というのも、10年前にルシアの両親は、外国における医療活動に従事すべく、彼女を遥の親にあずけて出国したきり行方不明になってしまったからです。
 それでも今や2人は音楽学校に通い、遥はピアニストを目指しています。
 としたところ、ある晩、祖父(ミッキー・カーチス)が居住する離れが火事となり、祖父のみならず、離れで暮らしていた2人のうちルシアが火事に巻き込まれて死に、遥も大火傷を負ってしまいます。
 遥は四肢に障害は残るものの、九死に一生を得て退院できるまでになり、再びピアノに向かいます。
 その背景には、莫大な資産を残して死んだ祖父の遺言がありました。
 それによれば、遥には12億円の資産が遺されますが、すべて彼女がピアニストになるために使われるというものでした。
 遥は、退院するとリハビリに一生懸命に励み、ピアノを岬洋介清塚信也)に習って目標を達成しようとします。



 ですが、シャンデリアが彼女の上に天井から落ちてきたりするなど、彼女を亡き者にしようとする不穏な動きが見られます。
 そればかりか、母親が、教会へ行く階段から落ちて意識不明の重体にもなります。
 こうなると、祖父やルシアが死んだあの火事についても疑惑がもたれるようになってきます。
 さあ、一連の事件はどのように解決するのでしょうか?
 そして、遥のピアニストになるという夢は実現するのでしょうか?

 中山七里氏による原作が第8回「このミステリーがすごい!」大賞の受賞作ということで、本作もミステリー物と思っていたところ、謎解きの要素は大したことがなく、専ら主演の橋本愛をプレイアップすることが主たる眼目の作品のように思え、幾分肩透かしを食らった感じながら、ドビュッシーのピアノ曲ばかりかリストの難曲まで聞くことができ、全体としてはまずまずといったところです。

 主演の橋本愛は、昨年の『桐島、部活やめるってよ』で注目されたところ、まだ17歳ながら本作でも随分とその存在感を発揮しています(注1)。



 注目されるのは、遥のピアノの先生・岬洋介役の清塚信也、彼は本物のピアニストで、本作によって俳優デビューを果たしたとのことです(作中で、リストの「超絶技巧練習曲第4番マゼッパ」を鮮やかに演奏します)。




(2)〔以下では、ミステリー物ではタブーのネタバレ頻出になってしまいますので、ご注意願います〕
 本作は、原作と違っている点がいくつかあります。
 例えば、遥がコンクールで演奏する曲目について、原作の場合、本選の課題曲がドビュッシーの『月の光』であり、自由選択が『アラベスク第1番』とされているところ、本作ではそれが逆になっています(注2)。
 マアそんなことはどちらでもかまわないところ、犯人とされる人物が原作と本作とで違ってしまっており、また原作では、岬洋介の事件解決に果たす役割が大きいのに対し、本作ではその要素はずっと後退しています(注3)。
 それに、その点にもかかわりますが、原作では、母親は階段の事故でそのまま死んでしまうところ、本作の場合は、意識不明で発見された母親は、ラストではどうやら意識を取り戻すようなのです(注4)。
 さらに、岬洋介に事件への関与を指摘された際の遥の対応は、両者でかなり異なっています(注5)。

 また、誰しも思うところでしょうが、本作・原作ともに、遥の大火傷に対しては、かなりの違和感を感じてしまいます(注6)。

 でも、そんなあれこれを論ってもあまり意味がないようにも思われます。
 本作は、謎解きミステリーというよりも、むしろ、大きな会場でピアノを演奏する橋本愛をビジュアル的にプレイアップするための映画とみなすべきであって、原作に加えられた様々の改変も、橋本愛のイメージアップにつながるように配慮された結果だと考えられ、そうであれば映像自体をまず楽しんだ方が得策なのではないかと思われます。

(3)渡まち子氏は、「ミステリー映画としては弱いのだが、全編に美しい音が流れる音楽映画としてみればなかなか楽しめる」として50点をつけています。



(注1)なんだか、『のだめカンタービレ』でピアノを弾く上野樹里―『スウィングガールズ』の時は橋本愛と同年齢くらいだったでしょう―を思い出します!

(注2)本作の場合、ある晩、自分の名前の由来〔ラテン語の「光」(lux)〕から、ルシアは遥に対して、ピアニストになったら『月の光』を演奏会で演奏してくれと強く要望します(本作のルシアは、両親がいないという自分の境遇から、ピアニストにはならずに看護学校に行くつもりだと言います)。
 この点について、岬洋介役の清塚信也は、「原作にはなかったけれど、遥があの曲にこだわる理由を編み出したことで、必然性が生まれ、またピアノを知る人にも納得してもらえたと思います」と述べているところからすると、ルシアの話は清塚信也のアイデアのようです。
 ルシアの話だけからすれば、ベートヴェンの『月光ソナタ』でも構わないようにも思えますが、余りまぜっかえさないようにしましょう。

(注3)本作では、一連の事件についての主犯(祖父たちが死んだ離れの火事)が加納弁護士で、介護士のみち子(熊谷真実)が共犯(シャンデリアの落下など)とされています。そして、それを調べ上げたのは刑事とされ、岬洋介は、事前にそのことを耳にして遥に伝えたにすぎません。
 ところが、原作の場合、岬洋介が遥に対して、「お母さんを殺したのは君だ」と断定するのです(宝島社文庫P.391)。

(注4)「お母さんが手を握り返した」との連絡が遥の元に届きます。従って、原作と違って、本作の場合、母親についての殺人事件は起こらなかったことになります。そのためもあってでしょう、本作の場合、祖父とルシアの死に対して疑惑が提起されるのだと思われます(そうしないと、傷害事件しか描かれないことになってしまいますから)。

(注5)原作では、遥は、例えば「出鱈目よ、そんなの!第一、何であたしがお母さんを殺さなきゃならないの!」などと岬洋介に反撃します(P.394)。
 これに対して、本作では、遥が自分から岬洋介に、「私、ルシアです。お母さんにあんなことをしたのもあたしです」と言ってしまいます。
 本作の場合、遥が「コンクールが終わったら警察に行くつもり」と言うと、岬洋介は「君がお母さんを突き落したわけじゃない。君が思っているほど罪にはならない」と言います(本作の場合は、不起訴扱いにでもなるのでしょうか)。
 これに対して、原作の場合、岬洋介は遥に対して「いくらなんでも5年は収容されないだろう」と言い、遥も、「当分はドビュッシーの音楽と遠ざかるのだろう。…でも、いつかまたピアノを弾ける日がきっとくる。…だからその日までしばらくお別れだ。さよなら、ドビューッシー」と思います。
 本作の場合、タイトルの「さよなら、ドビュッシー」はどこに根拠を置くのでしょうか?

(注6)これは、昨年見た『私が、生きる肌』でも思ったことですが、表面的な皮膚の移植を巧みに行うことによって、特定の人物の顔を自在に作ることができるのでしょうか?骨格の違いなどによってかなりの制約を受けてしまうのではないでしょうか?法医学における「復顔」とは、頭蓋骨に肉などをつけて行う作業ではないでしょうか(なお、『私が、生きる肌』の場合は、男を女に作り替えるというもう一段階進んだところが描かれています!)?
 本作の場合は、遥を演じる橋本愛とルシアに扮する相楽樹の顔の骨格はかなり違うように思われますが、この辺りは小説ならば適当に誤魔化しがきくかもしれないところ、映画にあっては2人の顔が画面に映し出されてしまいますから、問題があからさまになるものと思います。



★★★☆☆